第一章『夜の狂戦士』





 目の前にある光景に高町俊治は身を凍りつかせた。

 自分の足元に流れてくる血。その先にある人――いや、人だったもの。すでに人型を留

めていないその肉塊から大量の血液が流れ出していた。

 俊治は込み上げてくる嘔吐感に耐えきれずに口から胃の中の物を吐き出す。

「――はぁ、はぁ、はぁ……」

 ようやく落ち着いてから、はっきりと見ないようにしてまた先ほどの場所を見る。

 すると今度は先ほどまでとは違った物が目に映っていた。相変わらず物言わぬ肉塊があ

り、その先に佇む人影がある――

「え?」

 それは人の形をしていたが、人ではなかった。下半身は確かに人なのだが、上半身は異

様に筋肉が盛り上がっており、普通人の三倍はあろう。そして何より人外だったのは、顔

が二つに裂け、割れた頭の中から細長い何かが伸びていたのだ。

「う……わぁあああ!!」

 俊治は叫び声を上げて逃げ出した。しかし恐怖に固まった足は思うように動かず、よろ

けて倒れてしまう。その倒れた上を風斬り音を立てて何かが通り過ぎた。

 耳障りな甲高い音。

 金属と何かが重なり合うような、そんな音がした。倒れた俊治には何が起こったのか認

識できないが、次にはずずっ、と何かがずれる音が聞こえる。覆い被さる危機感。

 咄嗟に俊治はその場から前に飛んでいた。それまで恐怖に震えていた俊治には奇跡だっ

ただろう。腹に来る重低音が響き、俊治には電柱が倒れた事が分かった。

 自分の傍にあった電柱だ。もし逃げる時に倒れてなければ切断されていたのは間違いな

く自分の胴体だっただろう。

 電柱が倒れたことにより倒れた先にあった家に電柱はめり込んでいた。

 その家の家族が一斉に起き出して何事かと騒ぎ出す。

(な……なんなんだよ、あいつは……)

 間違いなくさっきの得体の知れない化け物の仕業に違いない。ふと、俊治は化け物の姿

がない事に気付いて周囲を見回す。すると、自分の後ろに足が見えた。

「あ……あ……」

 恐怖に体を硬直させて、俊治は動けなかった。化け物は後ろに立ち、手にした剣のよう

な物を振り下ろそうとしていたのだ。俊治は自分の死を覚悟した。

(死ぬ!!)

「……『疾風怒涛』」

 突然入ってきた第三者の声。

 静かで、体に一本の芯が通っているようなしっかりとした声。この非現実的状況の中で

その声だけが現実の物のように思える。

 次の瞬間には自分の命を断とうとしていた化け物が二つに分断されていた。左右に別れ

た体は道路へと崩れ落ちる。そして灰色になったかと思うとまるで灰のように粉と化し、

完全に消失してしまった。最初から何もそこに存在しなかったかのように。

 あまりにもあっけない結末。しかし俊治にはもう消え去った化け物よりも自分の目の前

にいる人物のほうがすでに脅威だった。

(あの……化け物を一撃で倒すって……)

 俊治にしてみれば目の前にいる人物――姿からしてどうやら男だ――も今の化け物と同

じに見えた。腰には一振りの刀を帯びている。どうやらその一振りによって化け物を両断

したらしいが、そんな物騒な物をどうしてこの男が持っているのか?

