「隆! 隆!! しっかりしてよ!」

 自分を呼ぶ声に反応し、隆は目を開けた。視界に映るのは上月恵美華。あの、都築秋葉

を殺した時と同じ光景に見えて、隆は思わず笑った。恵美華はその笑みの理由が分からず

に、顔を赤らめる。その間に隆は痛む体を起こした。

「どれくらい……失神していたんだ?」

「多分……五分も無いと思う。隆の闘いの波動が消えてからその時間で来たはずだから」

「そうか……」

 隆は視線を移して、九条真司の遺体を見る。二十八年前から続いてきた狂気の連鎖が一

つ断ち切られた瞬間。あまりにも意味が無く、あまりにあっけない最後。

 九条真司の身勝手な行動のために何百人もの人々が犠牲となった。その終幕としてはあ

まりに味気ない最後。

「これだけ様々な人々を苦しめた奴の最後が……これか」

 隆は悔しさに唇を噛み締めた。まるで自分が敗北したかのようにうなだれる。実際、隆

の中には真司への敗北感が生まれていた。確かに、真司を殺したことで後に生まれる悲劇

がなくなるという点では隆の勝ちなのだろう。

 しかし真司が最後に浮かべた笑み。

 あの笑みの理由を言葉にしないように押し込めようとしていた隆。その時点で、彼は負

けていたのだ。

 どうしようもない敗北感を隆に植え付け、もう手の届かない場所へ真司は逝った。

「最後まで……人を……」

 噛み締めた唇から流れる血。怒りに震える体。その体を、恵美華が優しく包んだ。

「――!」

「隆が意味を求めたがる気持ちも分かるよ? わたし達は『アルトレイ』として生きるし

かなかった。そしてあなたは……『サクリファー』を、人間だった者を殺した」

 恵美華の言葉に震える隆。その体を更に強く抱きしめる恵美華。直接体に言葉を注ぎこ

むように唇を体に密着させて話す。

「でもどんなことをしても、生まれたことを悔やんでも、わたし達は生まれてきてしまっ

たから、受け入れるしかないんだよね。そして、そこから何が出来るかを考えないといけ

ないんだよね。きっと意味あることなんて凄く少なくて、大半のことが意味無く、あっけ

なく終わるんだと思う」

 恵美華の体が離れたとき、初めて隆は恵美華が泣いていることに気付いた。その涙の意

味を問いかけようとして、隆は胸が締め付けられる思いに襲われる。恵美華の涙に濡れた

瞳を見ただけで、その理由は理解できた。

「九条真司は死んだ。あなたは勝った。それだけなんだよ」

「……分かってる」

 隆はようやく立ち上がり、首の無い真司の遺体を見た。最後に技を繰り出した時に自分

の中に生まれた力が何なのか、隆には分からなかった。だが、その力が無ければおそらく

真司を倒すことは出来なかっただろう。

 しかし、隆はその遺体を見て違和感に襲われていた。そして脳裏に浮かぶイメージ。

 急速に冷めていく、覚醒していく脳。まるで自分の考えではないかのように様々な考え

がばらばらだったピースをはめ合わせていく。

 顔を青ざめさせた隆を見て、恵美華は恐る恐る尋ねた。

「どうした……の?」

「そう、か……」

 隆は体をふらつかせて前に歩き出した。慌てて恵美華は隆を右腕側から支えて共に歩き

出す。隆は体力が限界なのだろう、血の気の無い顔をしていたが、瞳の光は全く衰えては

いなかった。恵美華の顔を覗き込み、呟く。

「分かった……気がする。九条真司の笑みのわけが」

「え……?」

 恵美華は歩きながら、隆の視線が向いていた方向を見る。すなわち、真司の遺体を。そ

こには真司の体と頭部が並んで落ちており、頭部はこちらを向いている。その顔は、笑っ

ていた。

(――っ!)

