その場所は俊治が思っているよりも傍にあった。俊治のマンションから見えるビジネス

ホテル。そこに、九条真司はいた。

 部屋は二つのベッドに一つのテレビ。小さい冷蔵庫にクローゼットと最小限の生活が出

来るような場所であり、俊治が思い描いていた『悪のアジト』と呼ぶにはあまりにも寂し

い場所だった。

「意外という顔ですね」

 目の前の椅子に座る男、九条真司を俊治は見つめた。

 灰色に染まり、短く刈り込んだ髪。

 瞳を見透かせない黒眼鏡。

 口の形からその男が心底笑っているのだと、俊治は悟る。

「意外だよ……人を襲わせている元凶に会えるなんてな……俺が今にもお前を倒そうとし

ているとか思わないのか?」

「少しも。君が私を殺せるような人ならば、すでに殺されています。私はあなた方とは違

いますからね」

 それは事実だった。九条を襲うとして、自分の後ろに控える笹川真という人物が自分を

防げるとは思えない。殺そうと思えば、今は絶好のチャンスだった。

『この街の殺戮を止めたければ九条真司を殺すことだ』

 龍二の言葉が頭を駆け巡った。しかし俊治は動けない。

 いくら人外の力を持っている俊治とはいえ、手を出すことは出来なかったのだ。

 人を殺めることへの罪悪感もある。しかしその他に何か、目の前の九条真司という男は

どうやっても殺せないという雰囲気を持っていた。そしてその感覚が本当なのかと、試す

勇気は俊治にはない。

(いくら……俺の手が血に染まってても……人は殺せない)

『サクリファー』はそれこそ人外の魔物だった。元人間とは思えないほどの。しかし九条

は間違いなく人間なのだ。その行為が人間とは思えないほど卑劣で、残酷なことだとして

も、彼は人間に違いないのだ。

 人を殺してしまっては、俊治自身、何か大切な物を失ってしまうような気がしていた。

「今日、君を呼んだのは他でもない。少し話がしたかった」

 九条は椅子から立ち上がると手を差し出した。俊治はその時気付いたが、その手には手

袋がされていた。

「手袋を外さず失礼。これには深いわけがあるのですよ。まあ、聞かないで下さい」

 俊治は訊く気もなかったが握手をする気もなかった。しばらく九条は手を差し出してい

たが、掴まれる事の無かった手を何度か握った後で自分の元へと戻す。その動作一つ一つ

を見ていても、俊治は九条の敵意が感じられなかった。

(本当に……話をしたいだけなのか?)

 一瞬でも気を抜けば襲われるのではという緊張が少しずつ解けて行く。九条にもその気

配が分かったのか俊治に背を向けて、ベランダの窓を開けた。吹き込む風は涼しく、俊治

は肌寒さに体を震わせる。いつの間にか太陽光がほぼ真横から入るようになっていた。

「後二時間もすれば日が沈む。そうすれば、夜の時間です」

「……また『サクリファー』に人を襲わせるのか?」

「違いますよ。彼等が人間を襲うのです」

 九条は眼鏡の中心を中指で上げて位置を戻す。

「確かに『サクリファー』を生み出すのは私、九条真司です。しかし、彼等は自分の意志

で人を襲うのですよ。自分の中の破壊衝動によって」

 九条は高らかに笑い出した。何がおかしいのか分からなかった俊治だったが、やがてそ

の笑いの中に一つの感情が含まれている事に気付いた。

 狂気。

 何も分からない者が彼を見たならば、彼はただおかしいから笑っているのだと思えただ

ろう。俊治でさえ、一瞬そう思えたほどだ。問題は、彼が何に対しておかしいと笑ってい

るかである。

「人の体を好きにして、殺人鬼になった彼等を見て面白いって言うのか?」

 俊治の体の中に怒りによるどす黒い感情が生まれる。今、自分の目の前にいる人間こそ

死んでしまっていい人間なのではないだろうか、と。俊治はいつしか右拳を握り締めて念

じていた。

(炎よ……奴を、焼き尽くせ……)

 まだ夜ではなく、病院での戦いで力を使い切った俊治に炎を生み出すことは出来なかっ

たが、自然と力を欲していた。

 目の前にいる男を殺す力を。

「それが、本性ですよ」

 九条の言葉に俊治ははっとして殺気を霧散させた。九条は笑みを止め、黒眼鏡の奥から

鋭い視線を俊治へと向けていた。見えなくても悟るほどの鋭さ。俊治は自分の体が真っ二

つにされたような感覚に襲われて少し後ずさる。

「高町俊治。君は今、私を殺したいと思った。別に心が読めるわけじゃありませんよ? 

君の顔を見れば一目瞭然ですから」

 九条はポケットに両腕を入れながら俊治に近づいていく。俊治は更に後ろに下がろうと

したが、足が言うことを聞かずにその場に立ちすくむ。そんな俊治に口元だけ笑みを浮か

べながら九条は続ける。

「私の望みはね、自分の手で『完全体』を作り出すこと。赤ん坊から薬を注入して成長さ

させるなどという手間を省いて作り出すこと。そして、君という貴重なサンプルのデータ

を得ることです。君は『サクリファー』が現れて人を襲うならば助けに入るでしょう? 

