家には鍵はかかっていなかった。俊治は美琴がいるのかと中をうかがうが、人の気配は

ない。俊治は脳裏に浮かんだ一つの事を冷静に受け止め、部屋の中を調べた。注意して見

なくても、テーブルの上に一枚の書置きが残されているのはすぐ分かった。見覚えのある

文字――昭英が書く文字が紙面の上に踊っている。



『佐々木先輩を返してほしければ、街外れの廃工場に来い』



 俊治は苦笑した。

 なんという分かりやすい置き手紙だろう。昭英はドラマの見すぎだなと俊治は思い、笑

った。何もかもが以前とは変わろうとしている中で、嗜好は変わらない。それがとても滑

稽なことに思える。

 服を着替え、ジャンパーを羽織り、俊治は外に出る。鍵が鍵穴に吸い込まれ、ゆっくり

と回ることを確認する。

 やけに長く感じる一瞬の時間。

 俊治は鍵をジャンパーのポケットにしまうと、隣の部屋のチャイムを鳴らした。

 切原智子の家のチャイムを。

「はい……」

「高町です」

 ドア越しに伝わる緊張、憎悪、悲しみ。俊治は押し寄せる感情の波に身を震わせた。ド

アを開かれる気配がないことに内心安心する。おそらく今、智子が顔を出したならば、俊

治の中にある決意が揺らいでしまうだろうから。

「開けなくてもいいです」

 俊治はそれでも一度断る。智子が玄関口から離れずに自分の言葉を聞こうとしている事

を確認して、言葉を続けた。

「浅倉さんは、あなたに救われたと言っていました。あなたがいたから、自分は狂わずに

すんだと。それは僕も同じです」

 胸が痛んだ。

 言葉を紡ぐたびに心臓が冷たいナイフで抉られるかのよう。大切な人を奪った自分が言

う言葉ではないのでは、という想いが不可視の刃となって自らを貫く。

「ありがとう。智子さん。僕は全て終わらせてきます。あなたのように悲しむ人が、これ

以上出る事がないように」

 俊治はドアの前から一歩下がり、ドア越しにいる智子に聞こえるか聞こえないかという

声で呟いた。

「……さようなら」

 それが、最後だった。

 俊治は後ろを見ず、一気にマンションを駆け下りる。迷いは吹っ切れた。最後まで彼女

は自分を恨む事だろう。でもそれでも良かった。

 少なくとも彼女は自分を恨んでいる間は、やり場のない怒りをぶつける事が出来るのだ

から。

 俊治はわき目も振らずに道を駆けていった。



* * * * *
 佐々木美琴はぼんやりとする頭を軽く振って、何とか意識をはっきりさせようとした。 どうしてこんなにも自分の意識に霞がかかっているのか分からないが、一刻も早く完全に 覚醒させたほうがいいという衝動が内から込み上げてくる。 「目が覚めましたか?」  その声の方向へと顔を向けると、顔は良く見えなかったが人が見えた。その瞬間に、自 分に何が起こったのかという記憶が間欠泉のように意識の壁を突き破り、噴き出す。 (俊治君の帰りを待っていて……夕方に、チャイムが鳴って……玄関を開けたら……)  美琴は一気に甦る記憶の混乱に何とか耐え、一度硬く瞳を閉じると頭を数度振り、ゆっ くりと開いた。視界はもうぼやけてはいなかった。そして先ほど声がした方向へと再び顔 を向けて、動揺を表しつつも口を開いた。 「伊藤君……」  美琴の目の前にいたのは同じ講座の後輩である伊藤昭英だった。俊治と仲が良く、いつ も一緒にいた、昭英。しかし美琴の目の前にいる昭英は、美琴が知っている昭英とはまる で別人のように思えた。  鋭い瞳。体中から発散する、恐ろしい気配。美琴は言葉を知らなかったが、それは殺気 というものだった。そして何よりも違うのは――昭英の髪は白髪になっていた。 「その、髪……」 「これですか? まあ『力』の代償みたいです。