浅倉龍二は突如襲ってきた眩暈にソファへと倒れこんだ。次に来るのは強烈な吐き気。

そして――彼はカーペットへと吐血した。血の斑点がカーペットに広がる。続けてくる吐

き気によって、血は斑点に留まらずに一塊となって龍二の口から放出された。水が溢れ出

るような音を立てて、血が広がる。

「げほっ! がはっ! が――はぁ!!」

 更に何度も血を吐いてようやく止まる衝動。龍二は血溜まりに映る自分の顔に浮かぶ死

相を見て体を震わせた。

 あれほど『サクリファー』に対して強さを発揮する男が、震えた。

 恐怖に、震えていた。

 血に塗れた寝具を目にして、龍二は呟く。

「これが進化の代償か」

 龍二は不意に笑い出す。

 自分のたどる運命が見えたこと。そして、そこまでの時間はけして遠い未来の事ではな

いという確信。笑わずにはいられなかった。

 龍二は笑みを止め、手で血を拭うと立ち上がり、ポットに水を入れて沸かし始めた。い

つものように自分の入れるコーヒーを飲む。それから病院に行き、患者の診察をする。

 いつも通りの生活が、今日も訪れるはずだった。

 だが、それももう訪れることも無い。

「早くしなければな」

 頭を過ぎったのは俊治の顔。そして言葉。自分の前に現れる俊治の幻影。揺らめく幻影

が口を開く。

『あなたは、どうして闘っているんです?』

 龍二は俊治の幻影に向けて答えた。

「『約束』のためさ」

 龍二は拳を突き出して幻影を振り払った。後に残るのは奇妙な沈黙。ポットが湯が沸騰

したことを告げる甲高い音を放つ音が響く。龍二は自分の手をしばらく見てから火を切っ

た。いつもの作業でコーヒーを入れ、血塗れのソファには座らず、床に直に腰を下ろして

口にコーヒーを持っていった。

 元から覚醒はしていたが、更にはっきりとしてくる思考。そして龍二は自分がやるべき

ことを整理していく。

「……よし、行くか」

 コーヒーを飲み終えてテーブルの上にカップを置くと、龍二は血が乾き始めている寝具

を脱ぎ捨てて着替えた。持ち物は何もなく、部屋から出る。

「じゃあな」

 誰に言ったのかは分からない。しかしその言葉は見えない何か、誰かに確実に向けられ

たもの。その言葉と共に龍二は部屋を封印した。



* * * * *
 隼人は一人、街を歩いていた。あまりに周囲を気にしながら歩くと不審者と間違えられ かねないということで最小限の動きで周囲に気を配る。消えた昭英を探してすでに四日目 であり、隼人ももう個人での捜索は限界なのではと感じていた。だからといって俊治の話 が本当ならば警察を頼ることは出来ない。こうして自分達で探すしか手は無いことは分か っている。  だが、隼人は一つ気になっていることがあった。 (昭英が消えてからは連続殺人事件の報道がされていない……)  思えば俊治が隼人に真実を話してから後で『サクリファー』を倒した時も報道はなされ ていなかった。被害者は出なかったとはいえ、襲われた少女の様子を聞く限り、何も他者 に話さないとは思えない。  更に、最近はその手の報道もかなり減った。一時期はどこのチャンネルを入れてもその 事件の報道しかされていないという状況だった。しかし犯人が捕まったという報道がなさ れていないにも関わらず、その手の報道が急速に下火になっている。  隼人は襲ってくる寒気に身震いした。 (俺達が対抗しているのはやっぱり国家ってことなのか……個人でどうにかしようとする のは無謀なのか?)  隼人の心に風が入り込む。  強い意志の炎をかき消さんとする風が。  だが、負けるわけにはいかなかった。大切な友人を取り戻すために。 「……ん?」  隼人はふと足を止めて自分の眼に飛び込んできた風景を意志を持って見据えた。何か自 分が知っている人影が見えた気がしたからだ。少し視線を動かしてみると、ちょうどファ ーストフード店から出てくる一人の女性の姿が見える。時刻は午前十一時。少し早い昼食 か、遅い朝食かのどちらかであろう。  みずみずしく流れるように背中に伸びている髪。少し細めの目はきついという印象はな く、逆に穏やかな雰囲気を感じさせる。