第三章『狂気の宴』





 目の前に、炎が見えた。

 痛みに軋む体を強引に起き上がらせて、都築隆は歩き出す。

 左足はほとんど感覚が無く、右足を前に踏み出す時に自分の体を支えることさえも難し

い。右手も折れていて垂れ下がっているだけの状態。左眼は頭部から流れる血が瞳に覆い

かぶさって固まったことから開くことが出来ない。もう少し時間が経てば、体に眠る回復

能力によって各部は完全に元の状態に戻るだろうが、彼には待てない理由があった。

 腰にある刀の鞘が瓦礫にぶつかり歩きにくかったが、炎の中を更に進む。

 熱さは感じない。

 熱さを感じる神経がやられてしまったのか、それとも目の前の光景の衝撃に他の感覚神

経が麻痺しているのか。

 隆が研究所から上月恵美華を伴い脱走したのはもう八年も前のこと。最後に目にした研

究所の面影は目の前に残ってはいない。あるのは廃墟と化し、炎に彩られた死の世界。

 そこかしこに倒れている研究所職員。そして『サクリファー』

 自分の知っている者もいた。自分の知らない者も。

 地獄に通じていくような炎の道を、隆は歩き続けた。自分が探すべき人を見つけるため。

 しばらく歩いた時、瓦礫が耳障りな音を立てて崩れ落ちた。その方向を見て、隆は狭ま

った視界に目的の人を見る。



 男の手に胸を貫かれ、掲げ上げられている女性の姿を。



「――くじょぉおおお!!」

 体中に神経の糸が張り巡らされるかのような感覚。瞬間、痛みが甦るがそれを服従させ

る怒りが、隆の体を突き動かした。

 乾いた血で塗り固められていた左眼を見開き、折れていた右手は腰に下げていた刀を鞘

から抜き放ち、左足は力強く床を踏みしめて目標へと突き進む力となる。

 目線の先にいるのは、自らの進む先にいるのは憎むべき男。

 研究所を壊滅させ、自分の命とも言うべき者をその手にしている男――九条真司。

「おあああ!!」

 その場を動かない九条に向けて、渾身の一撃を頭上から振り下ろす。しかし剣閃は九条

の横をすり抜けて床へと突き刺さった。床にしゃがみこむ体勢になっていた隆の眼前に差

し出される九条の腕。この炎と灰が巻き起こる場所で一つの汚れも見えない白き手袋が視

界を覆う――いや、そうではない。

 いつもしていた筈の手袋は無く、同じように白い掌があっただけだった。

 次の瞬間には隆の体はずたずたにされ、その場に倒れていた。薄れ行く意識を繋ぎとめ

たのは九条が手にしていた女性を床に無造作に放った事。しかし意識はあってもその場か

ら動くことは出来ない。

「……生きていたらまた会おう、『ナイト・セーバー』」

 九条真司は倒れ付す隆にそう言って、その場から姿を消した。

 どれだけ時が経ったか分からない。しかし隆はようやく動くようになった体を起こし、

倒れている女性へと近寄る。

「ねえ、さん……」

 体を引きずり、血の跡を残しながら隆はついに求めていた女性の元へと辿り着いた。自

分が愛した、たった一人の肉親の元へ。

 しかし辿り着いた時には最愛の姉――都築秋葉の生命の鼓動は停止していた。

 胸に開いている穴さえなければ、まだ生きているといっても過言ではないほど綺麗な容

貌。しかし、秋葉は――姉は死んだのだと隆は理解した。

「うう――うわぁあああ!!」

 八年前に研究所から自分を脱走させた姉。

 刀を隆に授け、各地で人々を襲っている『サクリファー』を殺すよう頼んだ姉。

 何度も自分の存在を諦めかけた隆にとっての唯一の拠り所だった姉。

 秋葉をこの場所から連れ出すためだけに過ごしてきた八年間は、一人の男の手によって

無残にも砕け散ったのだ。

「この刀にかけて、奴等を滅ぼす……絶対に!!」

 隆は掌から血が出るほど力強く手を握った。崩れ落ちていく建物。取り巻いてくる炎。

復讐を誓っても逃げ場が無い。そこに声が聞こえてきた。

「隆!!」

 それは上月恵美華の声だった……。





「隆! 起きてよ、隆!!」

