「智子、さん……」

「気安く名前を呼ばないで。汚らわしい」

 智子は再び手を振り上げて俊治の頬を払った。さほど強い一撃ではなかったが、俊治は

傷ついた表情を浮かべて後ずさる。そこで右手をがっしりと掴まれた。それは振り返らず

とも美琴だと分かる。

「あなたがドア越しに言った言葉が、どうも遺言めいてると思って。まさかこのまま死ん

で逃げる気じゃないだろうかって思って、必死になって場所を探したのよ」

「に、げる?」

 俊治は動揺して言葉が詰まる。

 冷静になって見てみると、智子の上着は汗で濡れていた。顔も化粧をしている様子はな

く、言葉通り必死になって場所を探したのだろう。俊治達が闘っている最中ずっと。

「死ぬなんて……許さないわ」

 純粋な怒り。

 その中に優しさなど他の感情を見出すことが出来ない怒り。

 完全なる負の感情をぶつけられて俊治は、先程まで浴びていた殺気よりも恐れ、体を震

わせた。

「どうし、て?」

 そしてただ分からなかった。

 自分のせいで浅倉龍二が死んだと、俊治が殺したのだと智子は思っているはずだった。

だからこそ怒りを受ける気はあったし、弁解する気もなかった。自分の死を最も望んでい

るのは彼女だと思っていたのだ。しかし今はその智子が死ぬなと言う。

 俊治は混乱して体の力を抜いた。

「あなたが……僕を殺さないと、気がすまないんですか?」

「あなたを殺して気がすむわけないでしょう? あなたなんて数の極限まで殺しても殺し

足りないわ」

 俊治の言葉は一瞬で切られる。どこまでも智子にあるのは怒りだけ。ならば、何を俊治

に望んでいるのか?

 生。

 生きること。

 先程から美琴も自分を止めていた。自分が生きているから、こんな狂気を含んだ事件が

起こったというのに。

「あなたが死んだら、こうして殴れないでしょう?」

 滑るように歩いてきた智子は三度手を上げた。振り上げた手はしかし、俊治の前に出た

美琴が抑える。智子は美琴を一瞥し、手を抑えられたままで俊治へと言い放った。

「あなたはわたしの怒りを受け続ける義務があるのよ。あなたの命ごときで浅倉君が死ん

だ事の償いになんてならない。死んでしまった人を恨み続けるなんてわたしには出来ない。

生きているからこそ、わたしの前からあなたが消えても、どこかでのうのうと生きている

んだって思うことで、怒りをあなたにぶつける事が出来るのよ」

 智子の言葉に容赦は無かった。しかし美琴は腕は止めているが言葉は止めていない。

 俊治はただ動かずに聞いていた。

「あなたは生きなさい。でも二度とわたしの前には姿を現さないでね。それだけ守ってく

れればどこでどうなろうと知ったことではないわ。ただ、自分で死ぬことだけは許さない」

 智子はそこまで言うと美琴の拘束をゆっくりと外してから背を向けた。俊治も美琴も、

去っていく智子を止める気にはならない。

「時間が経てばこの思いも薄れるでしょう。でも一生、心のどこかであなたを憎み続ける。

それが、わたしのあなたに対する復讐よ。覚悟しておきなさい」

 最後にそう言って、智子は俊治達の視界から消えた。

 しばらく誰もが動かないまま時が流れる。その中で俊治はその場に崩れ落ちた。

「うう……ううう!!」

 嗚咽をかみ殺すことが出来ずに涙を流し、口を手で抑えながら地面を濡らす。美琴や恵

美華、隆はいつしか俊治の周りに集まっていた。

「そうだな。お前は――いや、俺達も、もう安易に死ぬことは許されん」

 隆が静かに呟く。

「あなたが死んでも起こったことは消えないよ。あなたは事実を受け止めなければいけな

い。あなたがいたことで、起こってしまった事実を。死に逃げちゃいけない。私達も、事

実を背負って、生きていくよ」

 恵美華の言葉は感情を感じさせず、ただ事実を語っていた。意図的にしているのかそう

でないのか。俊治は顔を上げて恵美華を見ようとした。そこで頭を美琴に包み込まれる。

「支えるなんておこがましいこと言えないかもしれないけど、それでも、ほんの少しでも

支えたいよ」

 美琴の言葉は俊治の胸を打った。同時に理解する。

(やっぱり、俺はここに帰りたかったんだ……)