日に焼けたことが無いような白い肌は遠くから見 た隼人の目にも強烈に残った。  そして、その姿はこの場所にいるはずのない人物だったからこそ、隼人は立ち止まった のだ。ちょうど道路の反対側だったために隼人は急いで渡る。走る車の間を抜けて渡りき ると自分のいる反対方向へと歩いて行く人影を大声で呼び止めた。 「氷室先輩!」  女性は自分にかけられた声に振り向いた。その顔はやはり隼人が知っていた人物。  見たのは六ヶ月ほど前。自分達が大学の講座に配属が決まった際に催された歓迎会の席 にいた人物だった。四月になり講座に配属された時には卒業していなかったが。  氷室祥子(ひむろしょうこ)は隼人の姿を見て記憶の糸を手繰ると、懐かしむように顔 をほころばせた。 「あらぁ。久坂君。久しぶりね。講座では上手くやってる?」 「お久しぶりです。何とかやってますよ。……て、どうして今の時期にここに?」  隼人は歩きながら氷室と呼ぶ女性に近づいた。相手もまた隼人を懐かしむ顔で近づく。 お互いの距離が最も近づいた時点で女性は口を開いた。 「実は実家の母親が体を壊してね。看病するために数日休暇をもらったの」 「そうなんですか……」 「でもどうしたの? 何か辛そうだけど?」  隼人はその言葉に思わず身構えた。氷室の勘の鋭さは少しだけ一緒に過ごした時にすで に知っていたからだ。それを知っていたからこそ、隼人は今、自分の状況を説明しようと 思った。しかし全てを話すのは無理がある。隼人はどこまで話そうかと思案した。  そして話す部分を決めるとすぐに口にしていた。 「実は友人の昭英が今ちょっと行方が分からないもので、探しているんです」  その後の問いかけはおそらく『警察に相談したの?』というようなものだろう。それな らば、何とか言い訳もできると隼人は思っていたのだが、返ってきた言葉は予想外の物で あった。氷室は昭英という名前を少し時間をかけて思い出したようで、ああ、と呟くと隼 人に言った。 「同じ講座の伊藤君だよね。彼なら昨日会ったわよ?」 「ほ、本当ですか!?」  あまりにも意外な答えに隼人は大きめの声を上げてしまう。周囲を歩く人々が隼人を不 審がるように視線を向けてきたために、隼人は体を竦ませた。しかしすぐに氷室に視線を 戻して問い掛ける。 「どこで会ったんですか?」 「隣の藤木町よ。久しぶりですって今の久坂君と同じ感じで。その後すぐに離れていった から分からないけど……多分あなた達が講座に入って初めての飲み会で連れて行かれた店 の傍よ」 「……ありがとうございました!」  隼人は氷室に礼を言うと即座に走り出した。藤木町に行くならば今の場所からは徒歩で は少し遠い。一度自分の家に戻り、自転車を使う必要があった。 (やった……ようやく見つけた。藤木町のどこかに昭英はいるかもしれない!)  隼人は四日過ぎてようやく見つけた手がかりに心を奮い立たせていた。
* * * * *
 俊治は昭英の捜索から帰るとため息をついてドアを開けた。すると中からいい匂いが漂 ってくる。玄関にある靴は美琴の物であり、俊治が部屋を出る時に来た美琴が夕飯を作っ ておくと言っていたことから、さほど驚くことではない。  ただ、漂ってくる匂いが問題だった。  俊治は中に入るとキッチンへと向かう。そこにはエプロンをつけた美琴が大きめの鍋を かき混ぜていた。 「あ、お帰り俊治君」 「美琴さん……やっぱりそれはカレーですか?」 「うん。ビーフシチューじゃないよ」  俊治は内心、ため息をついた。確か隼人がカレーを作ってくれたのが五日ほど前だった かなと思い出す。一週間も経っていない間に同じメニューというのは俊治にも少しうんざ りするものはあった。その空気を察したのか美琴は申し訳なさそうに頭を下げた。 「ごめんね。嫌だった? 私、実はカレーとかビーフシチューしか上手く作れなくて」 「……まじですか?」 「うん。お味噌汁に失敗したような人なのよ」  失敗談を美琴は他人事のようなテンションで語る。俊治としては味噌汁は失敗するよう な物ではないと思っていても、美琴にはその非常識が当てはまるのではと思い始めていた。 