隼人が刺された現場についた俊治は、その場所に広がる血痕の後を見て身を震わせた。

その広がり方は尋常な量ではない血液が流れたように思え、素人の俊治から見れば死んで

いてもおかしくないだろうと思えるほどだ。

 隼人は何故、藤木町にいたのだろうと俊治は考えていた。藤木町は俊治の住んでいる町

の隣であり、俊治達が昭英を探す一日目に、彼自身が捜索した場所だった。一つの町自体

の規模はそんなに大きくないのだが、夜遅くまで捜索すると『サクリファー』に襲われる

危険があったこと。そして一つの町をじっくりと探すという二つの点から一日一つの町と

二人で決めていたのだ。一度捜索が終わった町に、隼人がいる理由など無いはず。

(隼人は……何かを知ったのか? この町にくる理由があったのか?)

 俊治はすでに警察の現場検証を終えたその場所に歩いていき、固まった血を踏みしめた。

時刻はもう少しで八時。着いたのは三十分以上も前だったが、終わらない思考のループに

陥っていた俊治には一瞬で流れた時間だ。

(兎に角、今日は何も分からない。隼人が……意識を取り戻してくれれば……)

 慌てて出てきたが、俊治は隼人が死ぬかもしれないという可能性に至っていた。隼人は

確かに意識不明だ。死んではいない。しかし、いつ体調が急変するかもしれない。

「俺の、せいだ」

 俊治は呟いて、頭を抱える。

 全てを話していなくても、昭英との連絡が取れなければ隼人は探していたのかもしれな

い。だが、何も知らなければ隼人はすぐに警察に知らせて、そこで関わりを止めていたの

かもしれない。

 今更言っても仕方が無い。しかし、自分の大事な者達が自分のために巻き込まれていく。

そのことに俊治は胸が痛んだ。

 その時だった。

「あなたはいるだけで災厄を招くようですね」

 声は後ろから聞こえた。俊治は振り向き様に左手から炎を走らせる。標的に一直線に進

む炎を、相手は軽々と躱して俊治と距離を取った。暗闇から出てくるのは唾広の黒い帽子。

 特徴的な風貌の男。

「響恭治!」

「名前を覚えてもらっていたのは光栄ですね。それにしても……またしても君の友人が巻

き込まれたようで」

「……貴様等がやったんだろう!? 貴様等がいなければ……」

 俊治は怒りを露わにして響へと立ち向かった。響はしかし体制を崩さずにその場に立っ

たまま。俊治の力を込めた右拳が響に迫る――直前に止まっていた。

「ま、また……」

「学習能力が無いのですか? 高町俊治君」

 響は勝ち誇った笑みを俊治に向けた。二人の体はほぼ密着していたために、俊治は初め

て響の顔を見ることが出来た。

 その顔の上半分は酷い火傷に覆われていた。前髪に隠れた部分。それは鼻から下とは別

物となっている変質した肌を隠すためのものだったのだ。そのおぞましさに俊治は身震い

する。響は顔をにやつかせて言った。

「恐ろしいですか? こんな火傷を負って日の下を歩けなくなった私が! だから私は新

しい力を手に入れたこと――『セカンド』となれたことをとても誇らしく思うのです。ど

んな能力を持っていようとも外見だけで差別する奴等を、この能力で皆殺しにできる!」

「……望んで九条から薬を注入されたというのかよ」

 俊治は動こうとしても動けず、自らを拘束する力に抗いながらも響に問い掛けた。響は

その問いかけに肯定するように頷いた。

「さあ、私は『完全体』の力のテストをおおせつかっているのでね。今度は逃げませんか

ら、あの部屋で見せたような真の力を発揮してくださいよ」

「真の……力?」

 俊治は意味がわからず問い掛ける。しかし響は答える気などないのか、俊治の首に手を

かけた。力が込められて俊治は息苦しくなる。

「分からないならそれでもいいですよ。君が死ねば、また新たな『完全体』を使って実験

をするのでしょうから」

(く、そ……)