俊治はその点では何も副作用がないみた いで、悔しいですね」 「俊治君が? どういうこと?」  美琴の困惑振りが面白いのか、昭英は顔が変形したかと思うほどに笑う。腹を抱え、口 を限界まで釣り上げて、何かを吐き捨てるかのように笑う。それがあまりにおぞましく、 美琴は自分の体を抱えようと両手を動かした。そして、初めて自分が後ろ手に縛られてい ることを知った。 「ああ、すみません。もう少しの間、窮屈な思いをしていてください。俊治が来るまで」 「俊治君が来るの? 伊藤君。あなたは何をしたいの?」 「僕がしたいのは二つです」  昭英は美琴へと近づいていく。美琴はどうにかして昭英から離れようとするが、後ろ手 に縛られ、まだ完全に覚醒しきっていない頭は体に命令を伝えないために動きが鈍い。  すぐに昭英は美琴の肩を掴み、右掌は美琴の顎を抑えて自分へと顔を向けさせた。 「一つ。あいつに勝つこと。そしてもう一つは――」  昭英の唇が美琴と重なる。美琴は驚愕し、そして精一杯の抵抗を見せた。昭英は一瞬、 苦痛に顔をゆがめ、美琴から唇を離す。昭英の唇からは血が流れていた。美琴は口の中に 広がる血の味を逃がすために唾と共に吐き捨てる。 「……最高ですよ。美琴さん。もっと、僕を拒絶してください」  昭英は美琴から離れて自分のいる場所を眺めた。  そこは街の郊外にある廃工場だった。眼下に広がる作業場。彼等はその上の、鉄筋で出 来た通路にいる。二人の他に音を立てるものもなく、この場所の時は止まっていた。今、 二人がいなければこのまま何も変わる事なく取り壊される運命だったのだろう。  美琴は漂ってきた埃にむせた。手を縛られているために顔に埃がくることを妨げるもの はない。昭英はむせている美琴を満足げに見ながら言った。 「暇ですし、少し昔話でもしましょうか」 「……いらないわ」  気丈に答える美琴。しかし昭英は特に気にする様子もなく話し始めた。 「昔。といっても三十年位前ですが。一人の狂人が人間を超えた存在を作ろうと思いつき ました。彼が天才だったのか運が良かったのか、ほんの数年である程度の結果が出るよう になりました。そのことで、彼は更に研究を進めていきました。この時に彼を誰かが止め ていれば、後々の惨劇は起こらなかったでしょう」  昭英は自己陶酔しているかのように目を潤ませて、顔を熱で赤く染めて語る。美琴は一 刻も早くこの場から逃げ出したかったが、その話が耳に入ってくることを妨げられない。  美琴自身も気になっていたのだ。この話が俊治へと繋がるかもしれないということが。 「そして二十二年前。幾多の犠牲の上に完成品とされた物が誕生しました。それが、高町 俊治だったのです。彼は普通の人間の中で暮らす事でどう変化していくのかという実験の ためにすぐに里親に出され、何も知らずに現在まで過ごしてきました」 「俊治君が……?」 「一方、更に研究を続けていましたが、俊治以外に完成品は生まれませんでした。二年前 にその研究所は一人の男の反乱によって壊滅。研究データも全て消え去り、一人の狂気が 生み出した悪魔の研究はこの世から消えた……はずだったのです」  昭英が言い終えた時、昭英の後ろから――美琴からは昭英が影になって見えなかったが、 足音が聞こえてきた。背筋を駆け上る悪寒に、体を震わせる美琴。昭英がその足音の主へ とゆっくりと顔を向けた。 「あなたは本当に面白い人ですね」 「お前は隠れ家で大人しくしてろよ」  九条真司は昭英に笑みを向けた。その顔に唾を吐きかけるように昭英は言葉を投げつけ る。しかし真司は眼鏡を押し上げるとガラスに隔てられた向こう側から鋭い視線を昭英へ と突き刺す。 「こんな面白いイベントを見逃せるわけないじゃないですか。