大学の講座というのは基本的に忙しい。自分が大学を卒業するための研究をする必要が

あるのに加え、大学の上の大学院に所属している生徒から下される手伝いの指令に否定は

出来ない。

(四年は最上級生で、下っ端ってのは間違いないよな……)

 俊治は過去に使ってから用途がなくなった資料が入ったダンボールをゴミ捨て場へと運

んでいた。十月から大学の後期日程が始まることから、この最初の時に大掃除をしてしま

おうというのだ。俊治の他四年生は二人いるが、その二人もそれぞれ別の場所で掃除をし

ている。

「おい――しょっと」

 ダンボールを積みあがっているゴミの山の上へと置く。他の講座も同じように考えてい

るのか普段の三倍はあろうかというゴミがゴミ箱に入りきらず、その横に山を成している。

その光景をうんざりした様子で俊治は見て、自分の講座へと足を向けた。

「終わったの? ご苦労様」

 俊治にかけられた声は聴きなれた声だ。俊治の後ろのほうからかけられ、それと同時に

走ってくる足音が聞こえる。

「美琴さん」

 俊治に近寄ってきたのは化粧気が少なく、可憐さよりも闊達さが表れている女性だった。

髪は肩ほどまで伸ばしていて、先は少し外側にはねている。幼そうに見える外見だが、俊

治よりも一つ年上だ。

 佐々木美琴(ささきみこと)。星陵大学大学院一年である。

「俊治君。この後は実験室の掃除を手伝ってあげて」

「えー。隼人達だけじゃ足りないんですか?」

「掃除には足りてるんだけど、ゴミが重すぎてね……」

「全く……使わなくなったならさっさと捨てればいいのに」

 二人はとりとめもない会話をしながら歩みを進める。ふと、美琴は足を止めて辺りを見

回した。

「どうしたんですか?」

「ううん……何か、誰かいたような」

 美琴と共に俊治も周りを見回すが、特に怪しい人は見えない。

「おかしいなぁ」

「ま、気のせいですよ。行きましょう。急がないと隼人達に怒られます」

 俊治は掃除の手伝いをするためにと美琴を急かして小走りに自分達の講座のある研究棟

へと入った。美琴がトイレに行くと言って離れ、俊治はエレベーターに乗って六階にある

講座を目指す。上昇を続ける四角い箱の中で、俊治は今さっき感じた視線がなんなのか考

えていた。

(姿が見えなかったのに視線を感じた。一体何なんだ?)

 ふいに俊治の脳裏に昨日の光景が思い出された。人間の体に化け物の頭部。その頭部か

ら感じた殺気。その殺気と先ほどの視線の気配は同じ感触だった。

(馬鹿な。化け物はあの男が殺したはずだろ。もう殺人事件は起きないんだ……でも、ど

うしてこんなに心配なんだ?)

 俊治はどうしても嫌な予感を振り切ることができなかった。そしてそれは凄惨な事件と

して現実に起こる事となる。





 講座の掃除は意外と時間がかかり、全ての整理が終わったときには、時計の針は八時を

指していた。流石に十月ともなるとこの時間には日が完全に落ちて暗い。星陵大学は少々

山の中に存在しているために周りには明かりも少なく、寂しげな雰囲気が漂っている。

「……一日掃除に忙殺されたなぁ」

 久坂隼人(くさかはやと)はモップにもたれかかってうんざりと言った口調でため息を

ついた。それに同意するように残りの四年生も頷く。

「ほんとに〜。俺達ってほんと雑用〜」

 語尾をのんびりと伸ばしているのは同じ四年生の伊藤昭英(いとうあきひで)だ。髪の

毛を刈り上げてさっぱりした頭を掻きながら欠伸をしている。

「仕方がないだろ。別に院生がなにもやってないって訳じゃないし」

 俊治はそう言って最後のダンボール箱を棚の上に積み上げた。居並ぶダンボールは俊治

の身長を越えて存在感を示す。最後の荷物を運び終えた事で俊治は腰を後ろに曲げて息を

吐いた。

「……――っあああ〜。終わったぁ」

「じゃあ帰るか。もう少しで八時半だぜ」

「マジマジ? なら途中で夜飯食べて帰ろう」

 隼人と昭英に同意して俊治は部屋を出た。まだ他の講座にも人は残っているために廊下

の明かりは点いている。しかし廊下の一番奥だけは電気が消えていた。

「ん? 廊下の電気きれてんの?」

 昭英がそちらの方を向いて言う。二人も続いて見たが、それ以外特に言うことはない。

「かまわず行こう。腹空いたよ」

「おーう」

 昭英と隼人は今の話題をすぐに止めて荷物を取りに自分達の荷物がある部屋へと戻る。

しかし俊治はその場から何故か離れられなかった。何か得たいの知れない力に捕らえられ

ているかのように。

(なんだ、ろ? 気になる)

