『なあ、俊治よぉ』

 自分の名前を呟く声が聞こえる。

 それはどこかで聞いた言葉だった。誰が言った言葉なのかも分からない。いつ聞いたの

かも思い出せなかった。闇に包まれた視界の中で、全方向から聞こえてくる声に耳を塞ぎ

たくても体の感覚がなかった。腕も、足も、自分の頭部さえもあるか理解出来ない。ただ

声が聞こえてくるからこそ、耳と、それを認識する頭部はあるのだと思える。

『『完全体』って何だったんだろうなぁ?』

 自分が頭部だけになってしまったのではないか? 他の部分は全て消し飛んでしまった

のではないか? それならばどうしてそうなってしまったのか? 記憶が混濁している中

で、聞こえてくる声は頭蓋に響き、痛みを走らせる。

『人間を超えた存在。それが俺達だよな』

 その言葉が何を指しているのか理解出来ない。しかしそれはとても大切なことのように

思えた。自分の存在意義を含んでいるかのような。

『じゃあ人間は皆こうなるのかな?』

 暗闇の中に一つのシルエットが現れた。闇だというのに認識できたのは相手の体の周囲

がうっすらと光っていたからだ。徐々に大きくなるシルエットに恐怖感を抱き、俊治は後

ろに後ずさる。その時初めて、自分の身体が存在することを確認する。

『グォオオオ!』

 人間に出せるはずもない叫び声を上げて、光をまとって現れたのは三メートルはあろう

かという怪物だった。俊治は体が硬直して動きを止めた。迫り来る右手。自分に対して死

を運ぶ右手が、大きくなっていくにしたがって動きがスローになっていく。

(このまま死ぬんだ……なんでだろう? 俺は何でこんな思いをしていたんだっけ?)

 自分が何をしてきたのか理解できず、目の前に迫り来る死に対しても動作が出来ず、俊

治は絶望から全てを諦めようとしていた。虚脱感が生まれ、力も入らず、ぼんやりと怪物

の腕の行方を見守る。

 その時だった。自分の目の前に人影が現れた。闇の中だというのにその姿は何故かはっ

きりと見ることが出来た。いつの間にか、自分の姿も認識できるようになっている。

 怪物も自分で光っているように見えたのだが、よく見るとそれは光が反射することで輪

郭が浮かび上がっていたから。そしてようやく俊治は気付く。

(俺自身が光ってるんだ……)

 自分が光を発しているから、闇の中でもうっすらと人が見える。自分が見える。

 ならば自分を光らせている物とは何なのか? 何が自分の中にあるのか?

 ふと目の前の人影を見る。その後姿には見覚えがあった。

(そう、か……そうなんだ……俺は彼女のところに帰らないと。いや――)

