第二章『闇の過去』





 闇の中に一筋の光が走る。

 それは無論、闇を斬り割けるはずもないのだが、じっと見てみれば一瞬だけ闇が裂けて

いるように思える。そこに急に光が入り込む。何の事はない、第三者が部屋の電気をつけ

たのだ。

「また……一人で考え事?」

 上月恵美華は感情を表さないように注意しながら言う。しかし少しだけ洩れ出た感情に

は悲しさが含まれていた。

「別に」

 隆は抜いていた刀を納めると恵美華の横を通り過ぎて部屋から出て行った。恵美華は部

屋の中を一通り見回す。あたかも隆が思い描いていた物がまだこの空間に残っていて、そ

れを捜し求めるかのように。その行為が無駄なことだとは分かっていた。しかし彼の心に

ある物を探し当てたいと思うのも自分の感情だと、恵美華は分かっている。

「九条真司か……」

 恵美華は呟き、部屋を後にした。



* * * * *
「結局、昨日は何があったの?」  切原智子はベットから倦怠感と共に起き上がり、キッチンに体を向けている俊治に尋ね た。鼻に入る匂いからも、この少年が自分と子供のゆかりに食事を作っているのだという ことは理解できた。だからこそ、いきなりの状況が不思議に思い、尋ねたのだ。無論、女 として俊治に何かをされたのではという思いが過ぎらなかったわけはなかったが、彼女の 俊治への信頼は思った以上に大きかったのだ。 「さあ。智子さん、公園に倒れてたからね。俺が行った時には」  嘘は言っていない。確かに俊治が行った際には智子は倒れていた。そして、助けたのは 自分ではなく浅倉龍二だ。 「……なんで倒れていたのか記憶がないんだけど……でも俊治君に見つけてもらって良か ったわ」  俊治はその言葉に顔が赤くなった事を自覚した。この状態で振り向いたら間違いなく不 審に思われる。しかし何とか時間を稼ぎたかったが、作っていた目玉焼きはちょうど出来 上がった。すぐに持っていかなければ余計に怪しまれる。 「ご飯、出来ました」  俊治は皿に乗せた目玉焼きを持ってテーブルへと歩いた。智子もベッドから起き上がる と少しふらつきながらもテーブルに向かい、椅子に座った。目の前にはご飯と目玉焼きに 味噌汁と日本風な食卓となっている。 「凄いわね。さすが一人暮らし」 「これくらいは」  俊治も智子の向かいに座って手を合わせると食事を始めた。智子はテレビをつけてニュ ースを見る。レポーターが憤りを感じると言いながら殺傷事件の取材をしていた。  世間は成城市連続殺人事件に注目を集めている。その事件が報道されない日は最近はな い。俊治としては智子の記憶が事件のニュースを見て戻らないかどうか心配だった。 (記憶がないのは幸せだ。知らないほうが、いい……)  そう思って俊治は隆が自分に言ってきた言葉を思い出した。 『今日の事は忘れろ』『知らないほうが幸せだ』  思えば、彼は自分をこうやって事件から遠ざけようとしていたのではないか。最初、彼 の事を危険な男だと思っていたが、彼は彼で、自分を守ろうとしていたのではないだろう か。何故、そんな事をするのか分からないが。 (『完全体』……とか言ってたな……。俺は完全体。何の『完全体』なんだ?)  物思いをしながらも、俊治は朝食を食べ続けていつの間にか全部無くなっていた。 「ご馳走様でした。俊ちゃん、お婿さんに行っても大丈夫だね」 「だーね」  智子は笑顔を浮かべ、ゆかりもその隣でにこにこと笑っている。近所のお兄さん、と俊 治をもう認識できているのか分からないが、俊治の存在をよくは思っているらしい。 「ありがとうございます」  俊治は智子の言葉が嬉しかった。そして、やはり智子にはこの事件の外にいてほしいと いう思いが生まれる。  その思いが打ち砕かれたのは一本の電話からだった。  食後のコーヒーを俊治が作っている時、電話が鳴った。智子が電話を取ると、少し弾ん だ声を出した。 「あら、浅倉君。久しぶりねぇ」 (浅倉――!!)  俊治の動きが止まる。智子は弾んだ調子の声を隠そうともせずに話し続けている。