俊治は右手を前に掲げていた。

 その右手が掴むのは誰かの肩。

 周囲は闇に包まれていて、相手の肩口しか俊治には見えない。

 伝わってくる『サクリファー』の気配。そして殺気。

 俊治は右手に力を込めて相手を灰と化す力を解放した。

「灰と、なれ!」

 力が伝わり、自分の手が触れていた場所からさらさらと灰になっていくことが分かる。

そして灰と化していくと共に、周りを覆っていた闇さえも消えていく。そして俊治は自分

が灰へと変化させていく相手が誰なのかを知った。

「あ、昭英……?」

「俊治! 助けてよ……痛い! 痛いよ!! 俊治!!」

 昭英は血の涙を流しながら俊治へと訴えていた。崩れた半身をその場に残し、崩れつつ

ある半身を引きずりながら俊治へと近づく昭英。俊治はあまりの恐怖にその場から動けな

かった。昭英は俊治の前に立つとその体を俊治に預けようと体を倒す。

「助けてよ……」

 俊治の体に倒れる昭英。

 そしてその体は衝撃に耐え切れずにばらばらに砕け散った。

 昭英の体を構成していた物質のなれの果てが、俊治の体に白く張り付く。俊治は動けな

いために顔だけで昭英の頭を探した。

「助けてよ……」

 声はすぐ傍から聞こえた。首を回してみると俊治の肩口に昭英の首から上がついている。

目から流れ出す血が俊治の肩を伝い、シャツに吸い込まれていく。

「お前が俺を殺したの?」

「う――うわぁあああああああ!!!」

 俊治は絶叫した。





「――あぁあああああ!!!」

 勢い良くベットから上体を起こし、俊治は叫んだ。

 激しい動悸を抑えるために胸の上から心臓を両手で押さえつける。心臓は激しく鼓動し

ていた。体中の毛穴から汗が流れ出している錯覚。瞳に入った汗がしみて、俊治は涙を流

した。次に来るのは笑う衝動。意味もなく、急に込み上げてきた衝動に勝てずに、俊治は

笑い出した。抑えることが出来ない笑い声は次第に高く大きくなっていく。

 そこに自分をかきたてるものが何なのか、俊治には分かり始めていた。

(狂気、だ……)

 自分は狂ってきているのかもしれないと、俊治は急に恐ろしくなった。

 昭英が消えていると分かって三日経った。その間、俊治と隼人は昭英の行方を探すため

に街中を駆け回った。その中で俊治は毎晩のように夢を見てきたのだ。



 昭英を自分が殺す夢を。



 人だったものとはいえ、『サクリファー』を何体も殺してきた自分。

 人を守るために、人外のものを殺すと誓った。しかし、今度はその人々を守るために自

分の親友を殺す事になるかもしれないのだ。他人の幸せを守るために、自分の大事な者を

失うかもしれないジレンマ。

 精神と肉体のバランスの崩れ。

 自分の力の使い方を決めた矢先の出来事に、俊治の精神は限界に達しようとしていた。

 ようやく落ち着いた俊治は汗を吸って重くなった寝間着代わりのシャツを脱ぐと、シャ

ワーを浴びるためにバスルームに入った。火照った体に少し冷たい水がかかる。体が急速

に冷えていくことを感じて、俊治はようやく張り詰めていた息を吐いた。

(……眠るたびに疲れるな)

『アルトレイ』の力は精神的疲労までは消してはくれない。そして精神的疲労は肉体に作

用する。その肉体疲労は力によって回復するものの、結局はイタチゴッコとなるのだ。

(とりあえず、昭英は無事なのか……それとも、『サクリファー』になったのか確かめな

いと……もし『サクリファー』になったのなら……)