ねえ、高町俊治君」  真司がそう言ったと同時に、廃工場の入り口の扉が吹き飛ばされていた。爆音にも似た 音に美琴は耳をふさぐ事も出来ず全ての音が一瞬消え去る。音の衝撃に頭をふらつかせて 見えた視界には、無残にひしゃげて奥へと転がっていく扉。  そして舞い上がる埃の中を進んでくる一人の男。 「俊治君!」  美琴の声に俊治は顔を上げた。美琴の姿を確認し、すぐに傍にいる昭英と真司を見つけ ると体中から殺気を漲らせる。 「ようこそ。夜のパーティーへ」  真司が嘲りを含んだ口調で俊治へと言葉を向けたが、俊治は鋭い視線を向けただけで何 も言葉を返さない。その事に真司は奇妙な感覚に襲われた。 (ほう……これは……)  真司は心の中に生まれた感情を押し殺して一歩後退した。昭英がそれに気付いて疑問の 言葉を口にする。 「どうした? 九条」 「私はやはり、最後に控えるとしますよ。まあ、あなたならば私のところまで彼を連れて くることはないでしょうが」  九条はそう言うや否や姿を消した。消える原理は昭英にも分からなかったが、今はそん な事などどうでもよかった。今、彼の頭にあるのはただ一つ。  俊治を殺す事だけだった。 「まあ、これでお前を殺すために邪魔は入らないわけだ」  昭英は呟いて指を鳴らした。するとそれが合図だったのか廃工場の奥から黒い塊が次々 と現れる。ゆっくりと俊治を取り囲むように隊列を整えていくそれらを見ながら、俊治は ただ立っていた。 「あれ……」 「そう。僕等を襲った『サクリファー』ですよ。ここには九条が僕を見つけるまでに実験 をして生まれた『サクリファー』三百体ほどが全て集まっている。『完全体』が不完全体 に嬲り殺されるというのは実に面白いと思わないか? 俊治」  俊治は何も答えない。昭英は俊治の心に絶望が広がっているからこそ、自分に言葉を返 さないのだと信じて疑わなかった。  もう一つ、美琴の前では能力は使えないだろうという目算もある。  俊治が持つ滅びの力を使う事で、もう人間ではないという事を肯定するようなものだ。 美琴が見ている前で人間を捨てる事は出来ないだろうと、昭英は思っていたのだ。  だからこそ、隊列を乱して俊治へと襲い掛かった『サクリファー』を一瞬にして灰と化 した俊治に、昭英は驚愕を覚えた。 「俊治、君……?」  美琴はいつか見た風景を思い出していた。『サクリファー』に襲われた夜。熱に浮かさ れたようにふらつきながら自分の前に歩いていった俊治。そして化け物の手を掴んだかと 思うと炎が上がり、また一瞬で灰と化してしまった光景が思い出される。  自分の夢だと、幻だと思っていた光景が今、現実に展開されたのだ。 「昭英」  俊治の声に含まれる殺気に、昭英は背筋を凍らせた。体が完全に凍りついたように動か ず、昭英は危うく後ろへと倒れそうになる。それを手すりにつかまって何とかやり過ごし た。更に俊治は一歩を踏み出し、昭英に言葉をぶつけた。 「俺が美琴さんの前で力を使えないとでも思ったのか? それなら、お前は完全に計算が 狂ってるよ」  二体目、三体目を灰と化し、炎で焼き尽くしながら俊治は進む。それでもなお、はっき りと俊治の言葉は昭英と見琴の鼓膜を震わせた。 「俺は……人間じゃない」  拳を突き出し、『サクリファー』の頭部を爆砕する。 「こんな馬鹿げたことは、俺が終わらせる」  回し蹴りで後ろから突進してきた『サクリファー』を蹴り飛ばす。木材が粉砕されたよ うな音を立てて『サクリファー』の首から上が血飛沫を撒き散らして飛んでいく。 「そして、美琴さんに手を出したお前は殺す」  左手から放射された炎は数体の『サクリファー』を一瞬で焼き尽くした。 「もう一度言う。お前は、殺す」  俊治の瞳が昭英を打ち抜いた。