 歳は自分と同じく二十代前半に見える。体躯も、さほど自分とは変わらない。最初に性

別を判別できなかった原因である、背中まで伸びている黒髪。顔は特に特徴のない顔立ち。

 だが、最も自分と相成すのは目だった。

 切れ長の瞳は赤く煌いていた。よく見ると、赤というよりも緋色のようだ。

 それは夜の闇には異質な存在として映る。

「ここも騒がしくなる。行くぞ」

「ええ?」

 俊治が異論を唱える間もなく、男は俊治の手を取って走り出した。その走りについて行

くしか俊治には出来なかった。





 十分ほど俊治は走り続けてようやく解放された。そこは街の中心とも言える神社がある

場所だった。

『三橋神社』

 そう書かれた木製の看板の横には神社へと続く百八段の階段がはるか天空を目指すかの

ごとく続いている。俊治はいつも大学に行く途中に視界に入れるが、その度に思わず見上

げてしまう。それほど見事なのだ。

「今日の事は忘れろ」

 自分を連れてきた男はそのまま神社への階段を上り始めた。俊治は一瞬呆気に取られて

いたが、我に返ると男の後を追う。そして肩を掴んだ。

「ちょ……っと待て! さっきの化け物はなんなんだ? あんたはなんなんだ!?」

 俊治の前に一陣の風が吹く。

 次の瞬間には男は俊治から少し離れた場所に移動していて、俊治の首には刀が止まって

いた。遅れてくる、刀によって引き起こされた風が俊治の前髪を撫でる。冷や汗が俊治の

背中を伝った。

「余計な詮索はするな。死ぬだけだ」

 そうして男は刀を納めると再び階段を上がっていく。俊治はその様子を見ていることし

か出来なかった。

(一体、何なんだよ……本当に……)

 俊治の中の疑問は膨らんできたが、短い時間に二度も死にそうな体験をした事から興味

は一気に冷めていく。

(夢だよ。このまま忘れてしまおう)