 急に沸いてきた力を持って、俊治は立ち上がると目の前にいた人影の肩をゆっくりと押

しやった。横を向くと笑顔を向けてくる一人の女性の姿。最後の最後に辿り着いた、自分

が求めている最後の相手の姿。

「俺が帰りたいんだ!」

 叫びと共に生まれる光。

 闇に煌く一対の瞳。

 次いで俊治の体は光り輝き、周囲の闇を一掃する。濃厚な闇に覆われていた世界は、緋

色の光に埋めつくされる。瞬間、俊治は走り出していた。





 眼前にある光景。その中にいる『昭英』と美琴の姿。今、美琴へと『昭英』が手を突き

出そうとしていた。

「昭英ぇえええ!!」

 体の限界まで速度を出し、その力を利用して右手を突き出す。美琴の眼前まで迫った腕

に右手が触れ、そこから瞬時に『昭英』の右腕の付け根までが消滅する。『昭英』は一瞬

沈黙したあとで、傷口を抑えて咆哮した。

 その間に俊治は美琴と上月恵美華、気絶している隆を一抱えにして『昭英』から距離を

取った。まさに神速の中での出来事であったため、二人の女性は何が起こったのか正確に

理解できない。

「俊治、君……?」

 恐る恐る声をかけてきた美琴に、俊治は少しだけ微笑んで見せた。彼女の顔だけ見られ

ればいい。それだけで十分だと言わんばかりに。

「美琴さん。全て終わらせますから。何もかもを」

 言葉を紡ぎ、背を向ける俊治。美琴は何かを言おうとしたが、口には出せなかった。自

分の中に生まれた不安が何に起因する物なのか分からなかったから。

 そして、腕を復元して俊治へと視線を向ける『昭英』を見たから。

「昭英。全てを終わらせるぞ。『アルトレイ』だのなんだのって馬鹿な狂気を。俺達が最

後だ」

 俊治の周囲に生まれる力に、恵美華は眉をひそめた。あまりに凝縮された死の波動に自

らの能力『シーク』が反応する。しかしすぐに反応は消えた。というよりも能力自体が働

らかなくなる。

「どういうこと?」

「……む、こうか……か」

 恵美華が振り向くと、隆がふらつきながらも立ち上がっている。その顔が苦痛に歪んで

いるのは先程の攻撃のためだけではないだろう。

「あいつの……『完全体』の真の力とは……『アルトレイ』の力を無効化させる能力だっ

たんだ」

 隆の視線の先には俊治の直前まで迫って止まっている氷が見えていた。『昭英』が右手

の力で俊治を凍らせようと地面に走らせたのだろう。その力が、直前で止まっていた。

 それと同時に俊治の体から膨れ上がる炎。炎は『昭英』の力により凍りついた地面を逆

に伝っていき、そのまま『昭英』の体を蹂躙した。

『グガァアアア!!?』

 体の表面が焼かれ、しかしすぐに再生する。だが、痛み自体は消えることが無く、炎も

消え去らずに残っているため、絶え間ない苦痛が『昭英』を襲っている。凍らせる力を放

出させて炎を消そうとしたことで凄まじい量の水蒸気が上がる。だがその力を持ってして

も炎は消えなかった。

「無駄だよ昭英。温度は絶対零度以下にはならない。だけど上げようと思えばいくらでも

上げることが出来るんだ……」

 美琴は熱気に薄目を開けながら、俊治の左腕が炭化していく様を見ていた。いくら炎を

現出させる能力でも、体が耐え切れないのだ。それでも俊治は炎を出し続ける。背中を向

けたままだったために美琴からは表情を見る事は出来ないが、その顔は苦痛に歪んでいる

気がしていた。自分の体の痛みではなく、別の痛みによって。

「俊治君!」

 もう何度目になるか自分でも分からずに、美琴は彼の名前を呼んだ。それと同時に俊治

の体を取り巻いていた炎が消える。しかし『昭英』の体は変わらず炎が取り巻き、肉を焦

がしている。その光景を見て、俊治は走り出した。



 ――全てを終わらせるために。



 俊治の走っていく先にあるのは『昭英』の巨体。

 しかし視界には別の光景も映っていた。周囲の風景がゆっくりと流れていく。自分の知

覚が時を越えるような感覚。時間を追い越して、そして過去が現れる。

 そこは自分にとって見慣れた光景。

 昭英と隼人がトランプを片手ににらみ合っている。その光景を美琴と、他の講座の先輩

が眺めながら笑い、石原教授がコーヒーを飲みながらにこやかに見ている。

『……これだ!』

『ばーか、引っ掛かって〜』

『くそ! 隼人! お前、イカサマしたろ!』

『そんなことするかよ』

 言い合う二人。

『伊藤君が悪いんでしょ〜』

『そんな〜』

 笑いながら話に入ってくる美琴。更に先輩達にからかわれる昭英。

「――!!」

 俊治は目を閉じ、頭を伏せてその幻影を通り抜けた。

 帰りたかった場所。当たり前のように展開されていたはずの日常。

 自分は帰りたいと望んだ。しかしもうあの場所はない。帰りたくても帰れない。目に熱

さを感じて開くと、視界が歪んでいた。

 視界の中には並んで歩いて行く浅倉龍二と切原智子の姿。

 自分と会わなければ展開されていたのだろう光景。

 一人は永遠に消え去り、もう一人も自分の前に姿を表すことは無いのだろう。

 二人の間を通り抜け、俊治は涙を拭いた。

 失ってしまった大切な物。取り返しのつかない時間。

 だからこそ最後の最後に残った物だけは護りたかった。

 自分がどうなろうと、どう思われようと。

『俊治は今こそ、考えなくちゃいけないと思う。お前は誰のために闘うのか。誰かのため

だけに闘うなら他の人を見過ごすというのも一つの手だろうさ。でももし、それが嫌だと

思えるのなら……その心の正直になれば良いんじゃないか?』