 何も出来ない自分。

 このまま首を締められる結末しか残っていない自分に俊治はどうしようもない怒りを覚

えた。何とかしたいと思っても、体は少しも動くことは無い。徐々に遠くなる意識に、は

っきりとした声が聞こえてきたのはその時だった。

「『疾風怒濤』!」

 上空から聞こえてきたその声とともに降り立つ影。

 一閃する光。

 響が飛びのき、光が地面についた瞬間に俊治を束縛する力が甲高い音を立てて消えさっ

た。それは言わば砕け散った、という感覚に似ていた。立ち上がった影は手に持った刀を

響へと向けて言葉を紡ぐ。

「影を触媒にして相手を拘束する力……俺が刀を媒体とするようにお前は影を媒体にして

相手の自由を奪い、時には絞め殺すというわけだな」

 影――都築隆は響を見据えて言った。俊治はふらつきながらも立ち上がり、隆に言う。

「ありがとう」

「たまたまだ。俺は奴を殺す」

 隆は俊治を意にも介さず響へと歩いて行く。響は少し余裕を無くしながらも、それでも

平常心を保つように隆へと言葉をかける。

「いやいや。あなたが有名な『ナイト・セーバー』でしたか。十年間、各地に散らばった

『サクリファー』達を狩り続けている『セカンド』というのは。会えて嬉しいですよ」

「『風林火山』」

 隆の呟きと共に空中に現れる不可視の刃。響は辛うじて躱すものの、衣服が切り裂かれ、

腕からは血が流れていた。

「お前と話す気は無い。九条の手先は死ね」

「言ってくれますねぇ……いいでしょう。殺しあいますか!」

 響は両手を広げて隆へと向き合った。その瞬間、俊治の目には隆の周りに盛り上がる黒

い物が見えていた。それは隆の体に纏わりつき、隆は動きを止める。さっきまで自分が拘

束されていた物――それは光のあるところに必ず生まれるもの、即ち影だった。確かに、

隆の言う通りに。

 しかし隆は慌てずに息を吸い込むと言葉と気合、そして力を融合させて空間へと放った。

「『風林火山』!」

 生まれた不可視の刃が、影を切り裂き、無に帰す。響は感嘆した呟きを発し、一歩後ろ

に後退した。隆は一歩ずつ響へと近づきながら冷静に言葉を紡いでいた。

「俺の力は俗に言う『気』を具現化して、刃に変える力だ。それは同じような性質を持つ

物は全て切り裂ける……お前の力には天敵のようだな」

「確かに、そのようですね」

 響は笑みを張り付かせたまま後ろに跳躍した。そして隆も響を追って跳躍し、闇に姿を

消す。俊治は二人が消えていった方向を眺め、自分が次に何をすればいいか思案していた。

 確かに、隆の力は響に対して有効だろう。俊治自身は響に拘束されて何も出来なかった

のだから、足手まといになるのは目に見えていた。だからと言ってこのまますんなり帰る

気も起きない。

(どうする……)

 と、俊治の耳に足音が聞こえてきた。靴音からしてハイヒール。カツカツと鋭く道路を

叩く音がゆっくりと、確実に俊治へと近づいてくる。足音に反応するように、俊治もまた

ゆっくりと足音が聞こえてくる方向へと目を向けた。

 そこに、人影は確かに存在した。体をふらつかせず、背筋を伸ばし、整然とした歩みで

俊治へ近づいていく。このまま待っていれば、いずれ人影は俊治の元に来るだろう。しか

し俊治はそれを待っている余裕は無かった。

「う……わぁあ!」

 内に生まれたのは純然たる恐怖。

 何故、そこまでの恐怖が生まれたのか俊治にも理解することは出来ない。しかし恐怖に

精神を犯された俊治は左手から炎を放っていた。一直線に人影へと向かう炎。

 それが届いた瞬間に、真っ二つに裂けた光景を、俊治は呆然と眺めた。炎によって浮か

び上がる相手の全身像。それは俊治にとって意外な人物だった。

「……氷室、先輩?」

「お久しぶりね、高町君」

 それは俊治にとって大学の先輩だった女性――氷室祥子だった。今はもう働いていて、

この町にはいないはずの人物。呆気に取られている俊治に向けて氷室は、まるで世間話で

もするかのように滑らかにその言葉を発した。

「隼人君の容態はどうかしら?」

 その言葉の響き。そして含まれている感情。

 全てを俊治は理解した。

「……あなたも、九条の部下になりさがったんですか!」

「別に部下なんかじゃないわ。私はこの力で世界を手に入れるのよ。そのための踏み台と

しか考えていない」

 氷室は顔に浮かべていた笑みを少しだけ変化させた。それまでの心底面白いと思ってい

るような、それでいてさりげない笑みではなく、今度は顔が少し変形するほど笑みを深め

ている。俊治は氷室を前にして考えていた。

(俺は何を見てるんだ? ここにあるのは悪夢なのか? 本当に現実なのか?)