 恵美華の背筋に悪寒が走る。確かに真司は死んでいる。自分の死の瞬間さえも理解でき

ていただろう。だが、彼は笑っていた。その笑みは勝ち誇っていた。あまりにおぞましい

感覚に恵美華は視線を前に戻して隆に問い掛けた。

「どういう、こと?」

 隆は歯を食いしばりながら、真司の思惑に気付けなかった自分への怒りを抑えていた。

押し殺した口調で言葉を紡ぐ。

「九条は高町俊治が狂気に堕ちたと言った。奴の狙いはそれだったんだ。この街に『サク

リファー』を放ったことも、『アルトレイ』達をけしかけたことも、『完全体』を創りだ

したことも! 全ては高町俊治を狂気に堕とすため!」

「分からないよ! 高町俊治が? 確かに今、闘ってるみたいだけど……」

 隆は恵美華から離れて一人で立った。回復は遅くなっていたが、徐々に傷は直されてい

く。その中で、真司の遺体がある場所を睨みつけた。

 自分の方向を見て笑っている、真司の頭部を。

「貴様の思い通りにはさせない。お前の最後の狂気、俺が止める」

 隆は自分に言い聞かせるように呟いた。胸中で絶望の色に染まった言葉を付け加えて。

(『完全体』が暴走したら、誰にも止められない……)