 俊治は自分に言い聞かせるように覚悟を口にした。

「俺は、昭英を殺す」

 自分で聞いていても、それは中身の無い空しい物だと分かっていたが、言わずにはいら

れなかった。そうしなければ、俊治自身が心の底から来る重圧に潰されてしまうだろう。

 シャワーを止めてバスルームから上がった俊治は、違和感を感じた。バスタオルを腰に

つけたまま、俊治はバスルームに続く部屋のドアを開け放つ。視線の先にはテレビ。その

前にあるテーブル。そしてそこで本を読んでくつろいでいる女性の姿。

「美琴さん! なんでここに――ていうか、どうやって入ったんですか!?」

「鍵、開いてたわよ。俊治君は無用心だねぇ」

 佐々木美琴はそのあどけない笑顔を俊治に向けた。その顔に心臓を跳ね上げさせながら

も俊治は動揺を隠して尋ねる。

「いや、確かに鍵は開いていたんでしょうけど……だからって人の部屋に入るのは……」

「とりあえず服を着て」

 美琴は俊治が前日に投げ散らかしていた服を俊治の前に放った。俊治が怪訝そうに見る

と、美琴は笑顔のまま言った。

「ドライブ行こう」

 俊治は断れず、応じるしかなかった。



* * * * *
 美琴の車は高速道路に入り、凄まじいスピードで走っていた。俊治が見る限り、平均百 キロは出ているだろう。スピードメーターが百の位置を往復している。  次々と過ぎていく景色を見ながら、俊治は美琴の真意を考えていた。いきなりドライブ に誘われるような理由は思いつかない。  前に『サクリファー』に襲われた時の礼、と考えるべきなのか。それともただの気まぐ れなのか。俊治自身、昭英のことが気になってドライブどころではなかったが、それでも ドライブに従ったのは、美琴の強引な誘いなど初めての事で、その意外さに心を動かされ たのだ。 「どこに行くんですか?」 「海よ」  美琴の言葉は簡潔で、それだけに現実感があった。しかし十月も半ばに入ろうとしてい るこの時に行くのは現実味がない。海で泳ぐために必要な物は一切持ってはきていないよ うだと俊治は車の中を見て確認する。 (なら、なんで行くんだろう……)  美琴が目指す海岸は、俊治達の住む街の隣の県だ。しかも高速を使っても四時間ほどか かる場所。いくつか点在する海水浴場があり、一番遠い浴場を美琴は選んでいる。  いくつも聞きたい事はあったが、俊治は口に出す事はしなかった、何か、美琴は大切な ことを言おうとしていると感じていたからだった。  二人は無言のまま、四時間の時を過ごして海水浴場へと到着した。  周りには誰もいない。八月の半ばなら人で溢れ、屋台がいくつも点在しているだろう砂 浜も、人で賑わっているであろう海の家も、完全にその機能は停止している。  ここには二人しかいなかった、  高町俊治と佐々木美琴。  砂浜を歩いて行く美琴の足跡を見ながら歩く俊治。視線を下から正面の美琴の背中。そ して上空へと移す。その過程の中で、俊治の中に一つの思いが生まれた。 (こんな時に死んだら、気持ちいいだろうな……) 「俊治君」  美琴の声に俊治は思考の沼から足を強引に引き抜いた。足に纏わり付く泥が見える。無 論、それは実際にある物ではなかったが、俊治には吐き気がする程の汚物に見える。 「どうしたの?」 「……なんでもありません」  弱さに負けそうになる自分をなんとか建て直して、俊治は美琴に向き合った。美琴は微 笑むと少し逡巡した後で口を開いた。 「単刀直入に言って、私と付き合ってくれない?」 「……は?」  神妙な面持ちの美琴から出た言葉に、俊治は肩透かしを食らったかのような気分になっ た。美琴はその俊治の反応が不服なのか、頬を膨らませて抗議する。 「何が『……は?』よ! 私はね! あなたが好きなのよ! だから付き合ってと言って いるの!!」 「いやあのその意味は分かるんですけれども何故この時期にというかこの時にというか何 故どうしてかと……」  先ほどまでどす黒い思考をしていたとは思えないほど、俊治は今、いきなり訪れた愛の 告白に動揺していた。何を言っていいのか、どう反応していいのか分からずに、おろおろ と首を振る。しかしその動作がおかしかったのか、美琴は膨らませていた頬を緩めて笑い 出した。 「何、その反応……俊治君、おかしい……」  美琴の笑み。  その笑みを見て俊治はしばらく忘れていた感覚を思い出した。  最初に『サクリファー』に出会ってから八日。  それまで確かにすぐそこにあったはずの日常。  思えば、こんなにも楽な気分で考え、動揺したのは今までならばいつでもありえたはず だった。自分が『完全体』というもので、『サクリファー』はその失敗作で、『アルトレ イ』と呼ばれる一応の成功例として浅倉龍二や都築隆がいる。  