「その昔。一組の男女がいた」

 男の声は人あらざる物の咆哮、絶叫が響き渡る空間に明瞭に流れていた。狂乱の交響曲

の中に浮かび上がるその声は色や温度という物は一切無く、聞く者は一様に熱さに火照っ

た体に冷水をかられたような感覚を得るだろう。しかしこの場に観客は一人だけ。

 そしてその観客はその言葉に耳を傾ける余裕などない。

 ただ耳に言葉が差し込まれ、客は痛みに耐えるように顔をしかめるだけ。

「女は自分にある人外の力に怯え、しかし通常人と同じように人を愛せることに満足し、

その想いにすがるように男を愛した」

「ギャオオォオオ!」

『サクリファー』の首がまた一つ飛び去る。首を刈った男は腹腔に力を込め、気合と共に

力を放出する。

「『風林火山』!」

 次々と体をバラバラにする『サクリファー』達。声の主は眼下で化け物達を殺戮する男

を見て満足げに顔を歪ませた。語る速度を全く落とす事なく。

「男にも通常人とは違う力があった。それは人に創られたものではなく、あらかじめ備わ

っていた力だった。その力も、創られた力も通常人から見れば何も変わることは無い。女

は自分の手で、持つ力全てを持って、命を賭けて男を護ると誓った」

 語り部は既に用を果たせずに足元へと落ちている眼鏡を踏みつけながら、その眼鏡があ

った場所を指でなぞった。過去をなぞるように。

「ありふれた恋愛話。愛をもたらす理由が変わっているだけで、普通の恋愛話だ。だが、

ただ一つ。ただ一つ違うことがあった。それは……」

「『疾風怒濤』!」

 力をまとった刀が、『サクリファー』の脳天から股下まで一直線に斬り裂く。轟いてい

た、荒れ狂っていた暴風が去ったかのように場は静まり返っていた。語り部が中空を繋ぐ

鉄筋通路からゆっくりと観客の下へと降りていく。その人物の周りだけが無重力になって

いるかのように浮遊しながら、ゆっくりと。

 観客が振り返り、中を漂う語り部と目を合わせる。交差する視界には互いしか映らず、

互いしか意識の中に生まれない。

「男は人を愛することなどなかったのだ」

 足が床につき、九条真司は顔を笑みで歪ませた。ポケットに両手を入れたまま、その場

で目の前の男――都築隆を見る。体中に傷を負っていたが、闘志を弱める事なく自分を殺

すために存在する男。その存在を自分の手で消すことに対する衝動がある。

 真司は心の奥から来る衝動を押さえつけることに必死だった。

「素晴らしい。都築隆。あれだけの『サクリファー』を全て屠りさるとは。だが、別に構

わない。伊藤昭英が生まれただけで、私の目的は達成されたのだから」

「高町俊治も言っていたが……アキヒデ、とは……『完全体』なのか?」

 隆は倦怠感に包まれている自分の体を無理やり動かして真司の下へと歩いて行く。力は

ほとんど残っておらず、体も悲鳴を上げている。しかし立ち止まれなかった。目の前の敵

を倒すために、彼はここまでやってきたのだから。

「そうか。君は知らないのか。そうだよ、浅倉龍二を使って得たサンプルから私が作り出

した『完全体』だよ。これで私が人間如きに劣っていないことを証明できた」

 一歩。また一歩、真司との距離が詰まる。徐々に隆は意識に霞がかかるように視界がく

らむ。肉体的限界が近づいてい来る。

「浅倉豪如きに出来て、私のような超天才に作り出せないわけがないのだ。『完全体』と

いう名のまがい物など」

 肉体的限界は近づいてきても、精神は高揚して真司の気配が手に取るように分かる。五

官が弱っている今でも隆の脳裏には両手をポケットに入れ、不敵な笑みをして自分を見て

いる真司が浮かび上がる。

「『完全体』など作らなくてもいいのだ。『完全体』はここにいる! この私こそ、真の

完全体なんだよ!」

「死ね」

 隆の刀が振られる。刃が真司の首筋へと正確に伸びたが、首の皮一枚を切ったところで

その動きが急激に押さえつけられ、止まる。隆は苦鳴を洩らしながら刃を押し切ろうと力

を込める。真司は首筋からかすかに流れ落ちる血を見て感嘆の息を洩らした。

「私の防御を掻い潜って、首筋に傷をつけるくらいまでになったか……成長したものだ」

 真司は自分に刃を食い込ませようとしている隆に向かって左手を軽く掲げた。瞬間、膨

れ上がる力。隆は咄嗟に後ろに飛ぶ。

「遅い」

 爆発音と共に隆の体は吹き飛ばされ、廃工場を支えている鉄筋の柱へと激突した。その

まま柱はへし折られ、甲高い耳障りな音と共に崩れ落ちる柱の向こう側へと隆は倒れた。