 思考が回る。

 同じ場所を回る。

 出口も、入り口もなく。

 メビウスの環のように。

 呆然としている俊治に向けて氷室は手を向けた。掌は心なし開いている程度。前に差し

出していはいるが、どこか投げやり気味にだらりと力は抜けている。

「『裂け』」

 氷室の体を覆う虚脱感と対比して、その言葉は強い響きを持っていた。その言葉自体に

力があるのならば、確かにそれは相手を殺すほどのものであろう。俊治の中の何かが、反

応した。

 語尾が中空に消え去る直前に、俊治は体をその場から跳躍させていた。同時に耳障りな

音が周囲に響く。何か、硬いものが砕かれたような、耳の奥に痺れを残す音が。

 俊治は着地して自分のいた場所を見たが、何も変わった所は無い。しかし俊治の頭には

氷室が何をしたのかがおぼろげながら浮かんでいた。油断なく構えながら彼は問う。

「空間を、裂いているのか?」

 俊治の問いかけはどうやら正答だったらしい。氷室は特にごまかす様子もなく言葉を返

していた。

「ええ。ほんの一瞬。それも声の射程距離がそのまま空間断裂の射程距離だから、相手に

は間違いなく攻撃がくるのを察知されてしまう。でも、まさか躱されるとは思ってもみな

かったけどね」

 氷室は笑みを貼り付けたまま少しずつ場所を移動する。俊治はその場を動かず、視線だ

けでその動きを追う。徐々に周囲の気温が下がり、二人の息に白いものが混ざり始めた。

「声が届くことと空間が斬れるのはほぼ同時。そう……『ほぼ同時』。その差は本当に微

小だけれど、その隙をついて攻撃から逃れられる人がいるなんてね、俊治君」

 氷室は足を止めて俊治を見つめた。ちょうど俊治の背後にビルがくるように位置を変え

ている。俊治は氷室の思惑に気付いていたが、あえてその場から動かず、体を入れ替えて

真正面に氷室を据えた。

「あなたは本当に『完全体』と呼ばれる人みたい。そんなあなたが人間だと言えるのかし

ら? あなた自身ももう気付いてしまったでしょう? 以前のあなたならば私の攻撃を躱

せるはずがないと。今、躱せるのは……草薙のおかげだと」

 俊治はその言葉を冷静に聞いていた。

 研ぎ澄まされた感覚。

 急速に集束する時間。一分が一秒に。一秒が一分にも感じる。



『人間ではなくなる時間』が訪れる。



「あなたは『サクリファー』や草薙の力を吸い取っているのよ。そして、自分の力へと変

えている。あなたに取って、人間や私達は食料でしかないんじゃない?」

「……違う!」

 俊治は叫ぶ。心からの叫びを。

 先ほどまで感じていた奇妙な感覚は消えていた。そして、初めて周囲の異変に気付いて

いた。

「……何?」

「何だ!?」

 いつの間にか体が上手く動かない。周囲の温度は秋ではありえないほどの低温となり、

二人の肌は少し氷が張っていた。

 そして、何より異常だったのは俊治達がいる一角以外は何も様子が変わっていないこと

だった。

「あなたの言う通りのようですよ、氷室先輩」

 唐突に、その言葉は俊治と氷室の耳に入った。どこから来たのか、いつの間に現れたの

か全く二人に悟らせず、声の主は氷室の後ろに立っていた。

 俊治は唖然として氷室を見ていた。氷室もまた、自分の体を呆然としながら見下ろす。

 氷室の胸から一本の手が生えていた。そして、手が生えている場所から周囲に向けて徐

々に氷が張っていく。

「……やっぱりそのようね。先に、殺されるとは……私も甘いわね」

「『完全体』を創るための実験動物が、『完全体』を越えようとするから、寿命が短くな

るんですよ」

「そのようね。身の程を知らなかった、というところでしょう」

 氷室は顔を青ざめさせ、言葉も震えてきていたが、まるで世間話をするかのように自分

を貫いている人物と会話を交わす。俊治は頭が受け入れることを拒否し、ただその場にい

るだけ。その体もまた、徐々に凍っていっていると言うのに、抗おうとする考えも浮かば

ない。

「そんな……」

 俊治は寒さで震える唇を何とか動かして、呟いた。

「昭英」

 氷室を右手で貫いている昭英が、俊治を見て笑った。

 いつも俊治へと向けていた笑顔そのままに。





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