それは何から生まれたのか。闇の中に一条の光が灯る。

 光は闇を完全に染めることはなく、一点の光となってその場に留まる。そのまま、少し

だが暖かな気配が伝わってきていた。

 そしてその暖かさは隆の体をじっくりと満たしていく。

 体は回復してきているとはいえ、相手を殺すとなればまだ一撃がやっとだろう。しかし

それで充分だった。隆には相手を――秋葉を殺せる必殺の一撃の軌道が見えていた。隆の

残る右手に力が込められるのを見て、秋葉は焦りを覚えた。

「あ、姉を殺すの!? 隆!!」

「勘違いするな。『都築秋葉』」

 隆の右手が上がり、刀が秋葉へと向けられる。

「恵美華の言う通りさ」

 突き出される刀。

 刀は隆と秋葉の間に立つ恵美華の背中に吸い込まれ、そのまま秋葉の心臓を貫いた。驚

愕に目を見開く秋葉。それは仲間ごと自分を貫いた隆に対しての驚愕。

 そして、貫かれたにも関わらずに満面の笑みを浮かべて自分を見ている恵美華への驚愕

だった。

 致命的な一撃。

 心臓を完全に貫かれた事により、自分の体から力が急激に消えていくことを感じる。秋

葉は自分が死ぬのだという事を自覚し、恐怖に震えながら後ずさった。

「『俺の愛する姉』は死んだんだ」

 その言葉が秋葉に届いていたかは分からない。

 後ずさり、後ろに倒れる拍子に心臓から刀が抜かれ、絶命した秋葉は軽い音を立ててそ

の場に倒れた。血塗れの、救いようがほとんどない狂気の戦いの終幕はあっけなく訪れ、

その場に奇妙な静寂を残すことでその存在を証明するだけとなった。

 ゆっくりと、他の場所を傷つけないように恵美華に刺さっていた刀を抜き去ると、隆は

後ろに受身を取る事なく倒れた。後頭部を痛打し、顔をしかめる。もう体を動かす事は出

来ない。しばらくは、自分を照らす月を見ているしかないだろう。

「……頑張ったね、隆」

 聞こえてきたのは恵美華の声だった。視界の外だったが、その声はしっかりとしている。

今しがた、刀で体を貫かれたとは思えないほどに。

「俺が、出来ると思っていたのか?」

 何を、とは恵美華は聞かずにゆっくりと立ち上がった。隆に近づき、視界の中に入る。

 恵美華が手で抑えていたところは隆が貫いた個所。

 秋葉に斬りつけられた傷は心臓までは達してはおらず、徐々に回復を見せている。そし

て隆に貫かれた個所は、そこが本当に貫かれたのかと思うほど何も傷は見えなかった。

「あら? 隆がやろうとしてた事なんてわたしは分からなかったわ。ただ、あのまま秋葉

さんと一緒に死んでもいいとは思ったけど。出来るとかじゃなくて、あなたを信じていた

のよ」

 恵美華が年相応の笑顔を見せた事に隆は動かない顔を横にずらそうとした。おそらく、

自分の頬は今、赤く染まっているだろうと思ったから。照れを隠すように一度咳払いをし

て、隆は口を開く。

「内臓を一切傷つけずに胸を貫く技は、何度か成功したことはあった。ただ、今回は体調

も最悪で、失敗するかもしれなかった……すまない」

「いいわよ。それで死んでもあなたは生き残るんだし」

 恵美華は倒れている隆の横に足を伸ばして座った。空を見上げ、自分達を照らす月をい

とおしそうに眺める。

 静かな空間だった。先ほどまで死闘が繰り広げられていたとは思えないほどの。

 遠くから聞こえる車の通行音。夜を通り過ぎていく風の音。

 隆はこの時初めて、このような静寂を体験したことに気付いた。

 始まりは十年前。『サクリファー』を狩る旅に出てからずっと、心休まらぬ日々を送っ

てきた。夜にまぎれて人を殺す化け物を殺し、人に見られては同類に扱われ、それでも心

の奥に響く姉の声を支えに『サクリファー』を排除してきた。

 今、この時。隆は倦怠感に包まれた体から『何か』が抜け出ていくような気がしていた。

それは自分の中にずっとあった何か。そして抜けた場所に自分を形成する様々な物が流れ

込んでいき、体が自然と軽くなる気がした。

「九条を愛していた……姉はそう言った。それを、俺は嘘だとは思えない。確かに、心の

底から九条真司を愛したんだろう……そして、壊れた。姉の目から見える九条と、現実の

九条のギャップに耐え切れず……そう、信じたい」

「それでいいんじゃないかな。真実は闇の中。でも、あなたは正しい事をした。それは紛

れもない事実なんだから」

 恵美華の言葉には力があった。それは長い間共に旅をしてきたからこそ、隆の心の中に

入る事が出来る恵美華のものだからこそなのだろう。隆は自然と笑みを浮かべる。

 一方の恵美華は視線を隆から外して落胆した声を出した。

「……腕、もう駄目だね」

 少しだけ回復したのか、恵美華の声に合わせて隆は首を動かした。動いた視線の先には

無造作に落ちている自分の左腕。いくら『アルトレイ』の回復能力でも斬られてから大分

時間が経った腕は接合する事は無理だろう。

「仕方がないさ。右腕があれば、なんとかやっていける」

「隆、気付いてる?」

「? 何がだ?」

 恵美華が意地悪い笑みを浮かべて顔を近づけてくる。隆は意味が分からず再び問い掛け

た。少しだけ、口調に怒りを乗せて。それはけして本当の怒りではなかったが。

「だから、なんだ?」

「前よりも口調が軽くなってるよ」

 前より……と言われて思い出そうとしても、自分が今までどんな口調で恵美華と話して

きたなど分からない。恵美華は軽く嘆息し、この話題は終わりと言わんばかりに別のこと

を口にした。

「……九条が特別ってどういう意味だろう?」

「心当たりはある」

 澱みなく答えた隆に恵美華は驚きを露わにする。

 隆は体の各部の反応を確かめた。握り締める事が出来る右掌。存在しない左手。力が入

る腹筋。痛みが徐々に消えていく左足。回る右足首。

 ゆっくりと体を起こすと、まだ痛みは走ったが活動できない程度ではない。横から恵美

華が手を貸し、隆は共に立ち上がった。

「だが、今出来ることはない。この傷を治して、九条に会うしかない」

「……でも九条は手駒を全部使ったよ。このままだと明日にでも高町俊治に接触するんじ

ゃないかな……」

「この傷が治るのが先か、九条が目的を達成するのが先か。これは運に任せるしかない」

 言葉はそこまでだった。隆は恵美華の肩を借りながら夜の空間へと飛び出していく。支

えられていれば、ビルの屋上から屋上へ。民家の屋根から屋根へと飛び移るのは比較的楽

ではあった。そうして移動している中でも、隆は思い浮かんで口にしなかった言葉を頭の

中で反芻する。

(あるいは、高町俊治が全てを終わらせるか……)

