「笹川、真……」

 隆はその名前に自らの中にある憎悪を充分に込めて、口を動かした。

 真の足の下には首のない死体。その格好から自分が追っていた響だと分かり、隆は言い

様のない怒りを覚える。仲間を平然と捨てる態度に、二年前が重なった。

 刀を握る手には血管が浮き出るほど握り締められている。自分の中に湧き上がる力を自

覚し、思考の赴くままに真へと放出した。

「『風林火山』!!」

 真の周囲に現れる不可視の刃。その数は通常の数倍と言っていいほどの数であり、真も

避けられるタイミングではない。しかし真は手にした刀を残像さえも残らない速さで振り

ぬくと自らに迫った刃を全て斬り払った。隆は少なからず驚愕し、額に浮かぶ汗を拭う。

「疲れているようね。『力』が弱まっているわ。そんな力ではわたしは殺せないわよ」

「……確かに」

 隆は自分の力が弱まっていることを自覚していた。度重なる力の消費に加えて、月明か

りにより夜の闇の力が弱まっている。隆は刀を構え、真に向かって走る。

 力強い踏み出しとともに放たれる必殺の一撃。残像を残さず、音さえも後方へと置き去

りにしたその突き。真はその場に立ったまま、首を少し横へとずらしてその一撃を躱す。

続いて太刀筋を変化させて過ぎた刀を急激に横に薙ぐ。

 姿さえ見えない体裁きと、刀捌きと。攻撃がなされていると分かるのは動くことで起こ

る風切り音だけ。

 攻撃を加える側、避ける側。互いの動きが常人をはるかに超える。二人だけが存在する

空間は誰も入ることが出来ない絶対領域だった。

(何故こうも躱される!?)

 二人だけの世界の中、一方の隆は完全に焦りを覚えていた。自分が姉から授けられた剣

術と、『アルトレイ』の能力があればその動き、攻撃はとうてい見切られるものではない

はずだった。たとえ笹川真が何らかの剣術の使い手だったとしても、自分が磨き上げてき

た剣術ならば必ず突破できるという自信があった。

 無論、それでも攻撃を躱され、致命傷を与えることに時間がかかるというのは想像して

いた。しかし、ここまで掠りもせず、躱され続ける事は完全に予想できなかった。

「心が乱れているわ!」

 下から振りぬかれる真の刀。跳ね上げられる隆の刀。二つの銀光は交差し、一方の光が

縦に振り下ろされ、隆の体に斜めの線が走った。

 急激に襲ってくる激痛。込み上げる灼熱の液体。口から血塊を吐き出しながらも、隆は

その場から飛びのき、真と距離を取った。

「――はっ! ぐ……」

 傷は徐々に治っていく。しかしそれを待っているような敵ではないと、隆は何とか対抗

しようとする。しかし体から失われた血液は簡単には補充できない。立ちくらみにより膝

を震わせ、よろめく事を止められない。

 だが予想に反して真は追撃をかけてこなかった。その場に立ったまま、隆をただ見つめ

ている。そこで、隆は違和感に気付いた。

「顔が……?」

 隆の目には、真の頬に傷が走っているように見える。おそらく、先ほどの攻撃によって

かすり傷はつけることが出来たのだろう。だが、問題はその傷がまるで古い皮のようにめ

くれ、下から皮膚が覗いていることだった。

「強くなったわね」

 笹川真は傷口に刀を持っていないほうの手をやり、ゆっくりと引き剥がしていく。徐々

に明らかになる下の顔。肌に張り付いていた皮が剥がれる音を聞きながら、隆は自分の眼

に映る信じがたいものを必死に否定しようとしていた。

 顔だけではなく、髪までも、そのマスクとともに剥がれていく。最後になり、真は一気

にマスクを引き剥がした。そして中空に放ると手にした刀を何度も光らせ、マスクは塵と

なって消えた。

 マスクの下から現れた顔。

 隆の過去と、現実が交わり、一つの答えを提示する。

 呆然と、隆は答えを呟いていた。

 それは自分の想いとはけして相容れないものであったが。

「ねえ、さん」

 笹川真――都築秋葉は隆の答えに顔を無邪気にほころばせた。その顔は隆の過去に存在

していた物と同じ。その同質性により、隆は胸がずたずたにひき裂かれる感覚を得た。

「嬉しいわ、隆。十年前にその刀を託してから今まで、あなたはそれこそ『サクリファー』

をずっと狩ってきたんでしょうね。私の願いを聞いて」

 その顔。その声。その気配。

 そのどれもが自分の中でいつまでも色あせずに残っている物と等しいことに、隆が最初

に覚えた感情は、歓喜だった。

 二年前に失われたはずの宝物が、再び彼の目の前に現れたのだから。

 だが、隆は首を振ってその感情を打ち消した。

「……ああ、そうだ! 俺は姉さんの願いを聞いて『サクリファー』を狩る旅に出た! 

