第四章『夜が来る』





「やあ、俊治。元気にしていたかい? 僕も何とか生きているよ。しかも、ほら、見てみ

てよ、こーんな力も手に入れたんだ」

 昭英は手に多少の力を込めたようだった。それと共に氷室の体に広がる氷の速度が上が

る。それと同時に氷室が叫び声を上げた。

「うあああああ!!」

 激痛による悲鳴。俊治は耳をつんざくその声を聞いていられずに顔を背ける。しかしそ

の悲鳴を聞いて昭英は笑っていた。心底おかしいというように、顔を醜く変形させて。

「あはははは! 気持ちいいよ! 気持ちよすぎるよ!! その悲鳴は!」

 更に氷室の体は氷に覆われ、遂に顔を残して全身が凍りつく。氷の中に見える体はすで

に壊死しているようで、黒ずんだ色をしていた。ただ、凍りついたことで細胞の働きが止

まっていること。そして『アルトレイ』としての力により生命の炎は全く消えてはいなか

った。それこそが氷室にとっては地獄となっていた。

「お……ねが……い……も、もうころ……」

 涙を流しながら昭英へと訴えかける氷室。高笑いを続けていた昭英は笑うのを止めて氷

室を見る。その瞳には鋭い光が宿っていた。

 俊治が今まで見た事が無いような、殺意の光が。

「何だよ。もっと悲鳴を上げろよ。もう少しでイッちまうところだったのに……死ね」

 昭英がそう言った瞬間、凍りついた氷室の体が砕け散った。体の表面だけではなく、深

奥までも完全に凍っていたのか、内臓が飛び散るという凄惨な光景は展開されず、それは

あたかも氷像が砕け散ったように細かく砕けた破片が辺りに散らばった。

「氷室さん……」

 俊治がその名を呆然と呟く。昭英は俊治を一瞥すると、割れた衝撃で少し離れた場所へ

と飛んだ氷室の首から上を見つけ、歩いて行く。昭英が頭部を睨みつけると、氷室の頭部

は怯えた表情をして昭英を見た。

「ははは。首から上だけなんて、昔観た映画みたいだな……『永遠に美しく』だったか?」

 俊治もその映画はかすかに覚えていた。

 確か、不老不死の薬を得た二人の女性の話だ。

 最後は確か……。

「階段から落ちた二人の女性は体と顔が分離しちまって、首だけになって話し続けるって

ラストだったかな? 本当、ブラックコメディだよな。あの映画も、この現実も」

 足を振り上げた昭英を見て何をする気かを悟った俊治だったが、体が動かなかった。体

を動かすことがきつくなるくらい凍らされていたこともあるが、何よりも現実を直視でき

ないことが、脳と体の分裂を生んでいた。

 ブラックコメディ。

 冗談と言うにはあまりに酷い現実。

 引き裂かれた思考に流れ込む、冷気を帯びた言葉。

「さよなら氷室先輩」

 言葉と共に、昭英は躊躇なく足を振り下ろした。

 人間の頭部がぐしゃりと鈍い音を立てて潰れる。体とは違い、凍り付いていなかった頭

部は脳漿(のうしょう)が飛び散り、どろりとした液が血液と混じりあいながら流れ出し

ていく。それを見た瞬間、俊治は吼えた。

「う――おおおお!!」

 俊治の左手から吹き上がる炎。その炎の熱により急速に溶けていく、体を拘束する氷。

 体が自由になると同時に俊治は昭英へと掴みかかっていた。昭英は俊治に合わせるよう

に両手で俊治の両手を掴む。

 力比べをする形で向かい合う二人。

 俊治にとっては望んでいたはずの再会は、最悪の形で達成された。その怒りが、俊治の

体全体を包んでいく。

「くそ! どうしてだ昭英! どうしてお前が『完全体』なんだよ!!」

 俊治はやりきれずに言い放つ。しかし昭英は平然と俊治へと答え返していた。

「何故って? 俺は選ばれたのさ。あの病院で」

「病院?」

 その言い回し。単語に俊治は違和感を覚えた。一瞬怯んだ俊治へと昭英は鋭い視線を浴

びせる。背筋も凍るような、殺意の視線。

 その刹那、俊治の脳裏にいくつか散らばっていた疑問が浮かび上がる。昭英の言葉がき

っかけとなり、いくつかの事実が結びついていく。

「……お前の家の新聞は四日分あった。四日前は『サクリファー』に襲われて、病院に運

ばれた日だ。お前はいつも朝刊を夕刊を読む。つまりは『サクリファー』に襲われた日か

ら、あの家には昭英は帰っていなかった」

「そう言うことだね」

 冷静に自分の推理を認める昭英に、俊治は顔をしかめつつも先を続けた。

「……病院から、家に帰る前にお前は九条達に捕まった」

