少女は涙を流しながら必死になって逃げていた。走り出そうとした時に転んですりむい

た膝から血が流れていることも分かる。しかし止まればきっと命さえないだろうと、少女

は本能的に理解した。自分が見たような化け物が実在するのなら、それは当然だ。

(いや……どうして私が? 私、何も悪い事してないよ?)

 少女は今日の自分の行動を思い出す。

 朝、一時間目の授業に遅れていき、それから無意味に授業を聞き、放課後は掃除をサボ

って帰り、友人のまどかの家で夜遅くまで遊んでいた。親は仕事で自分が寝る頃にしか帰

ってこないからと、彼女はタイムリミットぎりぎりまで友達の家にいた。

 今までずっとやってきたことだ。ばれてもあまり怒られる事は無いと確信していた。

 愛を注がれていないわけではないが、それはけして強い絆ではなかった。

 しかし今の少女は心底親に懺悔を繰り返していた。

(ごめんなさいごめんなさい。これからは夜まで遊ばないから! ちゃんと勉強して、ち

ゃんと皿洗いも、家事もするから! だから――)

 少女は突然背中を押されて転倒した。走っていた勢いも相まって電柱へと思い切り激突

し、頭から血が流れる。衝撃に朦朧としながらも、少女は後ろを振り向いた。

「――ひっ!」

 口から悲鳴が洩れる。しかし息を上手く吸えないために大きなものは出ない。少女は呼

吸困難に近い状態になりながらも必死で『それ』から離れようと後ろに這って進んだ。

 少女の目の前にいるのは自分よりも二倍以上ある体躯をした正に化け物だった。

 月明かりの下でも化け物の体は黒く、硬質化した筋肉ははちきれんばかりにたわみ、目

は赤く染まっている。口からは鋭い牙が外に出ていて、耳元まで裂けていた。

『グルゥルォ……』

 びちゃびちゃと、道路に化け物の口から流れたよだれが落ちる。そこに液体が流れて混

ざり合う。少女はあまりの恐怖に失禁していた。少女から流れ出た尿と化け物から流れ出

たよだれは一つに混じり、同じ液体と化した。

 その光景がおぞましく、少女は目から涙を、口からよだれを垂れ流し、ただただ恐怖に

震えていた。恥も外聞も無く、自分の尊厳さえも失いながら。

『グガァアアア!!』

「いやぁ……」

 声を張り上げることも出来ずに自分に突進して来る化け物を見ることしか出来ない少女。

自分が死ぬのだと覚悟した瞬間、化け物の姿が視界から消えた。

(……え?)

