愛。

 その単語が俊治の中に浸透していくにつれて、彼は言い様のない違和感に囚われていっ

た。提示された言葉は俊治が浅倉龍二という人間をどうにか理解しようとする点において

最も考えもつかない言葉だったからだ。

(愛? どうして……そんな言葉を言えるんだ?)

 俊治は龍二と会話を交わした時を思い出す。それはまだ数日前の出来事にも関わらず、

もう何年も前に行われたもののように感じられた。

 その時、彼は言ったのだ。



『俺は失敗作さ。お前を創るためのな』



 その時の彼の様子は、自らを蔑み、俊治に憎悪し、『アルトレイ』を創造した自分の父

に対しての憤怒が感じられた。それはけして偽りのものではなく、『実体のある感情』と

して俊治は受け止めていた。

「意外と言う顔だな」

 俊治の顔を見て龍二は言う。その口調は上半身だけという外見的に異常な状態の中では

かなり浮いている。俊治は特に否定の言葉を口にはせずに、話の続きを待った。

「……俺は父に創られた。『完全体』、『進化した人類』を創るなんていう馬鹿げた計画

のために、俺の存在は踏みにじられた。……研究所の誰もが俺を恐怖し、軽蔑の視線を投

げかけてきた。恐怖ゆえに誰もが表に出さず、内に覆い隠そうと無駄な努力をして」

 俊治には龍二の気持ちが分かるような気がした。

 今の自分が感じている感情。

 人間とは違う力を持たされてしまい、破壊衝動に怯え、人々の奇異の視線に恐怖する。

 それを克服するための戦いを、龍二は俊治が生まれる前から一人で続けてきたのだ。

「切原智子がいたから耐えられた、と前に言ったが、結局、彼女も俺を普通の人間と信じ

ているからこそ、接してくれているのだと分っていた。俺を心の底から全て理解し、それ

でも愛してくれたのは……父だったんだ」

 龍二の目から流れ出る涙を、俊治は驚愕と共に見ていた。

 黒目の色は深くなり、過去を回想し、現実から遠ざかっていく様子を明確に示す。

 急速に戻る記憶と共に、龍二の中から噴出したもの、それは……

「俺は父を心から愛していた。俺を愛してくれる父を、愛していた。そして、憎くてたま

らなかった。俺の人生を狂わせた父が!!」

 俊治が幾度となく感じ、接してきた物。

 浅倉龍二という皮がはがれ、喜び、悲しみ、憎悪……全ての感情が剥がれ落ちて、最後

に現れたもの。

 それは……狂気だった。

 人間としてではなく、人間を超えた化け物として自分を生み出した父を憎む気持ち。

 人間を超えた化け物としての自分を理解し、愛してくれた父を愛する気持ち。

 二つの相反する感情の中で、龍二は過ごしてきたのだ。

 俊治は体を震わせる。あまりに信じられない事実の中で、彼の心は恐怖に満たされつつ

あった。

「愛情と憎悪を同居させ、俺は過ごしてきた。おそらく、俺は壊れてしまったんだろう。

この状態に耐えられずに自分を傷つけることもあった。徐々に大事な物が心から消えてい

く感覚があった。俺は、おそらく狂気に支配されたんだ」

 龍二は自分が涙を流している事に今、気付いたようで、涙を拭こうと腕を動かそうとし

た。その腕が無いことに今更ながら自傷的な笑みを浮かべ、嘆息をつく。俊治を眺め、そ

の反応が希薄なことに気付くと、龍二は話を現実に引き戻した。

 俊治が知りたかったであろう事実を言うために。

「父との『約束』とは、『完全体』を創ることだった。お前には他にも『完全体』がいて、

九条の反乱でお前以外死んだと言ったが、実はお前以外に『完全体』は生まれなかった」

「……俺以外はいなかった?」

「ああ。父は死ぬまでお前以外の『完全体』を創れなかった。死ぬ間際――九条が研究所

を襲撃する直前に、俺に電話をしてきたよ。そして言ったのさ。『お前が、完全体を創れ』

とな。そして俺は父の意思を継いで『完全体』を創るために病院でお前に身体的特徴が似

た者達を探し、密かに情報を確保しておいた。後は、九条を探し出して奴の持つ精製法を

奪って実験をするだけだった」

「……だから、九条に昭英達を提供したって言うのか」

 俊治の内に怒りが吹き上がる。龍二が狂気に犯されているということや、彼の事情が何