戦うでしょう? そして見るのですよ、君がどれだけ破壊衝動を有しているか」

「なん……だと?」

「『完全体』を作る薬にはね、自己の破壊衝動を増幅させるような薬も入っているのです

よ。『サクリファー』は失敗して破壊衝動だけが数百倍にも増幅します。しかし、けして

成功例がその衝動を有しないということにはならないのです」

 俊治はあることに考えが及んだ。

 初めて『サクリファー』を殺した時、自分の中に生まれた感情を。

 それは相手を完全に滅ぼそうとする激情。消し炭にしたいと思う破壊衝動だ。

「あの浅倉龍二や都築隆も破壊衝動を抑えてはいますが、やはりいつか暴走する危険性も

含んでいるのですよ。だからこそ、『完全体』はどうなのかを、私は知りたい。病院では

特に変化は無かったようですがね」

 九条は俊治から離れ、再び椅子に座った。足を組み、両手を膝の上に乗せて平然と俊治

を見る。俊治の動揺する様子が気に入ったのか終始上機嫌な声を上げ続けた。

「まあ、私が言いたいのはこれだけです。あなたの疑問に応えることが出来て幸せですよ、

高町俊治君。これからも私の研究にデータを提供し続けてくださいね。では、お引取り下

さい」

 その刹那。

 俊治が助走も無しに九条へと飛び掛った。渾身の蹴りを九条に見舞おうと足を振るう。

 何も考えない必殺の一撃。

 しかし俊治の蹴りは躱されていた。床に着地した俊治は驚愕して振り向く。

 九条は同じ場所に立って、動揺を隠せない俊治を見据えていた。

「今日はもういいですよ。お引き取りください」

 俊治は少しの間動けなかったが、立ち上がると何も言わずに部屋を横切っていく。足取

りは重かったが、部屋から早く逃げ出したいと言う衝動が強かったのか一直線にドアまで

辿り着いた。

「……お前達は必ず止めてやる」

 喉から搾り出すように呟いて、俊治は部屋を出て行った。九条は内から来る衝動を抑え

きれずに高笑いを発した。

「く……はははははははははは……あはははっははっははははははは」

 狂ってしまったかのように笑う九条を笹川真は何も言わずに見ていた。自身も、微笑を

浮かべながら。高笑いを続けたまま九条は椅子に座りなおす。その時だった。

「あれが『完全体』か。あの程度では、研究の結果と言う物もたいした事は無いな」

 九条と笹川、二人だけがいるはずだった部屋の中に第三者の声が響く。二人は笑いを止

めて部屋を見回すと、まるで壁から浮き出たかのように一人の男が立っていた。髪は金髪

で逆立っており、口はガムでもかんでいるのか終始動かされている。目つきは猛禽類の如

く鋭い。体中から殺気を漲らせたその男は九条へと近づいて呟く。

「なあ。あいつ、殺していいか? 俺の力を試したいんだよ」

「……いいですよ? 殺せるならば殺してください。あなたに殺されるようじゃ『完全体』

の価値はありませんから」

「正直な奴だ……了解」

 そうして男は現れた時とは別に堂々とドアから出て行った。それを見送ると笹川は九条

へと言う。

「どうしてあのようなことを? 今の高町俊治には草薙は倒せませんよ」

「少々気になることがあってな。それを確かめるにはあいつはいい捨て駒だ」

 九条は立ち上がってベランダから外を見た。下を見るとちょうど俊治が歩いて行く。背

中に半分絶望を背負いながら歩く俊治を見ながら九条は思い出していた。

(あいつの目は……まだ緋色じゃない)





 俊治は自分の部屋に戻るとすぐさまベッドに横になった。何も考えず、そのまま寝てし

まいたかったが、九条の言葉が正しければ、今夜また『サクリファー』が出てくるだろう。

 九条の言う通り、俊治にはそれを見ぬふりをして何もしないことなど出来ない。

(でもあいつの言う通り、俺にも破壊衝動がある……このまま戦っていたら、いずれ……)

 戦い続けることで自分にある破壊衝動が暴走し、自分も大切な人々を襲ってしまうので

はないかと、俊治は恐怖していた。筋肉が硬直して、寒気がする。

 震える体を両手で力一杯抱える俊治。今の俊治には戦うことなど出来ない。

(なら、戦わないか? そもそも……どうして関係ない人のために戦う必要がある? 俺

は……そう、智子さんや昭英や隼人達が襲われれば戦うけど、赤の他人のために戦う必要

なんて――)