お前が姉さんのわけはない! お前は……笹川真だ!」

 隆が怒りに任せて一歩を踏み出そうとしたとき、秋葉は隆の前に移動し、そのまま隆を

抱きしめた。咄嗟に刀を振り上げようとした隆だったが、腕に包まれている中で幼い頃の

感覚が甦ってくる。

「私は偽者じゃないわ。本当の、都築秋葉よ」

 言葉ではなかった。

 理屈ではなかった。

 隆の体。全細胞が、今、自分を抱きしめている人物が実の姉である秋葉だと告げている。

もう否定の言葉は無駄だった。どれほど口で否定しても、隆自体、抗う事が出来なくなっ

ていた。

「ねえ、さん……」

「そうよ。隆」

 秋葉は優しく呟きながら、手にした刀で右肩から左腰にかけて隆を貫いていた。





『隆。私はもう耐えられないの』

 姉をただ呆然として見ている隆。その隆へと秋葉は一振りの刀を差し出した。隆はその

刀を知っている。姉が父親から剣術の手解きを受けるときに用いていた、刀だ。無名だが

その切れ味は凄まじく、姉が『力』を使って刀を振り、地面に大きな亀裂を生み出したこ

とを覚えている。

『あなたの力と私の力は同じ。でもあなたのほうがより強力よ。この馬鹿げた研究で生み

出された哀れな犠牲者達を、どうか殺してあげて』

『姉さんは、行かないんだね』

 隆は寂しさを隠さずに言った。母親を生まれた時に亡くし、母の代わりとなって自分を

育ててくれた姉と別れるのは隠しようもなく寂しいものだった。秋葉は首を横に振る。

『私は、九条と一緒に皆に研究を止めるよう説得してみるわ』

 隆は姉の言葉に含まれているかすかな喜び、心強さを感じて胸が痛んだ。

 姉の恋人である九条真司。

 秋葉とともに研究に対して反対をしていた男。九条の話をする秋葉は隆には母親ではな

く一人の女として映った。

『姉さんの願いは、俺が叶えてみせる』

『頼んだわよ、隆』

 姉が額に口づけし、去っていく間。隆はずっと秋葉の姿を視界に入れていた。微動だに

せず、二度と会うことがないとしても、けして忘れぬように。

 姿。声。香り。雰囲気。

 時の流れに風化せぬように、隆は心に刻み込もうとした。たとえそれが無駄になるとし

ても。秋葉が視界から消えてもしばらく隆はその場に立っていた。そこに後ろから声がか

かる。

『……隆。行こう』

 上月恵美華の言葉に、隆は振り向き、歩き出しながら言葉を返した。

『ああ。行こう』

 他に言葉はいらなかった。

 これが始まり。

 この時が、隆にとって全ての始まりだった……。





 流れ去る記憶を霞む瞳に映しながら、隆は前に倒れるわけでも、後ろに倒れるわけでも

なく、その場にしゃがみこむように力の抜けた体は崩れ落ちた。その衝撃に少しだけ回復

した視界にはもう過去の映像は映ってはおらず、現実の月明かりを背にした秋葉が隆の血

に濡れた刀を抱き、刃を濡らしている血液を指で掬い取り、口に運んでいる。

「ど……して……」

 込み上げてくる熱い物のために言葉が出ない。『アルトレイ』の回復力でも回復するか

どうか分からないほどの致命傷。血液不足から隆の脳は考える機能をほぼ停止し、秋葉の

言葉を霞がかった思考のままに聞くことになる。

「どうして? それはね……」

 秋葉は頬を赤く染め、恍惚の表情を浮かべて呟いた。

「私は九条を愛してる。世界中の誰よりも。誰を犠牲にしてでも、彼の手助けをしたい。

それだけよ」

 それはまだ若く、恋に浮かされる少女のような語り口。

 その口調、その顔のまま、秋葉の手が振られて隆の左腕が肩から両断される。斬られた

衝撃にも隆は軽く右側へと傾いただけで倒れはしない。続いて左太腿に刀が刺され、コン

クリートの床と腿が縫い付けられる。

 隆はかすかに呻き声を発した。もう肺を収縮して酸素を取り込むことさえも困難となっ

ている体では、声を出す事さえも苦痛だった。

「九条こそ選ばれた人間よ。『アルトレイ』なんて創らなくても、彼がいれば、世界を変

えることが出来る。そうなれば彼に従わない『アルトレイ』は邪魔なだけ。だから、二年

前のあの日に研究所を壊して、研究を全て葬ったの。データは九条が全て自分の頭の中に