『完全体』

 この不快で狂気じみた事件の中心にして、もっとも事態から離れていた存在。

 俊治の顔を思い出して、隆は呟いていた。恵美華には聞こえないように。

「もしかしたら、九条を倒せるのはあいつだけかもしれないな……」



* * * * *
 部屋に戻り、九条真司は冷蔵庫からワインを取り出した。口のコルクを抜き出し、テー ブルに用意しておいたグラスに入れる。  二つのグラス。一人の男。  もう一方のグラスを持つべき人物はもうこの世にいない。真司はそれを分かっているの か、相手が来ることを待たずに置いてあるグラスに自分の持つそれを軽く合わせた。グラ ス同士がぶつかり、音が鳴る。その音の心地よさに体を小さく震わせて、真司はワインを 喉に流し込んだ。全てを飲み干し、グラスを置いて立ち上がり、窓の外を見る。  成城市を見渡せる山のぽつりと立つ廃屋。どういう施設だったのかは分からない。彼等 が自分達が使うために勝手に内装を変えたことで、気にする事ではない過去の事となった。 「そう。気にすることじゃない」  真司は呟く。自分にではなく、誰かに対して言うように。 「過去は過去だ。そうだろう? 秋葉」  街を覆っている住居やビルのライトが時刻が進むにつれて徐々に消えていく。真司はこ の瞬間が最も好きだった。生命がその活動を中断し、無力な状態になるその瞬間が。  二年前に研究所を滅ぼした時もそうだった。  あの都築隆を半死にさせた時は、周りが炎に囲まれていた。  炎を想起する。あの、高町俊治が巻き起こす炎。そして、伊藤昭英が放つ炎。  体の奥から来る破壊衝動が真司を快楽へと誘う。 「さようなら、秋葉。あとは私が行おう。高町俊治を殺して、私は世界の敵となる」  真司は笑った。  何分も、何十分も。途切れる事のない嘲笑。人の心を捲り、嫌悪感を引き出させる嘲笑。  狂気と正気が入り混じった笑い声を聞きながら、その後ろでは昭英も口元を笑みの形に 変えていた。
* * * * *
 俊治はうっすらと差し込んでくる光を目蓋の裏に感じ、ゆっくりと眼を開けた。目の前 には寝る前に被った新聞紙がそのまま乗っている。手で新聞紙を払いのけ、ベンチに寝か せていた体を起こした。硬く、人間が寝るために作られたわけではないベンチだけに、体 の各所が苦情を訴えてきていた。俊治はそれを無視して立ち上がり、体を伸ばす。  軋む体を抱えながら、俊治は歩き出した。歩く間に周囲に視線を這わせる。  昨夜の状況で周囲を気にする余裕もなく、俊治はベンチを視界に入れた時点ですぐに横 になって眼を閉じたから、自分が何処かの公園にいるとは分かったが、それ以外は分から ない状況だった。  公園はあまり大きいとは言えず、五、六人子供が集まって遊べばスペースがなくなるよ うな場所だった。あるのはブランコとシーソーが一組。砂場が一つ。あまり人が利用しな いのか荒れている印象はあった。だからこそ、俊治が寝ていても誰も指摘はしてこなかっ たのだろうが。 (家には……帰れない。こんな姿、美琴さんには……見せられない)  俊治は自分の姿を見る。  その格好は昨夜と何も変わらない。美琴と過ごした空間から出てきた時と何ら変わりは ない。しかし俊治は今、自分が最も醜悪な生き物だと思っていた。  自分の理不尽な運命を受け入れ、闘う誓いをしても、誰一人守れない。  浅倉も、氷室も死に、隼人も重傷でいつ死ぬか分からない。  自分に関わってきた者達が次々と死んでいく現実に、俊治の心にはひびが入っていた。 全てが壊れた時に、自分はどうなるのだろうという恐怖に怯えていく。  とりあえず公園から出て、朝から開いているファーストフードで腹を満たす。食べても 食べても空腹感が消えなかったが、所持金のことを考えて暴食を止める。  