しか し俊治の心の中はざわめきを抑えることが出来ない。  浅倉。  苗字だけだったが、なぜか確信を持って一人の男を俊治は想像した。  自分を診た医者。  そして――昨日の夜にあの化け物を『握り潰した』男。 (浅倉、先生)  俊治の中で言い知れぬ不安が生まれた。つい先ほど、智子には事件の外にいてほしいと 思ったばかりだ。だが、その願いが叶わぬものとなるのも早かった。  智子が電話を置くこととコーヒーメーカーがコーヒーを作り終えるのは同時だった。  俊治は動揺を隠しつつ、二つのコーヒーを持ってテーブルに置いた。智子はまだ微笑ん でいる。俊治の入れたコーヒーを飲んで「おいしい!」と言うと立ち上がった。 「何かお茶菓子みたいなもの用意するね」  そう言って棚の中を探している背中に、俊治は問い掛けた。 「智子さん。電話の相手って……」 「あら、やきもち?」 「そうじゃないけど……」 「浅倉君は成城中央病院の医者よ。わたしの父親と、彼の父親が知り合いで、わたしも小 さい時は一緒に遊んだのよ。久しぶりに電話をくれたんで嬉しくなったわ〜」  智子はクッキーを見つけ出してテーブルへと持ってきた。俊治の心の中の不安はまだ消 えない。それがやきもちだと勘違いされてもいいと、俊治はさらに言葉を続けた。 「何の用だったんですか?」 「え? ああ、久しぶりに会いたいって。お互いの親が死んでもうすぐ二年経つし」  智子は平然と言ったが、それまでにはやはり辛い思いがあったに違いない。その時、俊 治の中にふと何かが過ぎった気がしたが、すぐに忘れてしまった。それよりも俊治には確 かめなければいけない事がある。 「浅倉先生の連絡先って分かります?」  浅倉龍二は電話を切った後でため息をついた。二年ぶりに会話をしたという、久しぶり に会いたいという雰囲気を出すのは昨日姿を見た自分にとっては少し辛いものだった。  椅子に体を預けて目と閉じる。 「智子は、巻き込みたくなかったんだがな……」  その声は前日に俊治に向けたものとは明らかに違う、優しさが含まれた物だ。  ふと、風の流れが変わる。  龍二は後ろを向かないまま、自分の部屋に現れた人影に話し掛けた。 「高町俊治は『完全体』だったというわけか」  都築隆は抜き身の刀を持ったまま、いつでも浅倉へと斬りかかれるように筋肉をたわめ ている。しかし龍二は気にせずに立ち上がった。隆に体勢を整えていても、殺気がない事 に気付いていたからだ。 「ああ。ようやく見つけた。あいつの引き取られ先から何から全てを調べて、この街にい る事は突き止めた。そこからは通院記録を洗おうと思ったが……なかなか見つけられなく てな。俺も見つけたのは二日前だ」 「あいつが『サクリファー』に襲われていて、俺が助けた時だな」  隆は刀を鞘に戻して腕を組んだ。龍二も隆へと振り向く。二人の男はしばらくお互いを 見ていたが、どちらからともなく視線を移した。 「あいつが『完全体』ならば、俺がやることは一つだ」  隆はきびすを返して部屋に入ってきた時と同様に窓から出て行こうとした。その後姿に 浅倉は懐かしいものを覚える。髪を腰まで伸ばし、柔和な笑みを浮かべていた、一人の女 性の姿を。 「秋葉の敵を取るまで、お前は手を汚すんだな」  龍二の口から洩れた名前に反応して、隆の動きが一瞬止まる。その金縛りもすぐに消え て、隆は姿を消した。  最後に言葉を残しながら。 「当たり前だ」  龍二は再びため息をついて窓を閉めた。十月の風はけして寒くはなかったが、今の彼に は心の底まで冷えるように寒い。それが過去への感傷から来るものなのか、何か別のもの のためかは分からないが。  窓の外は何も知らない人々が歩いている。この街で起こっている連続殺人事件が、この 街を壊滅させうる可能性を含んでいることなど、誰も知らない。夜に出歩かなければ殺さ れないだろうという幼稚な考えによって。  夜に煌く殺戮の刃はけして日の目を見ないという幻想の上に、彼らは生きているのだ。 「俺は正義の味方じゃない。『完全体』も、『サクリファー』も。そして九条真司も俺の 敵でしかない。