その存在を知るまで、俊治は確かに美琴の側にいたのだ。それを知った時、俊治は妙な 寂しさを覚えた。  いつもあるような感覚を懐かしく思えるほど、今の自分は異質になってしまったのだと。  もう自分はあの平凡な日常の中には戻ることは無いのだと。  俊治にある力は物を灰と化す力。  他人に絶望を与えることが出来る力。  自分は――『創られた絶望』なのだと、俊治は理解した。  海から吹き付ける冷たい風が俊治の頬を撫でる。  頬を刺激し、軽い痛みが走る。  その痛みに刺激されたのか、俊治は涙を流していた。 「……俊治君、あまりに感動して泣いたの? 私の告白に」  俊治はもう分かっていた。美琴は確かに自分に告白するために誘い出したのだろうが、 俊治自身の持つ暗い空気を少しでも払拭するために明るく振舞ってくれているのだと。実 際には自分の思いが報われない物になるかもしれないという不安で、体を震わせていると 言うのに。俊治から見て、美琴は寒さから体を震わせているだけではなかった。  不安でも気丈に明るく振舞う美琴。  そんな彼女に俊治は尊敬にも値する念を抱く。 「違いますよ……でも、ありがとうございます」  俊治は心からの言葉を口にして頭を下げた。美琴は首をかしげながらも「ありがとう」 と呟く。続けて俊治は、口を開く。 「美琴さんの気持ち、凄く嬉しいです。素直に受け取っていいですか?」 「……それはOKの返事と見ていいの?」 「はい」  俊治の言葉に美琴は今まで見た事の無いような笑顔を見せていた。素直に彼女の気持ち が嬉しい。その反面、言い知れぬ不安が頭を過ぎる。俊治は自分の中に生まれた問いかけ を抑えきれずに口にした。 「美琴さん」 「ん? 何?」  喜びの余韻に浸っている美琴に向けて、俊治は言った。 「最初から生きてはいけない人間っていますか?」 「……それは真面目な質問なんだね?」  喜びの直後に来た重い問いかけにも、美琴は顎に手を当てて考え込む。俊治があまりに も悲痛な面持ちで問い掛けてきたからだ。  自分にはどう足掻いても絶望しか残されていないとしても、それでも生きるために希望 が欲しい。俊治はその希望を美琴に見出して欲しかった。  もう俊治は辛さを美琴の前で隠そうとはしない。  それは偽りの仮面をつけたまま彼女に向き合いたくないという俊治の決意。これで美琴 が離れてしまうのならば、それで仕方がないという覚悟の現れだった。  考えている間、押しては返す波の音が辺りに響く。  繰り返される一定のリズム。  時間に対する感覚が鈍磨する。  美琴が口を開いたのは俊治の問いかけから数分しか経っていなかったが、俊治には何時 間も経過したかのように思えた。 「私の結論から言えば、いないよ」  美琴の言葉は力を持っていた。輝き、生への力が溢れているように。 「私達は確かに何かを背負って生まれてくるよ。自分の親の血とかいろいろ。でもね、や っぱり生きるのは自分自身。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どれだけ友達が助 けてくれても……最後は自分でやりとげなきゃいけない」  美琴の言葉。  それは俊治の心に深く入ってきた。力強く他人を共感させる力が溢れていた。それはけ して机上の空論ではなく、強固な骨組みを持っている。俊治は思わず尋ねた。 「美琴さんは……辛いことを乗り越えてきたんですね?」 「そうだね……そうだよ。昔、親とちょっとあってね。自殺まで考えたこともあるけど、 最後は止めた。私の価値は私が決めるんだって思って」  自分の価値。  その言葉に俊治は自分を見ていた。  自分の価値――『完全体』という価値は他人から与えられた物だった。九条は俊治自身 を見ずに『完全体』という彼等の研究が作り出した物しか見ていなかった。ならば、自分 は何なのか。どんな価値が自分にはあるのか。  考え込む俊治に体を震わせた美琴が近寄ってきた。俊治は気付き、彼女が口を開く前に 言葉を発する。 「帰りましょうか」 「うん……寒い〜」  美琴は寒さに震える体を両手で押さえつけながら俊治の前を歩く。しかしすぐに立ち止 まって俊治へと振り向いた。 「俊治君。後悔することはいい。でも、後悔に足を止めちゃ駄目だよ」 「……分かりました」  その言葉が何を思って紡がれたのかは分からない。しかし俊治は自分の中に一つの芯が 立ったような気がした。迷い、倒れこみそうになる自分を支える一本の芯が。 「これからもよろしくね、俊治君」 「こちらこそ」  二人は笑いあい、車に戻った。それを離れた場所から見る人影に気付かないままに。


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