 俊治は呪縛から解けるとすぐに、その電気が消えている場所へと行こうとした。だが、

後ろから急に声をかけられて動きを止めた。

「高町」

「――先生!?」

 俊治の後ろに立っていたのは講座の教授である石原正嗣だった。今年で四十五を迎える

ためか頭髪に白髪が少し混じってはいるが、体の肉付きもよく、肉体年齢は三十代であろ

う。俊治の驚き様に呆気に取られた顔をしている。

「い、いえ。何でもありません。俺、もう帰ります」

「ああ。ご苦労様」

 俊治は自分の動揺を隠すために石原の横を早足で駆け抜けた。

 去って行く俊治の後姿を見て、石原は次に廊下の奥へと視線を向けた。そこは相変わら

ず電気が点かないまま。しかし石原の目には何かしらの思いが見える。

「……やはり、運命なのか……」

 石原の言葉は先にある暗闇へと吸い込まれていくかのように空間へ消失した。





「みんなで帰るの? お疲れ様〜」

 俊治達三人が山道を降りてから少し。後ろからきた車が横に止まり、美琴が窓から顔を

出した。

「はい。お疲れ様です」

 一番車側にいた俊治が返答する。

「送ってこうか? っていってもチャリかぁ」

「残念」

 昭英が心底残念そうに美琴を見る。

「僕等はいいですから、美琴さんも気をつけて帰ってくださいね。最近ぶっそうですから」

「だーいじょうぶよ。わたしは車なんだから」

 美琴はそう言って車を走らせた。しかし車が少ししか進まない時点で急に動きが止まる。

その場にいる誰もがその事に首を傾げた。

 その時――。

「何だ!?」

 隼人が頭上を向いて叫ぶ。その叫び声に俊治と昭英は我に返り、同時に上を向いた。何

かが飛来してくる。俊治達の下ではなく、美琴の車の下へ。

「美琴先輩!!」

 俊治が走る。そして車から出てくる美琴。俊治が美琴の体を掴んで車から離れると同時

に、飛来物が美琴の車を押し潰した。弾け飛ぶ車の破片が辺りに散らばり、俊治達は破片

を何とか掻い潜った。

「な……なんなんだよぉ」

 昭英は涙ぐんで自分の目の前に広がる光景を見ていた。隼人も冷静に見てはいるが、や

はり何か得たいの知れない力に体を震わせている。そして、最も事の恐ろしさを知ってい

たのは俊治だった。

(ま、さか……)

 昼間に感じた殺気。予感が現実になる。しかしあまりにも唐突な出来事に俊治は思考が

混乱する事を抑えるのに必死だった。自分が抱きかかえている美琴の存在さえも忘れかけ

る。だが俊治を恐慌の一歩手前で抑えていたのはその抱きかかえた美琴の微かな震えだっ

たのだ。

「何なのよ……あれ……わたしの車……」

 美琴は恐怖を覚えながらも、まだ自分の車を失った事を残念と思うほどの余裕を持って

いた。その事に安心した俊治はやるべき事を決めた。

「みんな! 逃げるぞ!!」

 その言葉に最初に反応したのは隼人。隼人はその場に座り込んでいた昭英を起こして自

転車に乗せる。自分も自転車に乗り、俊治の自転車のハンドルを持って併走させながら俊

治の下へと走る。

「俊治!」

 隼人が自転車を離したと同時に閃光が走った。それは隼人の自転車の後輪を直撃し、隼

人は宙に投げ出される。

「隼人!」

「大丈夫だ!!」

 隼人は受身を取ってアスファルトを転がった。すぐさま立ち上がり、周囲に目を光らせ

ると自分が持っていた荷物を見つけ、細長い筒のような袋を手に取った。

「ここは俺が食い止める。お前達は逃げろ!」

 隼人が袋から取り出したのは木刀だった。切っ先を化け物へと向けてその場に構える隼

人。俊治と昭英は自転車に乗った状態で隼人を振り返った。

「隼人! いくらお前でも――」

「相手は人間じゃないんだぞ! お前の剣術でも――」

「いいから――」

 その瞬間だった。

 隼人の体が俊治達の視界から消え、そこへ美琴の車に飛来してきた化け物が現れる。正

確に言えば移動してきたのだ。そしてそこにいる隼人を弾き飛ばし、視線を俊治達へと向

ける。その顔は二つに割れ、割れた中から細長い何かが伸びていた。

(同じだ)