昭英は先ほどまでの優越感がどこかへと吹き飛んでしま ったかのように体を震わせ、怯えている。それが美琴にも分かった。そして俊治から来る 殺気が自分をも震わせている事にも気付いていた。 (俊治君……どうしたの? どうして、そんなに……絶望してるの?)  問いかけなど無意味だった。  眼下に広がる戦闘がそれを物語っていた。  人外の物と闘う人外の者。  目には目を。刃には刃を。毒には毒を。  眼下のそれは、まさしく毒と毒の戦いなのだ。  人を殺す化け物と、化け物を殺す人間と。  そして、その人間は美琴自身が行為を抱いている男。  美琴は手を使う事も出来ず、溢れ出てくる涙を拭う事が出来なかった。  戦闘の中心にいる俊治を見下ろし、彼の戦う姿を見て、そのあまりに悲しい姿に涙がと めどなく流れる。 「止めて! 止めてよ俊治君!」  耐え切れず、美琴は叫んでいた。その叫びが届いたのか、一瞬、俊治の動きが止まる。  そしてそれは致命的な隙だった。  動きを止めた俊治の体を『サクリファー』の一体が薙ぎ払う。俊治の体は空を舞う紙の ように飛ばされて行き、工場の壁に激突した。先程聞いた鋼鉄製の扉が打ち抜かれる音。 それに酷似した音を立てて激突した俊治を見て美琴は悲鳴を上げた。 「はははは! どれだけ強がって見せてもお前は化け物にはなれないんだよ!」  優位に立ったことを悟ったのか昭英が気を取り直して俊治に叫ぶ。俊治のところへと殺 到する『サクリファー』が拳を振るうたびに鈍い音が美琴達へと届く。俊治の肉が裂かれ、 骨が砕かれる様子が脳裏に浮かび上がり、美琴は眼を閉じた。耳も閉じたかったがそれは 出来ず、結果的に音が想像を促進させていく。 (いや……いや……いや! わたしが止めてと言ったから……俊治君……)  後悔の念が押し寄せ、美琴は唸り声を上げる。その声は昭英の笑い声にかき消させる。  笑い声と、『サクリファー』による打撃の音。  狂気と殺戮のオーケストラが今、演奏の山場を迎えた。 「死ね! 俊治!!」  と、その時だった。絶望の演奏会に一つの不協和音が鳴り響いたのは。 (これで終わりか……)  自分に向けて手を振り下ろそうとする『サクリファー』を見て、俊治はぼんやりと思っ た。すでに両腕の感覚はなく、足も動こうとしない。先程、何故か動きが止まったことが 不思議に思える。  何も自分を妨げる物などないと思っていた。 (全てを終わらせると言っておいて、こんな中途半端で終わるなんてな……何が『完全体』 だよ。俺が一番欠陥品じゃないか)  やけにスローモーションに見える『サクリファー』の動き。しかしそれも俊治には心地 よかった。自分が死に行く瞬間をゆっくり見るというのも、自分が殺してきた人々への懺 悔行為にはなろう。あとは太い腕が自分を貫く事を見るだけ。  と、その時だった。  全てが遅くなり、音さえもゆっくりと流れていく中で、その言葉ははっきりと聞こえて きた。 「『疾風怒濤』」  突然入ってきた第三者の声。  静かで、体に一本の芯が通っているようなしっかりとした声。  次の瞬間には自分の命を断とうとしていた『サクリファー』が二つに分断されていた。 左右に別れた体は崩れ落ち、灰色になったかと思うとまるで灰のように粉と化して完全に 消失してしまった。最初から何もそこに存在しなかったかのように。 (そうだ……ここから始まったんだ)  冷静に、俊治は思っていた。  それは以前見た光景に酷似していた。  それは全ての始まり。俊治が、この一連の出来事へと誘われた最初の時。  全ての始まりが、そこにあった。 「遅れてすまん。高町俊治」  切れ長の瞳を赤く煌かせて、都築隆は呟いた。


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