 最悪の事態のその前に、止められるかの瀬戸際。

 隆は痛む体を強引に前へと進めた。





 空気が焦げ、凍りつく。空間を切り裂いて繰り出される拳と拳。互いに必殺の右手を持

ち、また触れると同時に相殺される力と力。

 俊治と昭英は家の外で壮絶な戦いを繰り広げていた。

 互いに右手には究極の殺人武器を持ち、牽制に左手の炎を使っている。俊治が放つ炎を

昭英は一瞬で凍りつかせて、粉々に砕きながら突進する。俊治の体に少しでも触れると凍

りつかせることが出来る右手も、俊治の右手による灰と化す力によって凍りつく瞬間から

灰となって宙を舞っていた。互いに一歩も譲らずに一定の距離を保って拳を振るう。

 双方とも分かっていた。先に引いて、一撃を少しでも深く受けてしまった時点で自分の

生命活動が停止してしまうだろうということが。

「俊治ぃい!」

「昭英ぇえ!」

 二人が互いの手を握り締めて対峙する形になる。二人の間に生まれる殺気が膨れ上がり、

周囲へと膨張する。その余波により、隠れ家は外装が剥がれていった。気配が実体を持っ

て現実の物体に干渉する。地面が揺れ、地表が剥がれて浮かび上がる。大気が荒れ狂い、

溢れ出すエネルギーが空間を支配した。

「う……ああああ」

「おおおおお!」

 徐々にだが、俊治が昭英を押し始めていた。昭英の足が地面へと食い込み、昭英は苦し

そうに顔を歪め、息を切らせる。

「どうやら……終わりだな」

 俊治は呟く。その声にはどんな感情も読み取ることは出来ない。俊治の瞳は鋭く光を発

し、過去の俊治からは考えられないほど冷たい気配を発していた。思考を止め、敵を倒す

ことだけを考える。目の前の敵は昭英ではなく、敵なのだ。自分に、美琴に害をなす敵な

のだと無意識的に自分に言い聞かせている。

「しゅ、俊治ぃ……」

 逆に昭英の声音は先程までとは変わっていた。目からは狂気の色は消え、泣き顔を見せ

ている。しかし俊治は反応せずに更に力を込めていく。掴んだ昭英の掌の骨が軋む音を立

てる。昭英は激痛に顔を歪めて腰を落とした。地面に膝を付き、顔を下へと向けている。

「やめてくれよぉ俊治ぃ……」

「止めて! 俊治君!」

 昭英の声と目覚めた美琴の声が重なる。目覚めたと同時に飛び込んできた、俊治と昭英

の闘い。そして聞こえてくる昭英の悲鳴。美琴は俊治へと叫んでいた。

「もう昭英君は正気に戻ってるわ! 止めて! もう止めて!!」

 美琴の悲痛な叫び。夜の空気を切り裂いて、それは俊治に到達した。だが、俊治は力を

緩めず、美琴へと顔を向けずに口を開いた。

「だからどうしました?」

 その言葉に美琴は凍りつく。言葉に秘められた感情は間違い無く先程まで自分が昭英か

ら向けられていた感情。

 即ち、殺気だった。

 戦闘により熱気が満ちているこの空間で、美琴は寒気を感じて体を震わせた。

「美琴さんに手を出した。だからこいつは殺す。それだけです」

「――なら! 伊藤君を殺すなら! 死ぬから!!」

 美琴は割れた窓ガラスの破片を持って自分の首に突きつけた。俊治を侵そうとしている

もの――狂気へと対抗するために。心の中は俊治を助けることだけで占められていた。だ

からこそ、次に俊治から投げつけられた言葉に美琴は体の力が抜けていった。

「なら勝手に死ね」

(――!?)