かあるとはいえ、他に人間を、昭英を実験体として利用したというのは事実。俊治は龍二

を抱えていた手を振り上げて、そのまま振り下ろそうとした。

 だが、手は力を蓄えたままで止められていた。

「そうだ。言い訳はしない。俺はお前の友人を実験体にし、『完全体』を創らせることに

成功した。後は、俺自身の望みを叶えるだけになった」

「浅倉さんの……望み?」

 俊治が尋ねると。龍二は一つ頷き、澱みなく言い放った。

「『完全体』を殺すことさ」

「……」

 何も言えない俊治に向かい、龍二は思いのたけを打ち明けるかのように饒舌になってい

った。

「俺は父も、『アルトレイ』も憎かった。だからこそ、こんなろくでもない研究の成果の

産物を、全ての産物の実験体として生まれた俺が駆逐する。それこそ、父に対する最大の

復讐だったんだよ!」

 一方では父のために約束を叶えようとし、一方では父に復讐するために『サクリファー』

を狩る。精神が分裂しているわけではない。どちらの感情も、龍二にとっては真実の感情

だったのだ。俊治は理解出来ない代わりに、一つの言葉に置き換える。

『狂気』

 言葉にすれば陳腐な言葉に過ぎなかった。

 しかしその言葉は重く俊治の心に圧し掛かる。

 黒く、重いその感情は心の中にしっかりと足を立て、そこから根が生えていく。

 完全に心と一体化していくかのように、根が張られて行く。俊治は顔を青ざめさせたが

震えを堪え、吐き気を堪えた。

「これが、俺が持っていた事実さ。結局、『完全体』を殺す事も出来ず、志半ばで俺は死

ぬ。高町俊治……お前に一つだけ頼みを聞いてもらってもいいか?」

 俊治は頷いた。

 言葉は出ない。何か一言でも発すれば、自分は発狂してしまうかもしれなかった。

「俺を、灰にしてくれ」

 その申し出は予想していた。龍二の顔は死相が浮かび、全てを話し終えたということか

らか一気に生気が抜け落ちていく。俊治は何も言えず龍二を見つめた。

「もうすぐ死ぬなら、一気に死ぬほうがいい。そうだろう?」

「……分かりました」

 俊治は右手を龍二の胸の上に置き、力を集中しようとした。

 その時――

「――俊治君?」

 かけられた声に俊治は驚愕して振り向いた。

 そこにはパートから帰る途中だったのか切原智子がいた。





「どうしたの? こんなとこ――」

 その時点で智子は気付いたようだった。俊治の腕の中に抱かれている、小さくなってし

まった浅倉龍二を。最初、彼女は呆けたように俊治の腕の中を見ていたが、やがて体を震

わせて、顔を青ざめさせていく。

 俊治は腕の中の龍二を見た。

 龍二はすでに事切れていた。最後の力を振り絞り、自分の中にあった事実を俊治に伝え

て死んでいた。その告白を俊治に聞かせてどうする気だったのかということをとうとう俊

治に言うことなく。

 当の俊治は龍二の死を確認した後で、智子に視線を戻した。と、同時にヒステリックな

声が響く。

「あ、浅倉君!!? い、一体どうして!?」

 智子は俊治の手の中から乱暴に龍二を奪い取った。抱きかかえられるほど小さくなって

しまった龍二を必死で揺さぶって、彼女は声をかける。

「浅倉君! 浅倉君!! ねえ、目を開けてよ! 何があったの!? どうしてこんな姿

になってるの!?」

 智子は何度も意味の無い問いかけを繰り返した。俊治は見ていられずに視線をそむけよ

うとしたが、智子の視線が急に自分のほうを向いたことで、そのタイミングを逸する。

 口調の中に激しい怒りと、状況を察知し得ない困惑を含みながら智子は言った。

「ねえ! 俊治君が……浅倉君を殺したの?」

 その問いかけは無意味だ。

 龍二を殺したのは俊治ではない。俊治の友人の昭英だ。

 その答えを言うのはあまりに簡単であり、その答えを理解させるのはあまりにも難しい

ことだった。何もかも現実離れしている状況を、何も知らずに生きてきた智子が理解する

可能性はほぼゼロであろう。だから俊治は言葉を発することが出来なかった。

 真実は意味が無い。

 真実を覆い隠せるような嘘も告げることも出来ない。

 沈黙が支配する中で、聞こえるのは智子の息づかい。