 そこまで思考が及んだ時、携帯電話が着信を告げた。倦怠感から動きは遅かったが、電

話は鳴り止まずにいたので俊治は着信履歴を見る。

 名前は久坂隼人となっていた。

「……隼人」

 思えば襲われて同じ病院に入れられたはずだったが、自分が目覚めた時には隼人も昭英

もいなかった。まだ一日ほどしか会ってないだけなのに、もう何年も会ってはいなかった

かのような感覚に襲われる。

「もしもし」

『やっと繋がった! ……俊治、大丈夫か?』

 俊治の声の調子がおかしいことに気付いたのか隼人は気遣わしげに俊治に問い掛ける。

その心遣いに俊治は胸を打たれた。

「ああ……ちょっと疲れているだけだ。で、何の用事?」

『あの化け物について教えてもらいたくてな』

 隼人の申し出に俊治は硬直する。その気配が伝わったのか、隼人は少し声を暗くして真

剣さを伝えようとする。

『お前ならあいつについて何か知ってるだろう? 俺、実は今日病院に行ったんだよ。そ

したらお前らしき人影が病院から離れていくのが見えた。多分……お前だと思うんだ』

「隼人……俺は……」

『俊治。ここは一つ、俺を信じちゃくれないか? 俺はどんな事を聞かされても素直に、

驚かずに受け止める。お前が暗い声だったのも、その辺りに原因があるんじゃないのか?』

 その申し出はあまりに甘美だった。しかし話せば隼人も巻き込むことになるかもしれな

いと俊治は断ろうとした。その言葉を遮ったのは隼人だ。

『とりあえずお前の家に行くわ。話す話さないに限らず、その声の様子じゃまともに飯も

作れないだろう? カレーくらいは作ってやる。じゃな』

「お、おい――」

 俊治が言い返そうとした時には既に隼人は電話を切っていた。俊治は半分は呆れていた

が、半分は安心していた。今は隼人のあの強引さはありがたかったからだ。どうすればい

いか分からない恐怖に対して押し潰されないために。

(俺が『完全体』ねぇ……こんなに弱い人間なのに)

 俊治の心は決まっていた。





「――んで、話してくれるんだな」

 隼人は買ってきた食材を使って一時間もしないうちにカレーを作ってしまった。俊治は

体がだるかったにも関わらず前に出されたカレーを平らげる。四人分のカレーを二人で一

気に片付けて一段落ついた後、隼人が発した言葉だった。

「ああ。とりあえず腰は抜かさないでくれ」

 そう前置きして俊治は隼人へと語りだす。

 三十年前に始まったある計画。

『ファースト』『セカンド』『サクリファー』そして……『完全体』

 そして俊治は自分の中にある破壊衝動への恐怖も告白した。自分が強いという思い込み

を捨てて、恐怖を免れるために隼人へと全てを曝露したのだ。体裁も何も無い。

 ただ一人の何の変哲も無い個人として。

 全てを聞き終えた隼人は第一声でこう答えた。

「自分に打ち勝つ強さ、か……」

「隼人?」

 心ここにあらずという様子で呟いた隼人は、我を取り戻して俊治に慌てて応えた。

「ああごめん! いや、俺が学んでいる古流剣術にある教えを思い出してたのさ」

 俊治は隼人の言葉にある古流剣術を思い出していた。いつか、彼の実家に遊びに行った

際、立派な刀が飾ってある道場を見学したことがある。古流剣術『倶叉火流』継承者であ

る隼人は幼い時から実践的な古流剣術を習ってきたのだ。

「よく言うだろ? 包丁は野菜を切るためのものだけど、人も刺せる。でも刃物だけでは

『殺す力』は生まれない。ようは、使う人の心だって」

「ああ……」

「俊治は今こそ、考えなくちゃいけないと思う。お前は誰のために闘うのか。誰かのため

だけに闘うなら他の人を見過ごすというのも一つの手だろうさ。でももし、それが嫌だと

思えるのなら……その心の正直になれば良いんじゃないか?」

 俊治は隼人の言葉を反芻した。

 自分は何のために戦い、また何をしたいのか?

 幼い時から今まで、自分は何を望み、何をしてきたのかを考える。

 と、その時だった。

「――っ」

 頭の奥が痛む感覚。

 いきなり頭を抑えた俊治を隼人が支える。

「どうした?」

「奴等……だ」

 時刻は夜九時を回っていた。自分等が大学の帰りに襲われたのもこの時間だったと隼人

は思い出す。

 俊治は痛みを堪えるように立ち上がり、そのまま玄関へと直行した。しかし隼人が早く

前に回りこむと俊治の行く手を防ぐ。

「!? どいてくれ隼人!」

「いや、どかない。答えが見つからないままのお前を行かせたら、取り返しがつかないこ

とになりかねん」

 隼人は本気で言っていた。このまま強引に玄関を通ろうとすれば隼人は全力で止めてく

る。それを俊治自身はどう受け止められるのか。俊治が力を解放すれば隼人の妨害など簡

単に跳ね除けられるだろう。しかし、もし自分の力を加減できずに隼人を傷つけてしまっ

たら、取り返しのつかないことをしてしまったらと思うと、俊治は動けなかった。

「さあ、どうする!?」

 隼人の問いかけが部屋の中に響いた。





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