 場所はあった。

 どこにも無くなってしまったと思えた場所が。

 自分が望んでいた場所が。

「う――ああああああ!!!」

 俊治は泣いた。死ななくてもいいのだという安堵感と、死に逃げずにこれから罪に対し

て生きていかなければいけないという恐怖感の二つに挟まれ、精神が遂に悲鳴を上げた。

 しかしささくれだっていた心は平穏を取り戻していた。美琴の腕に抱かれ、美琴の体温

が冷え切った心を暖めてくれたかのように。

 ひとしきり泣いて、俊治は嗚咽を止めた。ゆっくりと自分に回された美琴の手を外して

立ち上がる。

「――大丈夫。もう、大丈夫。生きて、みるよ」

 俊治の言葉に三人は三様の安堵を見せた。そして一歩、隆が進み出る。

「高町俊治」

 名前を呼び、隆は鞘に収まった刀を差し出してきた。

「頼みがある。力が残っているならば、この刀を消してくれないか」

「!? 隆!」

 恵美華が驚きに声を上げる。俊治は美琴には分からないが、恵美華にはその刀が姉との

思い出だと言うことが分かっていた。隆はしかし恵美華に頷き、すぐに俊治に向き合う。

「これは九条真司を殺した時に折れた。もう役目を果たしたんだ。出来れば、安らかに眠

らせてやりたい」

「……いいん……ですか?」

「ああ。もう『サクリファー』は現れない。いや、現れても俺にはまだ力が残っている」

 隆の笑みを、初めて俊治は見た。初めて遭遇した時から常に自分に対して厳しい顔を向

け続けた隆。数少ない遭遇を脳裏に甦らせながら、俊治は刀を手に取った。

「それに、刀はあくまで道具だ。その刀と共に歩んだ事実は、俺自身に刻まれている」

 隆の言葉に俊治は納得した。また恵美華も隆の隣で納得したのだろう。もう刀に対して

何かを言うことは無かった。

 俊治は目を閉じて右手に力を集中させる。それが自分の中に残る最後の力なのだと理解

していた。力が発動する気配に眼を開ける。

 手に持っていた刀はもうどこにもなかった。静かに、その生涯を閉じていた。

「ありがとう」

 それは消え行く刀へと言ったのか俊治へと言ったのか。隆の呟きは風に乗ってすぐに消

えていった。

「……帰ろうか」

 呟く俊治。しかし俊治は急に遠のく意識を引き戻せず、その場に崩れ落ちた。



* * * * *
『エピローグ』  俊治は差し込む光に目を開けた。昨日、自分が何をしていたのかを思い出そうとして頭 が痛み出す。体は気だるく、頭痛が消えない。痛みは思考を鈍らせ、体へと命令を伝える のに時間を要した。  少しの間、ベットの上でじっとしていた俊治は体をようやく外へと歩かせる。 (いってぇ……)  頭を振りながらバスルームへと向かう。熱いシャワーを浴びれば脳も覚醒するかもしれ ない。そしてバスルームに続くドアを開けて入った時、ドアに足の小指をぶつけた。 「――!?」  声にならない声を上げてうずくまり、足の小指を抑える俊治。その瞬間、前日の記憶が 甦ってきた。 「……飲み過ぎたな」  俊治は前日に行われた謝恩会で飲んだ酒の量を思い出していた。あまり飲めないにも関 わらず仲間と共に浴びるように飲んだ。そして記憶が無い。  自分の格好を見下ろすと前日に来ていた服そのままだった。何とか家まで辿り着き、玄 関の鍵をかけてからベットまで辿り着き、そのまま寝たということだろう。 (とりあえずシャワーだな)  服を脱ごうとしてチャイムが鳴る。動作を止めて少しの間ドアを見ていたが、やがて足 をドアへと向ける。 