「……失敗作の分際で、よくここまで力を昇華したな。その成果だけでも今後の研究に役

立つだろう」

「今後、だと?」

 隆は頭部から血を流しながら立ち上がる。真司から見て、隆の体の周りにうっすらと光

が生まれていた。それが、『アルトレイ』が体を回復させる時の光だと気付き、真司は少

なからず驚きを見せた。その顔に満足したのか、隆は不敵に笑みを返す。

「お前は……何が目的なんだ。この日本を乗っ取ろうとでも言うのか? 研究所を潰して、

新たに『サクリファー』を作り出し、『完全体』を手に入れて何をしようとする?」

 隆は視線を外しはしなかったが、いつの間にか背後に真司が回りこんでいた。気配に気

付いて後ろを振り向くと同時に、真司の腹に手が添えられ、爆発音が鳴り響く。先程なん

とか躱した衝撃を完全に喰らって、隆は体が引き千切れるような感覚に襲われながら地面

を二転三転して止まる。仰向けに倒れたところで血を吐き出したために顔が自らの血で染

まる。隆は本当に体が千切れたのかと思い、顔を青ざめさせる。各所を確認しようと顔を

傾けると、視界に真司の下半身が見えた。

「!?」

 頭部を鷲掴みにされ、持ち上げられる。その握力は『ファースト』のそれのように強く、

隆は激痛に喘いだ。

「何だ? お前は英雄気取りだったのか? 日本を破滅に陥らせる悪の親玉を倒す英雄に

でもなりたいのか?」

 三度、放たれる爆音。荒れ狂う風に四肢を痛めつけられながらも、隆の意識ははっきり

としていて、真司の言葉に耳を傾けていた。

「理由など無いさ。私は自らの手で『完全体』を創りたかっただけだ。人間を超えた存在

である私よりすぐれた研究など許さない。だからこそ、研究所を潰し、データは全てここ

に収めた」

 真司は自分の頭を指差して何度か叩く。床に這いつくばり、血塗れになっている隆の姿

が彼の中に優越感を生み出しているのか、半ば悦に入り呟いている。

「脳の全能力が覚醒している私ならば、あの程度のデータを記憶することなど造作も無い

こと。あとは『完全体』を創りだせばそれで良かった」

 うつぶせに倒れている隆を足で仰向けさせ、その表情を見る真司。醜悪に歪んだその顔

を隆の瞳は映していた。ほとんど意識がないのだろうと真司は予想し、腹を力の限り踏み

つける。隆は口から血を吐き出し、咳き込んだ。隆の喀血(かっけつ)が足にかかること

を意にも介さず、真司は手を突き出した状態で言葉を続けた。

「私は選ばれた人間なんだ。こんな日本などどうでもいい。神から与えられたこの力と頭

脳があれば世界を牛耳るなど簡単に出来る。だからこそ、そんなことなどどうでもいい。

私は、私がやりたいことをしていただけだ。事のついでに自分の私兵として『サクリファ

ー』や『完全体』を置いておくのもいい思っただけさ。ただ、それだけだ」

「……お前の、そんな身勝手な考えで、姉さんは死んだのか」

 隆の瞳に覚醒の光が灯っている。真司は反撃を警戒したが、四肢はほとんど潰れていて

しばらくは回復することもない。いつでも殺せるという余裕から、真司は隆の言葉に答え

ていた。

「そうさ。選ばれた私の行為は何者よりの尊厳よりも勝る。他の者等眼中に無いわ。だが

な都築隆よ、私への愛で狂ったのは秋葉であり、秋葉を殺したのはお前だ。私は何もして

いない」

 真司は心底おかしいといわんばかりに笑い声を上げる。視線は隆から外さずに、笑い声

だけが空へと昇っていく。仰向けになっている隆は天井に開いている穴から覗く月が見え

ていた。ちょうど、都築秋葉を貫いた時と同じような。その月へと昇っていくかのように、

笑い声が響く。

「実に観察しがいがあったよ、『アルトレイ』の奴等は。秋葉は私への愛のために狂い、

浅倉龍二は自分の人生を狂わせた父への憎悪と愛によって狂った。草薙も響も氷室も何か

に狂っていた。何が進化への研究だ。この研究の成果として残ったのは狂気しかない。所

詮、人間が人間を創るなど無理だったのだよ」

 語りと嘲笑が最高潮を迎える。その中で、隆は自分の体の奥底に力の鼓動が生まれるこ

とを感じていた。徐々に大きくなる鼓動に、体全体が反応する。

「伊藤昭英も狂っていた。そして、高町俊治も、狂うだろう」

「高町俊治……も?」

 隆の声音に浮かび上がる焦燥に満足し、真司は手を大げさに振り、芝居ががッた仕草で

返答した。

「そう。この場所に来た時の瞳。あれは正しく、狂気に染まっていく者の瞳だった。だか

らこそ私は姿を消して、隠れて彼の状態を見ようと思ったのだよ。あの状態のまま『サク