 俊治は神社に背を向けて歩き出した。自分の日常に戻るために。しかしこの時、すでに

俊治は穏やかな日常に戻ることは出来なくなっていたのだった。

 帰る俊治を後ろから見つめる二人の影がある。

 見た目を言うならば普通のカップルに映るであろう彼等がいた。

「……彼が、そうなのかしら?」

「おそらくな」

 共に白地のTシャツにジーンズというラフな格好で、女性は化粧気のない顔だが、どこ

か怪しい魅力を醸し出している。男のほうはスーツを着れば、どこかの御曹司と言えるよ

うな端正な顔立ちをしている。

 異様なのはその気配だった。近づくとどこか冷気を感じるほど彼らの周囲は寒寒として

いた。足元に生えていた草は生気を失ったかのごとく萎れている。

「それにしても……こんな所で『ナイト・セーバー』に出会うとはな」

「そうね。てっきり二年前に殺したのかと思ったのに……」

「まあいいさ。あの頃よりは強くなっているようだから、楽しませてもらおう」

 男はさも楽しそうに笑い、女のほうは対照的に何も楽しいことなどないと言うように顔

を歪ませた。風が吹いて、次の瞬間には彼らの姿はなかった。



* * * * *
 成城市。地方にある一つの都市で、特に目立ったところもなく観光スポットもない。  街に住む人々が静かに暮らすこと以外に何も特筆すべきことがないこの街が、最近はニ ュースで話題に上らない事はなかった。 『――はい。次のニュースです。成城市連続猟奇殺人事件の続報です。昨夜深夜零時頃、 成城市神尾町三丁目にて男性の死体が発見されました。死体の損傷はひどく、警察は連続 猟奇殺人事件の被害者と断定して捜査を継続しています。今月に入って事件はすでに八回。 犠牲者は二十人に増え、地元住民も安らかに眠れない夜を過ごして――』  俊治はテレビのスイッチを消すとトースターから飛び出したパンをかじって新聞を広げ た。マンションの四階で南側という事で朝の陽光はほどよく部屋に入ってくる。穏やかで 暖かい部屋の中で俊治は最初にテレビ欄を確認。そして次に三面記事。一面記事は一番最 後といういつもの手順を辿った。しかし書いていることはほとんど同じだった。 「……」  成城市連続猟奇殺人事件。  八月の半ばから始まったこの事件は、死体が人間の形をほとんど残してはいないという 残忍な点から国民全体の関心を集めた。時には一人、時には五人とその被害者は回によっ てばらばら。死体の損失状況からも人間ではなく巨大な獣の仕業ではないかと言う憶測ま で飛び交った。  結局、犯人の手がかりもないまま、昨日二十人目の被害者が出てしまったのだ。  俊治が見た、あの肉塊だろう。 「夢じゃなかった。あれは本当だった……」  血を流して倒れていた肉塊――人間だったモノ。そしてその人間の命を奪ったであろう 化け物。その化け物を瞬殺した男。前夜の記憶が色を帯びて俊治の記憶を揺さぶる。俊治 は熱いコーヒーを一気に飲み干した。湧き上がる恐怖を打ち消すかのようにカップを勢い よくテーブルに叩きつける。 (……もう関係ない。夜は絶対に外には出ない……)  俊治はパンをほおばると鞄を持って部屋の外に出た。ちょうど横に住んでいた住民も顔 を出し、目が合ったことで俊治は挨拶をしながら頭を下げた。 「おはようございます」 「俊ちゃんおはよう。ねえ、またあったんだってね、猟奇殺人」  隣の住民である切原智子は三十歳くらいの女性だった。結婚もしていて二歳の娘もいる が、その割には子供っぽい話し方をする。俊治は表面では特に感情を見せなかったが、実 のところ、彼女を気に入っていた。 「ええ。智子さんも気をつけてくださいね。夜、パートのバイトあるんでしょ?」 「襲われた人は深夜零時に出歩いてたんでしょ? パートは九時に終わるもの。大丈夫大 丈夫。それにゆかり残して死ねないわよ。他に誰もいないんだし」  俊治は軽く笑ってその場を後にした。マンション全体を見られる位置まで自転車を走ら せ、振り返って智子の部屋を見る。 (身寄りが無くて、旦那さん死んで、ゆかりちゃん育てて。大変なはずなのにそれをおく びにも出さない……立派だよなぁ)  恋愛感情ではない。  だが人生の先輩として、俊治は智子を尊敬していた。あのような人間になりたいと俊治 は心から思っていた。だからこそ心配だった。  夜に出歩く者を襲う連続殺人犯。昨日見たものが事実ならば、その犯人は人間ではない。 (確かに深夜に襲われているけど……それが次もそうだとは限らない)  人間の常識が通用する相手ではない気がしていた。  ふと、今日は昼間から犯行を行おうと白昼堂々とどこかに出没するかもしれない。そこ まで考えて、俊治は思い出した。  昨日、その化け物は一人の男によって殺されたのではないか。  はっきりと覚えている、化け物が左右に別れて道路に倒れる瞬間。裂けた体の向こうに 佇んでいた男。 「……ここだ」  大学に向かう途中に、その神社はある。前日に男が昇っていった階段。その先にある神 社にあの男はいるのだろうか?  腰にある刀一振りで化け物を瞬殺した、緋色の瞳を持つ男。  思い出した時、俊治は寒気を感じて身を震わせた。 (関わらないんだ……もう)  俊治は神社へと向かわずに、大学へと自転車を走らせた。 「――それは確かか?」  力強く、しっかりとした声が部屋の空気を震わせた。長い間使われていなかったためか 湿っぽく、据えた匂いが鼻をくすぐるが、声を発した男はさして気にしている様子もない。  しかし声をかけられた人物はその匂いが嫌いなのか顔をしかめながら答えた。 「うん。間違いないよ。奴等がここに来てる。私の知覚がそう言ってる」  長い髪を後ろで縛り、ポニーテールにしている女性だ。歳は十代後半。幼い雰囲気と大 人びた雰囲気が同居しているような、奇妙な気配を持つ女性だった。目は少し大きめで、 口は小さめ。少し童顔である事と歳相応の雰囲気がそのような気配を見せているのかもし れない。 「そうか」  男は女性の言葉を信頼しているのか、二度は聞き返さずに横に置いてある刀を取った。  鞘から抜かれた刀は少しの刃こぼれもなく、暗めの部屋の中でぼんやりと光っている。 「この刀にかけて、奴等を滅ぼす……」  軽い鞘鳴りを部屋に染み込ませ、刀を納めると男は立ち上がり部屋を出る。後ろに女性 もゆっくりと歩いてついていく。 「どこだ? お前の『シーク』が感じる、奴等の居場所は?」 「大学だよ。星陵大学」  その大学は俊治が通う大学だった。


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