「はい」 「あー! 起きてた起きてた! おはよう」 「……美琴さん」  俊治はドアを開けて美琴を部屋の中に迎え入れた。春用のコートに身を包んで美琴は体 を微かに震えさせている。最初は寒いのかと思った俊治だったが、美琴の顔色を見てその 考えは変わった。 「美琴さんも飲みすぎですね」 「俊治君もね」  そのまま美琴は部屋の中を見回して感心した声音で呟いた。 「ちゃんと準備は整ってるのね」 「ええ。昨日は飲み会って分かってたんで、一昨日に準備は終わらせました」 「じゃあもう少しで業者がくるんじゃない? そんな格好で出るの?」 「もちろんそんなわけにも行かないんで、シャワー浴びてきます。その間に来たら、お願 いします」 「りょーかい」  敬礼する美琴を微笑ましく思いながら、俊治はシャワーを浴びるためにバスルームへと 向かった。  あの狂気じみた事件から五ヶ月が過ぎていた。どこまでも政府が隠していたのか、事件 がおおっぴらに報道されることも無く、あの当時に流れていた連続失踪事件、殺人事件の 話題は時の流れに消えていった。  すでにこの市の人々の中では終わってしまった事件。  俊治はシャワーを浴びながら思い返していた。自然と右手と左手を何度か握り、見る。  確かに誰もが忘れてしまったのかもしれない。しかしそれは現実にあった。  大学は結局十一月から再開し、俊治や美琴は普通の大学生活へと戻った。  俊治は卒業研究を続け、美琴もまた講座の中で自分の役割をこなす。  ただ、俊治の隣には昭英も隼人もいない。三人いた四年生は俊治一人だけだった。  昭英は無論、あの事件のために死んだ。  隼人は意識不明のまま年を越し、新年も数日過ぎてからようやく目が覚めたらしい。し かし体に負ったダメージは深刻で、リハビリを続けながら病院で卒業研究の論文をまとめ ていた。意識を失うまでにやっていた研究と、俊治や美琴の助力と、石原教授の支援によ ってなんとか形にまとめて、昨日、大学を卒業した。式に出ることは出来なかったが。 『昭英もお前も四月からいないんだな』  卒業証書を届けに行った際、隼人は寂しげに言っていた。 『あんな事件無ければ、お前も院に進んでいたんだろうにな』 『まあ仕方が無いさ。仕事の合間にでもメールするよ。寂しがり屋には』  笑いあう俊治と隼人。しかし俊治は隼人が元の体力を取り戻すために必死になってリハ ビリを続けていることを知っている。大分戻ってきていても、おそらく復帰は四月以降に なるだろう。だからこそ、笑っていられる隼人の強さに、俊治は尊敬の念を抱いた。 (隼人も生きようとしている。人間として。なら俺は――)  俊治はシャワーを終えてタオルで手早く体を拭くと用意してあった服に着替えた。チャ イムが鳴るのが聞こえたからだ。やはり引越しの手伝いをしてくれるとはいえ、手続きま でやってもらうわけにはいかない。  引越し業者に応対しようとする美琴を制して、俊治はドアを開いた。  三時間ほどで部屋にあった荷物は全て引越し用トラックに詰め込まれていた。細かい手 続きを終えて、走り去っていくトラックを眺めながら俊治はため息をついた。 「ようやく一段落だね」  美琴が近くのコンビニで買ってきたのだろう、飲み物を手渡してきた。一言礼を言って からプルを開けて一気に喉に流し込む。 「――ぷはあ」  業者は荷物を運ぶが、自分でまとめて積みあがっていた荷物を運びやすいように俊治も 業者に混じって働いていた。美琴も部屋を持ってきた雑巾で拭くなど最後の部屋掃除をし たことでうっすらと汗を掻いている。