リファー』を殺し、伊藤昭英も殺した時、彼がどうなるのかを見てみたかったからな」

 瞬間。

 隆の体が跳ね上がり、刀が空中を一閃した。銀色の閃光が真司の目に残像として残る。

真司はその動きが見えていた。物の動きがコマ送りのようにはっきりと見える瞳を持つ真

司にしてみれば、どのような攻撃もスローモーションだった。だからこそ、見えすぎる瞳

を制御するためにサングラスなどかけていたのだから。

 自分の瞳に絶対の自信を持っていたからこそ、真司は視界の中で宙を舞っていく切断さ

れた自分の右腕を見て絶叫を上げた。切断面を抑えて機能が増大した免疫機能に指令を送

り、傷口を急速に塞ごうとする。

 その傷はすぐに塞がれた。

 しかしそれは免疫機能のためではなく、切断面の切り口があまりに見事であることの理

由が大きかった。生まれて初めての混乱に真司は反射的に後ずさっていた。隆は動かずに

真司の様子を見ている。

(馬鹿な……そんな馬鹿な……理解は出来る。だが、認めることを拒絶している!)

「脳の全力が解放されているお前ならば、視覚神経も極限まで高められているだろう。お

前には全ての動きがスローに見えていたはずだ。そして運動神経も同じく高められ、人間

の動きを超えることが出来た」

 内心の葛藤により混乱した真司の脳に直接、隆の言葉が響く。一歩ずつ、隆が足を踏み

出すたびに体から闘気が溢れてくる。その熱い鼓動を、真司は肌で感じ取っていた。直感

的に浮かぶドクロのイメージ。自分に突き刺さる刃。

(死? 死だと……俺が!?)

「またその力……サイコキネシスなんだろうが。その能力で空間に見えない防護壁を作り、

いかなる攻撃も通さなかった。実際、研究所にも銃を備えた警備員がいたにも関わらず、

かすり傷一つ負わずにお前は研究所を壊滅させた」

 隆は刀を鞘に収め、しかし鍔をしっかりと握ったまま歩を進める。真司はいつの間にか

後退している自分に気付き、右足を思い切りその場に叩きつける。自身の体をその場に縫

いつけるかのように。

「人間の限界の限界まで動く速度を上げられる貴様を倒す技。一つだけ存在したよ。そし

て、お前を殺す方法も、ただ一つ」

 隆は体を捻り、前傾姿勢を取った。すでに傷は無く、体の、『アルトレイ』の全能力を

解放できる状態にある。隆の体全体に『力』が満ちていく様子が真司の眼にも映っていた。

 真司は気付き、叫びながら手を掲げた。

「私の反応速度よりも速い攻撃など――!!」

 放たれる衝撃波。同時に真司へと飛び込む隆。隆の体は衝撃波をまともに喰らい、各所

から血が溢れた。肉が裂け、赤い霧に包まれながらも隆の前進は止まらなかった。一秒よ

りも、更に短い時間のうちに真司の前に到達する隆。

 引き伸ばされた一瞬。

 意味のない叫びを上げる真司。

 彼の耳にはしかしはっきりと、ひとつの単語が聞こえていた。

「『疾風迅雷』」

 自らを死へと導く言葉はことの荒々しさとは対照的に、山麓から流れる清涼な水の如く

澄んだ響きを持っていた。

 真司の前で足を踏み込み、放たれた一閃は真司の首を切り飛ばた。隆はそのまま体を回

転させて真司の体に背を向ける形となる。抜刀の体勢のまま動かずにいる隆の前に、斬り

飛ばした首が回転して落下してくる。

「――それは『自分に絶望しない事』だ。自分が選ばれた人間だと信じているお前には、

自分が呪われていると信じていた俺達は、絶対に勝てなかった」

 床へと転がった真司の顔は笑っていた。その笑みの意味を、隆は心のどこかで理解し、

しかし口にする事は無い。

 真司の体が床に音を立てて倒れたところで、隆はようやく体を立ち上がらせた。体の各

所が悲鳴を上げる。真司のサイコキネシスによる衝撃波を喰らい、そして自分の技による

負荷も重なったのだ。おそらく体中の骨にひびが入っていることだろう。

「……姉さんが唯一、俺に教えた技だ。くれてやる」

 隆は自らの持つ刀を見た。刀身にはひびが入り、更に広がっていた。耳に入るひび割れ

の音が悲しく、顔をしかめる。

「やはり、一撃がやっとだったか」

 隆の呟きと同時に、刀身は粉々に砕け散った。破片が頭上の穴から差し込んでくる月明

かりに反射して、煌きながら落ちていく。

 その破片の行く先を視界に収めて、隆はその場に崩れ落ちた。脳裏に浮かぶ思いと共に。

(お前も俺も、人間だよ。力があるだけの、な……)





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