 化け物が消えたのかと思ったが、それは間違いだとすぐ気づいた。

 自分の前に人が立っていたのである。どこから来たのかも全く気付かなかったが、確か

にその人物は存在した。男は右手を掲げると化け物が繰り出した拳を難なく受け止める。

少女はありえない光景に驚愕し、更に恐怖を覚えた。

 その人物がつかんでいた部分から一気に化け物の体が灰と化していく。

 苦痛の呻き声を化け物は上げ、そのまま何もいなかったかのようにあっけなく化け物は

消え去ってしまった。まるで本当にその化け物がいなかったかのごとく。

「ふぅ」

 目の前にいた人物が溜息をつく。そして少女を振り返って問い掛けた。

 月光に照らされたその人物がどうやら男で、自分よりも年上だと言うことは少女にも分

かった。そして、自分とは違う人間だと言うことも理解していた。

 現実にいた化け物。

 そしてその化け物をどうやってか分からないが消し去ってしまった――化け物。

 少女の精神に現実が鈍い痛みと共に針のように突き刺さる。

「大丈夫か?」

 しかし少女は答える事が出来ない。その様子を見て、その人物は屈みこんで少女を助け

起こそうとした。差し出される手。

 それは化け物の手を受け止めた右手であり、化け物をかき消してしまった右手。

 少女の目にはその手が血塗れになっているように見えた。実際には綺麗な手だったが。

「――いやぁあ!」

 少女は、差し出された手を払いのけて立ち上がり、走り去った。よろめきながら、しか

し後ろを振り向かず必死に走っていく――逃げ去っていく。

 走り去っていく少女を無言のまま見送った後で、男はまた溜息をついた。

「助けた女に逃げられるなんて、悲しいやな」

 不意に響いた声に男は辺りを見回す。ふと視線を上に向けると、電柱の上に男が立って

いた。髪は逆立った金髪。鋭く相手を睨みつける瞳。皮のジャケットをはおり、下はジー

ンズ。ジャケットの中は緑のタンクトップ。そして、その下にある筋肉は張りがあり、け

して飾りの筋肉ではないと確信できるほどだ。

 電柱の上にいた男は軽く宙に身を放ち、地面へと降り立った。

「所詮人間なんてそんなものよ。人外の奴に助けられても恐怖しか残らないのさ」

「……そう言うもんだろ? 当たり前の事を言うな」

「そう思うなら、何故そんなに辛そうに言うんだよ、高町俊治」

 男――俊治は相手の言葉に顔をしかめた。自分の心を貫く言葉。

 分かってはいても拒絶される辛さは変わらない。

「俺は草薙勇士(くさなぎゆうじ)。俗に言う『ファースト』って奴さ。最強のお前を殺

して、俺がナンバーワンになる」

「……何だと?」

 俊治は疑問を口にしようとしたが、草薙は両手を腰溜めに構えて戦闘態勢を取るとすぐ

さま行動を開始した。俊治を屠るための行動を。

「行くぞぁ!」

 声と同時に突進する草薙。その移動スピードは常人ならば全く見えない。大砲の砲撃音

のような音が空気を切り裂いて草薙の姿が見えた時、二人の位置は重なっていた。

 草薙の右フックを俊治がガードで受け止めていた。すぐに草薙は飛びのいて今度は左半

身を俊治に向けた態勢を取る。

(……俺の攻撃を受けただと? やるじゃねぇか)

 俊治も草薙と同じように左半身を向けながら相手の攻撃に備えて構えを取った。その内

心の動揺を何とかして外に出さず打ち消そうと必死だった。

(動きが見えなかった……気配で何とか分かったけど、まぐれはそんなに続かないぞ)

 俊治は次の手を必死で考えた。周りにある物もなにか使えないかと視線を泳がせる。

 刹那、声が耳元で聞こえた。

「油断大敵だぜ」

「!?」

 俊治はその場から思い切り飛びのいた。右耳の傍を轟音を上げて草薙の拳が過ぎていく。

飛びのいて数度道路を転がってから立ち上がろうとした俊治だったが、不意に眩暈に襲わ

れてその場に崩れ落ちる。

「な、何だ……?」

 必死になって立ち上がろうとするが、体は言うことを聞かず、ただ震えるだけ。そんな

俊治を見ながら草薙は言った。

「風圧で耳をやられたのさ。三半規管が麻痺してるぜ?」

(!?)

 俊治が言われて右耳を触ってみると、血が流れていた。草薙の拳の風圧が鼓膜を破り、

三半規管を揺さぶったのだ。今の俊治の回復力ならばすぐに治るが、その僅かな時間でも

草薙には充分すぎるだろう。

「あっけない終幕だが、まあいい。もう少し骨がある奴かと思ったが……」

 草薙が走る。一瞬で俊治の傍に現れると右拳を高く掲げて座り込む俊治を見据えた。

「あばよ、『完全体』」

(殺られる!!)

 俊治の目に大きく映る草薙の右拳。しかしその拳は横手から現れた手によって受け止め

られていた。

「……てめぇ」

 草薙が苦々しく自分の拳を止めた人物へと呟く。その人物はそのまま俊治から離れつつ

言葉を紡ぐ。

「お前が九条が作った『ファースト』か。そんなレベルじゃ力を引き出したとは言えん」

「浅倉龍二ぃい!」

 草薙は龍二に憎悪を込めた瞳を向けるが、龍二は構わず無造作に草薙の手を離した。草

薙は掴まれた腕を抑えながらも敵意を込めた瞳の強さは変わらない。月が雲に隠れて闇が

増した周囲に反比例して二人の瞳が緋色に輝く。

「はっ! 初期に出来た骨董品に、俺は負けん!」

「試して……みるか」

 左手で右手首を掴み、指を鳴らす龍二。対して両腕の筋肉を最大限にたわめる草薙。二

人の殺気が膨れ上がって周囲の空気を張り詰めさせる。

 二人が動こうとした瞬間に、炎が二人の間に走った。龍二と草薙が視線を向けるとその

先には俊治が左手を掲げている。

「二対一じゃ、分が悪いだろ?」

「……ま、そうだな」

 あまりにもあっさりとそう言った草薙に俊治は一瞬、呆気に取られた。その瞬間に草薙

は飛び上がって電柱の上に立つ。見上げる二人に対して草薙はにやつきながら言った。

「勝負は次にお預けだな。まあいい。すでに次の『完全体』候補は見つけてあるしな」

「何だと!」

「……」

 驚きを見せる俊治に、何も言わない龍二。草薙は両者の反応を楽しみながら笑い、姿を

消した。後を追うことも忘れて俊治は草薙の言葉の意味を考える。

(次の『完全体』候補……?)