街を彷徨い歩いていても、孤独感が俊治を包んでいた。人の中にいるはずなのに、自分 だけが異世界に紛れ込んでいるような。このまま人と触れても、自分の手は通り抜けてし まうのではないかという妄想にかられる。  俊治は首を振り、妄想を振り払うために走り出した。 『高町俊治……』  後ろを振り向くと死んだはずの浅倉が追いかけてくる。  体が半分灰になっていても、どうやって走っているのか分からないが、自分よりも速く 走り、追いかけてくる。その右隣には氷室が。左隣には草薙が。そこから派生したかのよ うに自分が殺してきた『サクリファー』達が一斉に俊治を追いかける。その目に、声に俊 治への呪詛を込めて。 『俊治君』  いつしか周囲は黒くなり、追いかけてくる亡霊達も消えていた。その代わりに目の前へ と美琴が現れる。俊治は締め付けられる胸をかきむしりながら美琴へと手を伸ばした。そ の後ろから智子が現れる。  俊治は恐怖に足を止めた。智子が俊治を見る視線には殺意が込められている。 『あなただけが幸せになるのは許さない』  智子は手にしたナイフで美琴を背中から突き刺していた。衝撃に倒れる美琴。智子は背 中に馬乗りになり、何度も何度もナイフで美琴を突き刺す。 『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……』  その声は智子が発していたはずだった。しかしいつの間にか周囲からも声が反響してく る。俊治は背中をめった刺しにされている美琴を黙ってみている。いや、体を動かそうと しても動かせなかった。俊治の手足を押さえつける力があった。 『私達の未来を奪った』 『お前は人殺しだ』 『どんな正義を振りかざそうとも、人間ではないことには変わりない』  浅倉が、氷室が、草薙が次々と俊治の脳に直接言葉をぶつけてくる。衝撃に揺れる脳。  ぼやける視界。流れ落ちる涙。一瞬とも永遠とも取れる時間の流れが俊治の体を押し流 し、無痛の暴力に体の奥から崩壊していく。  全てが終わった時、そこには俊治と背中を赤く染めた美琴だけがいた。俊治はゆっくり と腰をおろし、美琴に触れる。  触れたところから、美琴の体が灰と化していった。 「あ……」  俊治は驚愕し、灰化を止めようとした。意味のない行動だったが、美琴の体を抑える。 すると抑えた部分から再び灰と化していく。 「ああ! ああああああっ!!?」  俊治は絶叫しながら美琴の体を抱いた。そして抱いた体が灰となって崩れ去る。  残ったのは頭だけ。顔だけになった美琴の視線は俊治をじっと捕らえている。視線の網 に囚われて、俊治は美琴の顔を凝視していた。 『人殺し』 「うわああああ!!!!」  俊治は草むらから飛び起きた。直後に襲い来る吐き気。胃が混乱し、収縮し、胃酸を口 から吐き出す。何度か嘔吐してから、俊治はゆっくりと周囲を見回した。  どこか分からない草むら。おそらく成城市の外れに位置している場所だろうと、俊治は 当てをつけた。どこから非現実だったのかさえ分からない。現実と幻想の狭間に俊治の精 神は悲鳴を上げる。時刻はもう夕方付近だった。朝から歩き続けてこの場所に辿り着き、 草むらに横になったのだろう。どれだけ寝ていたのかという事も、何も理解出来ない。  ただ、一つだけ理解できた事があった。  俊治は立ち上がり、自分の胸に手を当てて落ち着かせる。  自分を苦しめていた幻想は、だからこそ一つの答えを俊治に提示した。後は、それを受 け入れる覚悟だけ。俊治はその覚悟を受け入れるために、言葉を口にした。 「全て、終わらせる」  足は自然と自分の家に向かっていた。


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