「違うよ。俺は選ばれたんだ。捕まってはいない」

 俊治は次々と頭の中で組み合わされていくパズルを意識の片隅で見ていた。まるで自分

の思考ではないかのように急スピードで構成されていく推理――そして辿り着く結論。

「お前の視線。同じなんだよ」

「何と?」

 昭英は答えが分かっているのだが、あえて俊治に聞く。その行動がとても腹立たしく、

手に力を込めた。

「次の日に、大学に向かった時に美琴さんの車の中で感じた! あの視線とな!」

 昭英は高らかに笑い、俊治の手を離して距離を取った。俊治はその後ろに昭英へと歩い

てくる人影を確認する。昭英も気付いているようだったが、言葉を続けた。

「そうさ。あの時にはすでに僕は『完全体』となっていたんだよ! 病院で、俊治と隼人

が寝ている間にね」

 俊治は昭英の話を聞きながら、後ろから自分へと近づいてくる気配も感じていた。何の

事は無い。足音を普通に立てながら歩いてきているのだ。俊治の視界には昭英のすぐ後ろ

に辿り着いた男が見えている。

 短く刈り込んだ灰色の髪。瞳を見透かせない黒眼鏡。皺一つ無いスーツを来た男。

「大学の部屋を襲ったのは俺さ。あそこに保管されていた『完全体』精製の資料を抹消す

るためにな。お前と美琴さんを見たのはそこからの帰りさ」

「……『完全体』精製の資料?」

 昭英の言葉に驚愕し、続きを聞こうとした俊治だったが、先に別の声が口を挟む。

「少し、ばらすのが早かったんじゃないですか? 伊藤昭英君」

「ふん。俺に指図するなよ、九条真司」

 昭英は汚物をを見るかのように九条を睨みつける。しかし九条は眼鏡の中心を右手中指

で軽く押し上げ、笑った。俊治から見ると口だけが三日月の形に広がるように見える。

 俊治はすぐに九条へと怒りをぶつけたかったが、その感情の矛先を自分の後ろで立ち止

まった相手へと変え、相手を見ないままに叫んだ。

「どういうことか、説明してくれよ! 浅倉さん!」

 浅倉龍二は俊治の言葉にも表情を崩さず、何の感情も写さぬままに俊治の横を通り抜け

て昭英と九条を見据えた。

「ああ、浅倉龍二。君には感謝しないといけないな。君が提供してくれたサンプルは、見

事に『完全体』となった。私の研究が遂に花開いたよ」

「……別に、お前に協力したわけじゃない。俺は俺の約束を果たしただけだ」

 九条と浅倉の会話は俊治に理解出来るものではなかった。頭が思考を拒否する。入って

くる言葉を拒否する。しかし、俊治は引かなかった。全ての真実を知る必要があった。

 だからこそ、彼は受け入れた。非情な現実を。

 伊藤昭英は『完全体』となったのだ。

 自分と同じく、一人の男が生み出した絶望を背負ったのだ。

「説明しろよ! 何がどうなってるんだ! どうして九条に協力したんだ! 浅倉龍二!」

 怒りに身を任せて龍二を糾弾する俊治。龍二は少しだけ俊治に顔を向けた。その顔を見

て、俊治は戦慄する。

 その眼に映るのは深い絶望と、もう一つ、俊治には分からない感情だった。

「お前には理解できん。言っただろう。俺は『約束』のために闘うと」

 龍二は話をそこで打ち切ると、九条達の所へと足を踏み出した。右手首を左手で掴み、

力を込めていく。その場に張り詰める様々な気配。

 闘気と殺気が入り混じった暴風が周囲を唸らせ、俊治の肌を焼くような錯覚を生み出す。

昭英も笑みを浮かべて一歩前に踏み出し、両手を広げた。

「私の望みは達成された。後は君の『約束』を果たすがいい」

 九条は高笑いを続けながらその場から離れていく。俊治は龍二と昭英に構わずに九条の

前に回りこんだ。

「このまま行かせるか!」

「……君は最初から最後まで、振り回されていただけですね」

 九条の言葉に俊治は怯む。何か言い返そうとしてもその言葉を持ち得なかった。

「石原正嗣は『プロジェクト・アルト』の関係者だったのですよ。そして、資料の一部を

持ち逃げし、保管していた。『完全体』を完成させまいとしたのでしょう。だが、私は自

分の力でそこに辿り着いた。そこで、他にも『完全体』を生み出す者が出てこないように、

彼に保管されている部屋を襲撃させたのです」

「……石原教授も関係者だったのか……」

 俊治は言い様の無い絶望感に包まれていた。自分が今の大学を選んだのは本当に偶然だ

った。第一志望の大学に落ち、何とか滑り込んだのだ。そこに誰かの意思が介入する余地