保存したわ。資料も何もない。彼が生きていれば、いくらでも自分に付き従う『サクリフ

ァー』を創り出せるから。浅倉龍二も死んだ。後はあなたと上月恵美華。そして高町俊治

だけなのよ」

 秋葉は突き刺していた刀を抜き、振り上げた。目標は隆の左肩口。心臓を縦に両断し、

生命活動を完全に停止させる。思考能力が低下している隆にも必殺の気が秋葉の持つ刀へ

と集まっていくことが分かった。

 ぼんやりと浮かぶ光景。

 幼い自分に菓子を分け与えてくれた秋葉。

 辛い稽古に泣いていたところを慰め、それに感謝を示していた秋葉。

『アルトレイ』の力に怯え、命を絶とうとした時に止めてくれた秋葉。

 隆が生まれた時から別れる十年前まで、自分に対して愛情を注いでくれた姉の姿が視界

に生まれる。

 自分が今まで生きてきて、ただ一つすがってきた存在。

 姉の願いをかなえるために。姉の顔が悲しみに染まることを誰よりも自分が嫌っている

のだと信じて疑わず、『サクリファー』を屠る先に姉の笑顔を描いて、隆はこれまで生き

てきたのだ。

 二年前に研究所に戻ったのは、『サクリファー』を殺し尽くす先が見えたからことから、

姉へとその旨を報告するためだった。そして、あの惨劇が起こったのだ。

 姉との約束。姉を殺した人物――自分の全てを奪った敵、九条真司を殺す。

 二つの思いに支えられてきた隆は今、自分の存在が足元から崩壊していくことをどこか

遠くから見ていた。

 眼に映る姉に重なって、刀を振り上げて今にも自分の命を絶とうとする秋葉が見える。

 自分が追い続けてきた姉の姿。

 今、目の前で自分を殺そうとする姉の姿。

 どちらが現実なのか。それとも何もかもが幻想だったのか。真実はどこにあるのか。

 隆は自分を殺す刃を凝視したまま、自分の死を覚悟した。

 秋葉の手が動く。

 もう考える事はない。真実がどこかなど。姉との想い出が幻想だったのかなど。

 心を蝕む苦痛に耐える必要はもうなくなる。そのことに、隆は安堵を覚えていた。

「さよなら」

 一言。別れの言葉。

 振り下ろされる刃。ゆっくりと流れる時間。

 引き延ばされる時間の中で、隆の目に一つの光景が重なる。

 それは隆が幼い時、『アルトレイ』を恐れる普通の子供が隆に向けて木の棒を叩きつけ

ようとしたときに自分を盾にして守ってくれた姉の姿。





 その幻影に重なるかのように――上月恵美華が秋葉の刀を受け止めていた。





 徐々にだが、隆の体は修復され始めていた。そして霞がかかった視界もしだいにクリア

になる。回復しつつある視界の中で、最初に隆の目に飛び込んできたのは秋葉の刀をその

身で受け止めている恵美華の姿だった。

 刀は恵美華の肩から心臓付近まで達していたが、恵美華はその刀身を両手でしっかりと

握り、放そうとはしない。秋葉は腕に込めた力を解かないままに言う。

「順番が変わるだけなのに。死に急いだわね」

「……隆」

 しかし恵美華は秋葉の言葉に対して反応は示さなかった。自らの後ろで座り込んでいる

隆に向けて顔を軽く向け、鋭い視線をぶつけた。隆にしてみれば、自分に向けてそこまで

の強い意志を込めた瞳を向けてきた恵美華は初めてであり、動揺する。

「大の男がいつまでも姉さん姉さん言ってんじゃないよ!!」

 全身に、口調に持てる全ての怒りを注ぎ込んでいるかのように恵美華は隆へと叫んだ。

「今を見てよ。過去は戻ってこない。過去は保存されるだけなの! 過去を大切にするの

はいいけど! それに囚われないで!! あなたの愛した姉はもういないの! 二年前の

あの日に死んだのよ!!」

「私は生きているわ。ここに」

 秋葉は徐々に恵美華の体に刃を食い込ませていく。体を走る激痛に悲鳴を上げた恵美華

だったが、すぐに視線を秋葉に、そして隆に戻す。

「いい! 分かってる!!? 『あなたの愛した姉』は! 二年前に死んだのよっ!」

 恵美華は激痛と、秋葉の力に押されて一歩一歩、隆の座り込んでいる場所へと近づく。

迫ってくる恵美華の背中を見て、隆は自分の中に生まれる力を認識していた。





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