 俊治は昨日の化け物の姿と目の前に立つ化け物の姿を重ねた。そしてそれは絶望感を胸

に抱かせるには充分な物。一気に焦燥感が全身を駆け巡る。

(古流剣術なんて実践的なもの習ってる隼人でさえ一瞬でやられた……なら、俺達がかな

うはずない……)

 残された道は逃げるしかないと、俊治が迷いなくペダルを踏み込んだ時、急に抵抗感が

無くなり、道路に倒れた。

「な、なん――」

 俊治が見ると、自転車のペダルが消えていた。何らかの攻撃によって自転車本体から切

り離されていたのだ。隣では同じように昭英の自転車も倒れ、昭英は上を向いたまま動か

ない。俊治は最悪の展開を予想したが、どうやら昭英は気を失っているだけらしい。

「しゅ、俊治……君……」

 後ろでは美琴が震えながら俊治にしがみついていた。その様子からしてもう腰が抜けて

立つ事はできないだろう。これでは逃げる事さえも出来ない。

(八方塞がりだ。もうどうしようもない)

 俊治は美琴の手を丁寧に自分から離して立ち上がった。内心では諦め、自分の目の前に

広がる『死』を感じている。だが体は意識とは無関係に動いていた。

 前に。

 自分へと向かってくる化け物へと。

「俊治君!」

 美琴の叫び。それは聞こえていたが俊治は歩みを止めなかった。体の奥から熱が生まれ

る。自分を突き動かす力が生まれる。その力は体の中のある一点から徐々に燃え広がり、

体全体を包み込んでいく。

(熱い。熱い。炎だ……炎が俺を包む……)

 化け物が俊治へと手をかざす。そして風切り音と共に何かが俊治へと飛来した。しかし

俊治は右腕を軽く振り、その何かを手に受け止めていた。

 それは針のように鋭く、硬い髪の毛だった。俊治はそれを道路に落として再び歩く。

 化け物は初めて動揺したような素振りを見せ、一歩後ろに後退する。俊治は更に前へと

歩を進め、やがて化け物のすぐ傍まで近づいていた。

 化け物は腕を振り上げ、俊治へと振り下ろす。美琴が遠くから見ても、その腕の振りは

凄まじい威力が含まれていると予測できた。そして俊治へとぶつかる直前に叫ぶ。

「いやぁあ!」

 叫び、両手で目を塞ぐ美琴。しかし次にやってくるはずの破砕音が全く聞こえてこず、

いぶかしんで両手を顔から離す。そして視界がとらえた光景は、美琴の理解を超えていた。

「そんな……」

 俊治の左腕が化け物の腕を掴んでいた。振り下ろされた腕を片腕で捕まえていたのだ。

更に驚くべき事は、俊治の左腕が炎に包まれ、掴んだ腕を伝って化け物にも燃え移ってい

った。化け物は苦悶の声を上げて俊治から離れようとするが、捕まえられているために身

動きが取れない。そして俊治は残っている右腕で化け物の顔を掴む。

「消えろ。永久(とこしえ)に」

 その声は俊治であって俊治でないと、美琴は感じた。俊治の体を借りて誰かが話してい

るような錯覚を引き起こす。

「灰となれっ!」

 俊治の叫びと共に、化け物の体が急速に灰へと変化していく。それとは逆に俊治の左手

から噴出している炎は勢いを増し、火柱を形成して空へと高く昇る。

 化け物は断末魔の叫びを上げてその姿を完全に消した。

 後に残る物は静寂。俊治の左手の炎も気づいた時には消えていて、美琴は今のが夢だろ

うと思ったほどだ。しかしそれは現実だった。最もたちの悪い、現実。

「お前は……」

 急に後ろから来た声に美琴は振り向いた。そこには刀を手に持った一人の男が立ってい

た。緋色の瞳を夜に光らせて――。





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