春先の空気はそんな二人には気持ちよかった。 「電車の時間、三時半だったよね」  腕時計を見ながら美琴が尋ねる。俊治も自分の時計を見て時間を確認してから言った。 「はい。ジャスト一時間後。ちょうどいいですね」 「駅まで送っていくわ」  美琴が車のキーを回しながら愛車へと歩いて行く。俊治は手荷物を持って美琴について 歩こうとした。その時、マンションから出てきた人影に身を硬直させる。 「……智子さん」  切原智子はきつい視線を俊治に向けていた。腕の中にはゆかりがいて、その無垢な瞳を 俊治に向けている。美琴は智子の存在に気付いて駆け寄ろうとしたが、動きを止めた。  同じマンションでも智子とは五ヶ月間会っていなかった。他の場所に移ろうと思えば出 来たのだが、結局出来なかったのだ。  死のうとした時に言われた言葉。  彼女の怒りを受け続けるには隣にいたほうがいいだろうと思ったから。 「行くのね」 「……はい」  言葉には相変わらず怒りが含まれている。しかし、以前に比べて何かが違っている気が 俊治にはしていた。 「ゆかりが、お別れを言いたいって」 「ゆかりちゃんが?」  俊治が驚くと同時にゆかりが手を差し出してきた。 「ばいばい。おにーちゃん」  ゆかりが手を差し出してくる。何も知らないゆかり。自分がとろうとしている右手は様 々な者達の未来を奪ってきた。たとえ必要であったとしても、それは真実。血に塗れた手 でゆかりの手をとるか否か、俊治には判断できなかった。困ったように自然と智子へと視 線を動かす。智子は少しだけ破顔して言った。 「子供は、関係ないから」  その言葉に俊治は胸の奥に何かが広がっていく気がした。差し出されている手を静かに 握る。幼い子供特有の柔らかい手に触れて、上下に動かす。 「じゃーね!」 「……じゃあね」  俊治はそのまま早歩きで美琴のところへと向かった。智子とゆかりはもうマンションへ と入っていると気配で分かっても、バッグを抱えて車の座席に滑り込む。美琴は何も言わ ずに運転席に座ると車を走らせた。 「……頑張ったね」 「……」  俊治は涙を手で拭った。様々な人の生を奪った右手と、これから生きていく活力に満ち た右手が重なった時、俊治は思ったのだ。  生きるとはこういうことなのだと。  何がどう、という具体的な物は無い。しかしそれでも俊治の中に何かが残っていた。  小さい命に教えられたことがとても尊いことだと感じ、俊治は涙をこらえることが出来 なかった。  俊治は両手を見る。  完全に消え去ってしまった滅びへの力。しかしその力を行使してきた事実は自分の中に 残り続ける。都築隆は刀を手放し、しかし自分の中に事実は刻まれていると言った。なら ば自分もそうなのだと俊治は手を握った。掌に乗っていた数々の記憶を自分の中へと仕舞 いこむように。  夜に煌く破滅の刃はもうない。  今あるのは、未来を掴むための力。  生きていくための力だ。押し潰そうとするものを受け止め、それでも耐えるための力。 「今日は、いい天気ですね」  俊治は車の窓から外を見上げた。 「そうね〜。絶好の引越し日和だったわね」  美琴も進行方向の空を見ながら言葉を返していた。  空は快晴。太陽光を遮る雲もない。  俊治は車内で前方に右手を出して、軽く握った。空にある何かを掴もうとするように。  車は順調に、新たな旅路に向かう俊治を運んでいった。 『夜に煌く・完』 


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