 鋭い、今まで俊治が見た事の無かった視線を向けてくる智子を見ることが、俊治には耐

えられなかった。ほんの一瞬、視線を外す。

 そして俊治は自分が致命的なミスをしたことに気付いた。

 気づいた時には既に遅く、智子の瞳に絶望が広がっていくのを見ながら、俊治は呟いて

いた。

「違う……」

「何が違うのよ! あなたが……あんたが、浅倉君を殺したのね!!」

 それは誤解だった。

 しかし彼女にはそれが真実だった。

 智子の問いかけに対して一瞬でも視線をそらしてしまった時点で、智子には俊治が犯人

なのだと確信させてしまった。もう俊治には弁解の余地は無かった。

「浅倉君……どうして、こんな目に……」

 智子は龍二の亡骸を抱きかかえながら泣いた。もう俊治が傍にいることを忘れて、ただ

泣いていた。俊治はそんな智子にかける言葉を失い、ただ見ているだけだ。

(俺のせいだ。俺のせいで、智子さんは大事なものをなくしたんだ……)

 一瞬の出来事。

 一瞬の気の迷い。

 時の流れは鮮烈で、後悔をする間も許さない。

 気付けば今日は昨日となり、明日は今日となる。

(もう、後戻り出来ない場所まで来ているんだよ、俺は!)

 俊治の瞳に少しだけ光が灯った。先ほどまで脱力感が支配し、動くことすらままならな

かった体が徐々に覚醒していく。体全体に神経が張り巡らされる感覚を確認した俊治はゆ

っくりと立ち上がり、智子の傍に立った。

 智子は龍二の亡骸を守るように俊治に背中を向ける。しかし俊治は智子の背中越しに龍

二の体を右手で掴み、力を集中した。

 俊治の消滅の力が龍二の体に浸透し、徐々に龍二の身体は灰と化していく。

「あ……ああ!」

 灰と化していく龍二を見ながら叫ぶことしか出来ない智子。龍二は数分も立たない内に

残りの体全て灰と化し、風に飛ばされていった。智子は風に乗る灰を涙を流しながら見上

げていた。

 全ての灰が消え去った時、智子は俊治に向けて吐き捨てるように言う。

「これも、あなたがやったの!?」

「……はい」

 もう否定はしなかった。真実を言おうが言わまいが、どちらにしても智子の生活は崩れ

るだろう。もう俊治に選択の余地はなかった。どう転んでも俊治には絶望しか残されては

いなかったのだ。だからこそ俊治は今できることをした。

 浅倉龍二の最後の願いを叶えることを。

「……許さない!」

 智子の平手が唸り、俊治の頬に吸い込まれる。俊治はよろけ、智子は平手の結末を見ず

に自分が来た道を戻っていく。その後姿を俊治は立ったまま見ていた。

 完全に智子の姿が消えたとき、叫んでいた。

「う――おおおおおおおおおああああああ!!」

 最後にその場に響いたのは、絶望の咆哮だった。



* * * * *
 都築隆はもう何度目になるか分からないほど、力を放出していた。  響の力は自分にとってさして脅威になる物ではなかったが、隆の力も無限ではない。使 い続ければいずれは底をつく。隆は表情にこそ出しはしなかったが、徐々に焦りを覚えて いた。響の気配は感じる。しかし、その気配はあからさまであり、隆を誘っていることは 明らかだった。 (……何をたくらもうと、全てを斬り祓う!)  隆は胸の奥で強く思うと、一気に跳躍した。ビルの合間の闇から抜け出して見た空は、 月明かりに照らされた空は、隆の目にはあまりに綺麗で痛みを覚えた。  跳躍の浮遊感が消えると、次は落下感。身近なビルの屋上に着地して、隆は周囲を見回 した。響の気配はこの場所で消えている。何かを仕掛けてくるとすればこの場所だろうと、 隆は構えずに立った。  どんな状況にも即座に対応できるように、あえて構えずにいた。  それはほんの一瞬だったのか、それともかなりの時が流れたのか分からない。無音の空 間内に流れる時間は、不安定で確証がない。 「会いたかったわ」  その声が隆の耳を震わせた時、隆は動くことができなかった。月明かりの下、自分へと 影を伸ばしている一人の女。 「都築隆。『ナイトセーバー』。わたしが殺してあげるわ」  腰にある一振りの刀を抜き放ち、笹川真は極上の笑みを浮かべた。


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