 自分から何か大切な物が零れ落ちていく。足元が崩れていく。自分を支える全ての物が

ボロボロに砕け散るような絶望感を抱いて、美琴はその場に崩れ落ちた。手に持っていた

ガラスの破片も取り落とし、床に落ちて砕けた破片が美琴の体を数箇所切る。しかしその

痛みは自らの内側から来る激痛によりかき消される。

 美琴は涙で揺れる視界を通して俊治を見ながら、まだ心のどこかに残っている理性が冷

静に事態を把握する。そして一つの言葉を紡ぎ出す。

 狂気。

 狂気だ。

 これは狂気だ。

 昭英が語った昔話。昔話とは過去の話。狂気に満ちた、過去の話。

 しかしそれは現在と、そしてこのまま行けば未来とも繋がる物語なのだ。

 過去と現在と未来。これはけして断続してはいない。無限に連なる一つの現実なのだ。

 過去に発言した狂気は、現在を飲み込み、未来を侵食しようとしている。

 浅倉豪が作り出し、九条真司が育て上げ、高町俊治が体現しようとしている。

 美琴はしかし、体を動かすことも出来ずに二人の戦闘の行方を見るしかなかった。まる

で自分の頭部以外がなくなってしまったかのような、そんな喪失感。

「俊治、君……」

 呟いた時、変化が生まれた。伊藤昭英の体へと。

「泣き落としは……やはり駄目かよ」

 昭英の体から異常なまでの冷気が放出されたことに、俊治は手を離して飛びずさった。

背中を言い様の無い悪寒が駆け抜ける。まるで冷たい鉄心で臓腑を抉られているかのよう

に不快感が増していく。

「なあ、俊治よぉ」

 昭英の両腕は筋肉が盛り上がり、服が裂け、人の数倍にまで達した。

「『完全体』って何だったんだろうなぁ?」

 両足もまた黒く、人の数倍盛り上がり、鋼鉄のように黒光る。

「人間を超えた存在。それが俺達だよな」

 衣服が完全に破れさり、胴体も両手足に見合った大きさへと変化した。それは裸身であ

るにも関わらず、どこか鎧を着たようにさえ見えた。実際に硬度も鋼鉄の鎧くらいはある

のだろうと予想させる質感だった。

『じゃあ人間は皆こうなるのかな?』

 頭部がひしゃげ、血を撒き散らしながら変化していく。既に声帯まで変化して聞き取り

にくくなっていた。頭部から角が三本生え、瞳は緋色に染まり、口は耳まで裂け、その口

周りを牙が並んだ。

 そこに現れたのは五メートルほどの巨体を持った『完全体』だった。

『グゥオオオオオ!』

 昭英だった化け物は右手を残像が残る速さで振りぬく。俊治は跳躍し、腕に飛び乗ると

一気に頭部を目指した。解放された力により三歩足を踏み出した時にはもう肩を過ぎて頭

部へと手を伸ばしていた。

「灰になれっ!」

 右手を頭部に突き出し、力を解放する。解放された力は一瞬にして昭英を灰と化すはず

だった。俊治は次に起こった事態に驚愕する。

 昭英の頭部は灰化と同時に再生していた。それは回復速度と灰化速度が等しいという証

拠。昭英が今までの『サクリファー』とは明らかに格が違うことの証明。

 俊治は一瞬、判断が遅れた。

 引くか、突き進むか。

 刹那の思考。そして刹那の隙。

 俊治が知覚するよりも早く昭英の左手が俊治を吹き飛ばしていた。

 知覚が時間を飛び越えて、一瞬先の衝撃を体へと伝達する。

 体中を走り抜ける電気信号とほぼ同じ速度で伝わった情報と、実際の衝撃により、俊治

の意識は闇に消えた。





「俊治君!」

 放心から冷めたように叫ぶ美琴。そしてその声に反応して『昭英』が視線を美琴へと向

けた。

(あ――)

 自分が何か取り返しのつかないことをしたという思いが美琴を包む。『昭英』はすでに

意識は無いだろう。向ける瞳に映る感情は、もう美琴を自分のえさとしか認識していない

ように美琴には思えた。その視線から逃れようと後ずさろうとして、自分の左足が血にま

みれていることにようやく気付いた。どうやら先程落としたガラス片が意外と深いところ

まで美琴の足を切っていたらしい。すぐには死なないだろうが、このままでは出血多量で

死ぬだろう。

(その前に、殺される?)

 死を目前として美琴の精神は逆に落ち着いていた。あまりの恐怖に感覚が鈍磨したのか、

今の状況ではありがたかった。恐怖に落ちたまま死ぬのはとても苦痛だろうと、美琴は心

のどこかで思う。

『昭英』が方向転換し、美琴へと歩を進める。美琴は一歩一歩足を踏み出すたびに地響き

を立てる『昭英』の足を見るだけ。そこに声が響いた。

「『風林火山』!」

 どこかで聞いた声だと美琴が思うと同時に『昭英』の後ろに二つの人影が現れる。一人

はシルエットから女性と分かり、もう一人はおそらく男性だろうと当たりをつけた。言葉

と同時に『昭英』の体の表面に火花が散ったような気がしたが、さして影響はないように

見えた。

 と、美琴が視線を『昭英』の頭部に移した瞬間、その姿が掻き消えた。

 見ると現れた二人組の後ろに『昭英』がいる。距離があっても二人が息を飲む気配が伝

わってきた。次に認識が追いついた頃には美琴の隣へと二人が吹き飛ばされてくる。

「が……はっ……」

 やはり一人は男だったと美琴が分かった時に、その男が隻腕だと言うことも同時に理解

していた。

(今の一撃で吹き飛ばされたの……?)

 無論傷口は少し古かったので冷静に見ればすぐ分かっただろう。だが、どこか美琴は冷

静ではなかったのかもしれない。男は気を失ったようだが、女は立ち上がってきた。そし

て息を飲む。

 美琴もゆっくりと前に視線を戻すと、そこには『昭英』がいた。涎をたらし、自分達を

見ていることに美琴は嫌悪感を隠し切れない。

「死んで……たまるものですか!」

 女が立ち上がり、『昭英』の前に進み出る。さして武器も持っているようにも見えない

にも関わらず。美琴は女の足が震えている事に気付いていた。

「ようやく……あと一歩で全てが終わるのよ。せめて、隆が眼を覚ますまで、あたしが盾

になるわ……」

 その言葉は誰に言うわけでもなく、自分に言い聞かせていた。自分の中の恐怖を拭うた

めに。どうしてそこまで気を強く保てるのか美琴には理解できなかった。

 しかし――体は反応した。

『グオオオオ!』

『昭英』が右手を振り上げ、女に振り下ろす。そこへと、美琴が割って入っていた。





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