 脳裏に甦ってきたのは隼人の言葉だった。

 そう。自分は闘おう。自分の心に正直になって。誰のために闘うのかを自分で決めて。

 俊治は眼前に迫った『昭英』の体に向けて右手を突き出した。その前に幻影が現れる。

『やめて!』

 それは美琴の姿だった。

 本来なら自分の後ろにいるはずの存在。そして自分が護りたい、ただ一人。

 悲痛な叫びに、しかし俊治は止まらなかった。

 美琴の幻影を貫くように右手が過ぎ去り、『昭英』の足へと触れた。

「消え去れ!」

 俊治が言葉と共に力を放出する。それは今までとは比べ物にならないほど急激に力を奪

っていく。体中の力が右手に凝縮し、『昭英』へと注がれていく。

 その間は数秒ではあったが、確実に時間は過ぎていた。

 美琴や恵美華、そして隆が知覚したとき、それは起こった。

「消えていく……」

 恵美華が呆然と呟く。

『昭英』の体は徐々に消えていた。灰と化すのではなく、その存在が初めから無かったか

のように消え去っていく。粒子にもならず、ただ空間に溶けていくかのように。

 声はなかった。『昭英』は呆然と消えていく自分の体を見ていても、何も言葉を発しな

い。ただ俊治を見ていた。足が消えて腰が落ち、腰が消えて胸部が地面に落ち、視線の高

さが変わっても、俊治から視線を外さずに最後まで見ていた。

 自身の顔が完全に消え去るまで。

 最後まで何も言わずに、『昭英』は完全に消滅した。

 後に残るのは冷たい夜気と無音の空間。

 つい先程まで凝縮された狂気が支配していたとは思えないほど、その場は狂気の余韻も

なくなっていた。

 美琴は息苦しくなり何か言葉を発しようと思ったが、先に俊治が咳き込んだことでタイ

ミングを逸した。

 そして俊治の傍の地面が血で染まっている事に気付いて更に余裕が無くなる。

「しゅ、俊治君!?」

「来るな!」

 俊治はしかし、駆け寄ろうとする美琴を制した。向けた掌には血がついている。吐血を

抑えたことからだろう。

「これで、いいんですよ」

 俊治は静かに口を開いた。月明かりに見える顔には酷い疲労の影が映り、今にも倒れて

しまいそうにも関わらず、足はしっかりと地を踏んでいた。美琴は動けない。恵美華も隆

も無言の迫力に体を動かせなかった。

「これでよかったんです。今ので分かった。俺が持っていた力は昭英を消すことでほとん

ど使い果たしてしまったんです。もうこの体に『アルトレイ』の力はほとんどありません」

 俊治の告白に驚いたのは恵美華と隆だった。自分等の力がなくなるようなものだという

こと自体が信じられないことなのだろう。

「でもこれでいいんです。俺達はいてはいけない。いや、俺はいてはいけないんだ。生き

ている事こそが、罪なんだよ……」

 そう言って俊治は首に右手を当てる。ようやく隆は俊治の真意に気付いて声を上げた。

「駄目だ! 高町俊治!! 死ぬなんて!!」

「――俊治君!?」

 隆の叫びに驚き、美琴は俊治へと悲痛な叫びを上げる。しかし俊治は笑みを浮かべて美

琴へと向けた。その顔は心の底から安堵したような表情で、美琴はその表情に悟ってしま

った。俊治が自分の死を望んでいることが。

「全てを終わらせてから、死のうと思っていました。それが、僕の責任の取り方です。い

や、もうそれしか考えられない。俺を作り出した浅倉豪博士。新たにそんな想いに取り付

かれた九条真司。この連鎖を止めるには、俺という……化け物を殺すしかないんです」

 俊治は涙を流しながら語っていた。自分のことを『化け物』と言うことにどれだけ抵抗

感があったのか、それだけでその場にいる三人には理解できた。

 いくら『サクリファー』にならなかったとしても、人間ではない力を身につけた自分達

が自分を人間と呼べるのかは、隆と恵美華も自信がない。だからこそ、二人は言葉を発す

ることが出来なかった。

 自分達の未来を見ているようで。

 その中で、美琴は呟いた。

「駄目。駄目よ。死んでは駄目だよ」

 美琴は一歩ずつ俊治に近づいていった。俊治は右手に少し力を入れて美琴を牽制する。

しかし、美琴の脚は止まらなかった。

「どれだけ人を殺しても、人間じゃないと言っても、あなたには死んでほしくないのよ。

わたしのせいで、死んで欲しくないのよ」

「……違う。美琴さんのせいじゃない!」

 初めて、俊治の顔に動揺が走った。

 無意識に手に取っていたのだろう。美琴は元いた場所で拾ったガラス片を喉に押し当て

ながら俊治に近づいていた。互いに自分の命を盾にして、相手を牽制する。

「あなたが死ぬならわたしも死ぬ。あなたが伊藤君を殺したのはわたしのせいなんだから」

「駄目だ! あなたは死ぬな! 美琴さんが死んでしまったら――」

「そうだよ。俊治君のやったことは本当に無意味になるね」

 美琴の目は俊治を真正面から映していた。美琴の目に映る自分を見た俊治は自分の顔が

青ざめ、動揺している事に気付いた。そして俊治は美琴に気圧されて後ろに下がった。

 ふと、何かが背中に当たり、俊治は右手を首から離して素早く振り返った。反射的に手

が戦闘態勢を整えて――

「あ――」

 俊治が驚きに硬直している間に頬へと衝撃が走った。よろめいて今度は美琴の方へと下

がる俊治。

「勝手に死ぬのは許さないわ」

 そこには顔中に怒気を広げた切原智子が立っていた。





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