味噌汁よりも手間がかかるカレーが上手く作れるというの不思議だが。 「さて、出来た。ご飯にしましょうか」  俊治が時計を見るとすでに午後六時だった。俊治はテレビをつけてニュースを放映して いるチャンネルに合わせる。美琴は皿にカレーを盛り付けてテーブルへと持ってきた。  お互いに「いただきます」と呟いて、同時に口をつける。少し心配していた俊治だった が、味は意外と悪くなかった。どうやらカレーは作れるというのは本当らしい。俊治に言 わせれば最も簡単な部類の料理だったが、それは言わないことにした。  半日中、外で昭英を探していた俊治にはカレーは充分腹を満たしてくれる物だった。美 琴の二倍のスピードで食べ終えた俊治は二杯目に移ろうとご飯をよそおうと立ち上がる。  正に、その時だった。 『今日、二時五十分頃、成城市藤木町七の二十九にあるビル街で、久坂隼人さん二十一歳 が腹部を刺され倒れているのを通りかかった人が見つけ、110番通報しましたが、すで に意識不明の重体でした。今だに目撃情報はなし。また、久坂さんがそこにいた理由も分 からないままであるため、警察は意識の回復を待って本人に話を聞く予定でおります』 「隼人!!?」  俊治は思わず大声を出した。美琴も突然のニュース報道に驚きを隠せない。俊治はすぐ に上着を羽織ると玄関へと向かった。 「美琴さん! 戸締り、よろしくお願いします!」 「――うん、分かった!」  俊治がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか美琴には完全に把握で きなかったが、彼を止めることはしなかった。美琴なりの気遣いに俊治は感謝しつつ、玄 関から飛び出し、階下に向かった。俊治の頭の中には二つのことが浮かんでいた。  一つは隼人のことだが、もう一つ。切原智子のことだった。 (智子さんのパート先は藤木町だ!)  以前、彼女も『サクリファー』に襲われている。今から隼人が刺された現場に行けば、 夜七時という所だろう。そこから周囲を探していれば、パート帰りの智子を見つけられる かもしれない。 (何となく嫌な予感がする。智子さんが巻き込まれるような……嫌な予感が)  俊治は自転車を置き場から取り出すと全力でペダルを踏んだ。彼の胸に去来する不安が 残酷な形で実現しようとは、この時点では想像できるはずも無かった。
* * * * *
 上月恵美華はふと、空気が変わったかのような気配を感じて周囲を見回した。この土地 に来てすでに十日ほど時が過ぎている。流石に見慣れたこの場所に、特に変化した所など 存在していなかった。気のせいかと恵美華は神社の中へと戻った。そこで、先ほどの気配 の原因を知った。 「――隆!」  都築隆は両手で自分の肩を掴み、その場に縮こまっていた。苦しそうに呻き声を上げな がら。恵美華は隆の身に何が起きたのか分からず、近寄るとただ背中を摩るなどして打開 策を探す。  隆は額に脂汗を滲ませて何かが自分の体を突き破って出てこようとすることを防ごうと しているように見えた。しばらくそのままの体勢でいた隆だったが、体の震えが治まり、 立ち上がる。 「……すまない、恵美華」 「ううん。私は良いけど……隆は大丈夫なの?」  隆は答えずに刀を取った。足取りがまだ不安定ながらも神社の外に出ようとしている。 そこまでしてどこに行くのかは恵美華にも分かった。隆が苦しみ出す少し前から恵美華の 『シーク』に感じている異常な反応があったからだ。  今まで『サクリファー』を感知してきたその能力で、彼女は今までにない不思議な、お ぞましい感覚を知覚していた。 「藤木町だな」 「……うん」  隆はそれだけ確認すると夜の中へと消えていった。恵美華はこの時ほど自分の戦闘能力 のなさを呪ったことは無かった。少しでも戦闘能力があれば、隆の負担を減らすことが出 来るであろうに。あるのは『サクリファー』の存在を知覚できるだけの力。 (そして私はただ待つだけ……)  恵美華は悔しさを隠さずに、拳を握って床へと叩きつけた。


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