奴等を殺せれば、それでいい……」  龍二の思考を中断させるように、電話が鳴った。龍二は数秒、電話を見つめた後で受話 器を取った。電話の主に一人、可能性がある者が思い浮かんだからだ。そしてその相手は 電話に出るなり言ってきた。 『昨日の事で、話したい事があります』 「高町俊治君だね」 『もう芝居しなくていいですよ。昨日のように、話してください』  電話の向こうで自分に対する敵意を隠そうともしない俊治に龍二は笑った。なんと言う 無謀さだろうか。昨日自分を襲った敵に対して真っ向から挑もうというのだ。  それも若さが成せる技だといえばそうだろう。  自分よりも六歳しか下ではないが、そして自分が完全な大人だと言える年齢でもないが、 それでも俊治のやり方は龍二から見れば幼稚だった。 「そうだな。何の用だ?」  しかし、そんな俊治に龍二は好感を抱いたのだ。 『あなたに聞きたい事があるんだ。あなたは全てを知っている。この街で起こっている事 件の真相を。そうじゃないんですか?』 「今の事件の説明というのは……まあ、無理だな。俺が主犯というわけじゃないんでね。 しかし昔話をする事は出来る」 『なら、その昔話を聞きたいです』 「いいだろう。今日の――午後四時に病院を訪ねてくれ」  龍二は今日の予定を書いた手帳を眺めてから言った。俊治もそれに同意し、電話を切る。 (ほとほと、来客が多い日だな)  龍二がそう思った時だった。病院を取り巻く、邪悪な気配を感じたのは。 「本当に、来客が多い……」  龍二は両手に力を込めた。窓を破って自分に襲い掛かってきた『サクリファー』へとみ なぎる殺気を解放して―― 「――痛っ」  俊治は突然頭に響いた痛みに顔をしかめた。幸い、頭痛はすぐに治まったが、今度は言 いようのない焦燥感が自分の内から生まれる。それはつい昨日感じた物と同じだった。 「どこか――あの化け物が出ている」  俊治はまずテレビを付けた。昨日ともし同じならば、速報で入っているのかもしれない。 それは正しかった。テレビのニュースはいきなり叫び声から始まっていた。 『速報です! 今現在、成城中央病院で何かが起こっていることは間違いないようです! そこかしこで爆発音が響き、入院患者も逃げ出してきています。現在ではその患者達の波 のために警察も即座には現場に迎えない状況にあります――』  俊治はテレビを消すとジャンバーを羽織って外へと飛び出した。体の奥底から湧き上が ってくる熱に逆らわず、全てを委ねる。 (俺の中の力……今度こそ、目覚めてくれ!)  俊治は気合の声を上げてマンションから飛び出した。一瞬の浮遊感。そして下の家屋の 屋根に降りる。ちょうど事件の速報のために外に出ている住民はいなかったために姿は見 られていない。  四階から飛び降りたにも関わらず、俊治の体には何の異常もない。俊治は確信して、更 に跳躍して屋根を伝っていく。視線の先には中央病院があった。  傍目から見ても何か以上が起こっている事が分かるように、黒い煙が空へと昇っていた。  現場の近くに行くと流石に野次馬達がいるために、俊治は屋根から下りて後ろに加わっ た。今は大分整理されているが、それでもまだ警察は駆け込めるような状況ではないよう であり、まだあと十分はかかるという声が聞こえてくる。 (全てを終わらせるのには……五分弱)  俊治は覚悟を決めると意識を集中し始めた。自分の力の使い方を知ったわけではない。 しかし、何故かこうすれば、このような事になるといった情報が自分の内から生まれてく る。俊治は自分の能力を解放した。  待つこと、一分もせずに俊治は目を開ける。  周りにいた人々は全て地面に倒れていた。野次馬も、逃げてきた患者も、警官でさえも。  俊治の体には逆に強いエネルギーが宿っている。  俊治は悟った。自分が彼らの『力』を吸い取ったということを。 「次の増援がくるまでは、後十分くらいか」  俊治は倒れている人々の間をぬって、凄まじいスピードで走り出していた。


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