など無かったはずだ。

 しかし九条は笑い、言い切る。

「君の進路はすでに決められていたのさ。他の大学を選ぶことなど最初から出来なかった

んだよ」

 やり場の無い怒り。

 自分の意志を全く無視され、今の大学に入ることとなった。それが真実だと、九条の言

葉は告げていた。それが嘘だということなど信じられないほどの重み。

「――くそぉお!」

 俊治は拳を突き出した。言葉もなく、人を救うなどという大義名分も持たず、ただ他に

怒りをぶつける矛先がなかったという無価値の拳。その拳は九条の頬に吸い込まれたが、

九条は動くことなく、拳を顔にめり込ませたまま俊治を見据えた。

「軽いですね。躱すまでもない。意志のない拳など、何の力もない」

 俊治の拳をどけると、そのまま九条は俊治の横を通り過ぎていった。何も出来ず、その

場に座り込む俊治。その目からは自然と涙が流れていた。

 その目を、闘いを続けている龍二と昭英へと向ける。

 昭英の体からは炎が噴き出ていた。自分が持つ力と同じ、炎。

 龍二は炎に身を焼かれながらも接近し、拳を繰り出し、昭英は攻撃を受けていく。しか

し大してダメージを負ったような素振りを見せずに昭英は笑みを浮かべたまま龍二をあし

らっていく。龍二の顔が焦りと、苦痛により歪む。

「駄目ですよ、浅倉先生。こんなのじゃ、僕は殺せません」

 昭英は繰り出された龍二の右手を右手で掴んだ。その刹那、急激に龍二の右手が凍って

いく。

「ぐああああ!!」

 拳から始まった凍結は肩口まで達し、昭英が手を振ると共に、肩口から龍二の手はもぎ

取られていた。激痛に傷口を抑えて屈みこむ龍二。

 その隙に後ろに回りこんだ昭英は左足を掴む。凍りつく左足。更に上がる龍二の苦鳴。

 凍結は今度は腰から下全てを覆い、昭英は無造作に踏みつけると、腰から下が粉々に粉

砕された。周囲を舞う粒子が、月明かりに反射して煌く。

「これまでだね。先生。老い先短い寿命をここで使っちゃうなんて、もったいない」

 昭英は残った左手を掴み、同じように凍結させてもぎ取った。龍二はすでに意識がない

のか何も言葉はなかった。昭英は笑い、龍二を残して歩く。

 あまりにもあっけない決着。訪れた残酷な結果。

 俊治の目から見ても強靭な戦士であった浅倉龍二を完膚なきまでに叩き潰し、その余韻

を残しつつ歩く昭英。

 その先には俊治がいた。

 俊治は一部始終を見ていたにも関わらず身動きすら取ろうとしない。

 昭英は悠々と俊治の横を通り、呟いた。

「次はお前だ、俊治」

 昭英の言葉が俊治の心に突き刺さる。俊治は涙を流し、昭英は高笑いをし――あたかも

九条のような――二人の道は別れた。俊治は動くことも出来ず、ただ涙を流し呟き続ける。

「昭英……昭英……昭英……」

 自分の中の大切な物が崩れ去り、消えていく感覚。

 元々、絶望はあった。

 しかし、自らの後ろに蠢く絶望に飲み込まれないために、俊治自身、誓ったはずだった。

 だが今の俊治を支えるには全てが足りない。

 隼人の言葉。

 美琴の言葉。

 自分を支え続けてくれるだろう人々の言葉が、俊治の耳から徐々に離れていく。

 絶望に犯されていく中で、言葉が聞こえた。

「……高町、俊治」

 はっとして顔を上げると――いつの間にか下を向いていたらしい――龍二が意識を取り

戻して俊治を呼んでいた。俊治は立ち上がり、よろけながらも龍二の下へと向かい、上半

身だけとなった龍二を抱きかかえるように持つ。

「……俺は、『約束』を果たせなかった……」

 遠い眼をして龍二は呟く。俊治はそこで気付いた。『アルトレイ』は氷室のようにこの

状態になっても死にはしないだろう。しかし、龍二から急速に生命力が失われていくのが

俊治には理解できた。龍二は俊治の驚愕振りを見て、軽く笑いつつ言う。

「そう。俺の体はもうぼろぼろだったのさ。『アルトレイ』となった副作用かは分からな

いがな。だからこそ、俺は『約束』を果たす必要があった。一刻も早く」

「その『約束』って何なんですか?」

 俊治の問いに、龍二は澱みなく答えた。

「俺は父を愛していた……」

 龍二の独白が始まった。それはあたかも目の前に流れている映像を語るかのように。

 俗に言う、走馬灯を見ているかのように滑らかに。





BACK/HOME/NEXT