 妙な胸騒ぎがしたが、それもサイレンの音にかき消される。パトカーがこちらに向かっ

ている事に気付き、俊治は龍二に視線を向けたが、すでに彼はいなかった。俊治もすぐに

その場から走り去る。胸の内に嫌なしこりを残しながら……。





 帰ってきた俊治を見て、隼人は心に痛みを覚えていた。俊治の顔は憔悴しきっていて、

肉体的よりも精神的なダメージを負っていることは明白だったからだ。しかし隼人はそう

分かっていて、何も言わなかった。

「おかえり」

「……ただいま」

 隼人に答える俊治の声は暗い。しかし力は失っていなかった。ベッドに腰をおろして一

つ溜息をつく。ひどく疲れてはいる様子だが、けして絶望からの吐息ではない。俯いてい

て隼人からは顔が良く見えなかったが、それでも言葉から俊治の思いは理解できた。

「約束通り、守ってきた」

「そうか」

 隼人が俊治の前に立ちはだかった時、俊治は考え抜いた末に言った。



『答えなんて分からない。ただ、今は人を助けたいって気持ちを大事にしたい』



 その答えに隼人は笑みを浮かべて道を譲ったのだ。

 俊治は隼人に向けて言葉を紡ぐ。

「少女だった。殺されそうになっていたところを助けて……悲鳴を上げて逃げられたよ。

彼女にとっては、俺も『サクリファー』も変わらないって事だな」

 隼人は何も言わない。俊治の言葉をただ黙って聞いている。その瞳に力強い光をたぎら

せて。俊治にはその目が全てを語っているように思えた。

「俺がやろうとしている事は誰も理解してくれないだろう。俺も人外の一人として、皆は

見るだろう……でも、俺は、それでも『サクリファー』から皆を守る。彼等も被害者だと

言うことも忘れない」

 俊治は顔を上げて隼人を見た。瞳に迷いは微塵も見られない。その瞳に、隼人は満足し

て笑った。

「お前の苦しみを俺は理解できない。だが、いつでも弱音は聞こう。俺はお前なら、この

狂気じみた事件を何とかできると信じてる」

「……ありがとう」

 俊治は思わず涙ぐんだ。いつも以上に隼人が輝いて見える。隼人はそんな俊治を尻目に

冷蔵庫へと向かい、ビールを取り出した。自分が買った覚えの無いビールに俊治は思わず

疑問を口にする。

「なんでビール?」

「お前が帰ってきたら勝利祝いで飲もうと思って買ってきた」

「……くっ……ははははは」

 俊治は隼人のその行動に笑ってしまった。ただただ、笑っていたかった。先ほどの少女

の恐怖に歪んだ顔を、やはり覚えていたから。絶望に沈まないと誓っても、やはり痛みは

残ったから。だから笑っていたかった。





 浅倉龍二は自分のマンションに戻り、暗闇の中で煙草を燻(くゆ)らせていた。暗闇に

浮かぶ煙草の先の赤い光。自分の緋色の瞳よりも赤い光。その光を見ながら龍二は物思い

にふけていた。

『完全体候補は見つけてある』

 草薙勇士が言った言葉。それは龍二の心の中に一つの確信を持たせた。

「そうか。あいつが、『完全体』か」

 龍二は明かりをつけ、煙草を消すと自分の机に向かった。一番下の引き出しを抜き出し、

奥を探る。取り出したのは入院患者のカルテだった。その中からいくつか選び出して矢継

ぎ早に見ていく。やがて一人のカルテに眼が止まった。そこに書かれた情報を素早く読み

取っていき、龍二はカルテを放りだして高らかに笑った。

「はっははは! これで俺の望みが叶う! 生まれてからずっと、抱いていた夢が!!」

 龍二は他人から見れば常軌を逸したかのごとく笑い続けた。数分か数十分か。

 笑いが尽きた後で、龍二は散らばったカルテから一枚取り出すと不敵に笑う。

「あの草薙が『ファースト』なら……『響』や『氷室』も可能性は高いな。警戒はしてお

こう」

 龍二が持つカルテ。

 そこに書かれていた名前は、草薙勇士の名だった。





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