 隆が目を開けると恵美華が心配そうに彼を見ていた。隆は自分の体を見回してみる。着

ている服は汗を吸って重くなり、掌からは血が出ていた。夢の中で握った手は現実にも影

響を及ぼしていたのだ。

 次に自分の場所を確認する。

 隠れ家にしている廃寺の本堂。所々壊れてはいたが隠れるにはちょうどいい場所。

 夢との混同は起こしていないと、隆は一つ息を吐いて自分を落ち着かせた。

「……あの時の夢を見てたんだね」

「ああ」

 恵美華の問いかけにそっけなく答えた隆は汗を吸った上着を脱いだ。恵美華は恥ずかし

さではなく、恐れから隆から目を背けた。

 隆の背中には大きく線が走っていた。肩から腰のほうまで。『セカンド』ならば大体の

傷は跡を残さずに治ってしまうが、これほどまでの傷がついて跡が消えないということは

恵美華には想像できない傷を負ったという証だった。

「……分かったのか? 九条達の居場所は」

 隆は恵美華が自分の傷から眼を背けている事を知りながらも尋ねた。もう気にしても仕

方が無いことだと知っているから。恵美華も隆がそう思っていることを知っているので、

澱みなく言葉を続けた。

「まだ完全には。私の能力を阻害する手段でもあるのか的を絞れないけど、『完全体』の

住んでいる場所の近くだって言うことは分かる」

「高町俊治か……」

 隆は『完全体』である青年を思い浮かべた。二度ほど出会ったが、さほど詳しくは知ら

ない。隆の目的が彼ではなく、彼を狙うはずの九条だからこそあまり気にはしなかったの

だが、隆は彼の存在が次第に気になりだしていた。

「恵美華。高町俊治の傍に付いていてくれないか。何かあったら連絡を頼む」

「分かったよ。隆……無理、しないで」

 恵美華は隆に一言呟いて姿を消した。隆は比較的綺麗に整っている場所に置いてある衣

服を身につけ、立てかけてある刀を手に取ると、一息で抜きさった。

 どれくらい寝ていたのか自分でも分からなかったが、すでに夕日が落ちかけている所を

見ると、ほぼ一日寝ていたようだと計算する。徐々に暗くなる寺の中で、逆に刀身は光を

帯び始めていた。隆の能力を十二分に引き出す刀。隆の姉が作り、隆へと渡った刀。

「……必ず、滅ぼす」

 隆は一切の迷いを消し去るかのごとく、刀を鞘へと納めた。

 甲高い音が一度、空間に広がって消えていった。



* * * * *
 俊治は夕飯を終えた時点でその異様な殺気に気付いていた。あまりにも純粋に自分へと 向けられる殺気。隠そうともせず、挑戦的にしかけられる気配の暴風。俊治は思わず玄関 を開いていた。 「よう」 「……」  そこにいたのはあの草薙勇士だった。最初の遭遇から一日を挟んだにも関わらず、二日 前と同じ着衣。そして俊治を目の前にしても変わらず殺気を吹き付けてくる。 「なんの用だよ」 「つれないねぇ。デートしようぜデート。断られると悲しくてこのマンションを壊してし まうかもしれない」  拒否権は無いと俊治は理解する。そして部屋に引き返すとジャンバーを着て草薙と共に 外へと出た。草薙は俺に背中を向けていても何の気負いも無く歩いている。自分のことを たいしたことはないと決め付けているのか、それとも自分の力を確信しているのかと俊治 は問い掛けるように睨み付ける。 (おそらくは後者なんだろうな)  草薙は自分が最強だと確かめたいがために闘っている。それを前の闘いで知った。そし てそれは俊治の中に一つの恐怖を生み出す。草薙は自分を倒せる者がいるならば自らは死 んでも別に構わないと考えているのではないかと。  自分より強いか弱いか。  彼の中にはそれしかないのではないか。  純粋に強さを求めた者はそこまで達観してしまうのではないか。 (もしそうなら、草薙という男は……)  俊治が考えをまとめきれない間に草薙の歩みが止まった。俊治は自分がいる場所を見回 して驚く。自分でもこの場所に向かっていることが分からなかったからだ。 「ここなら邪魔は入らんだろ? お前も本気を出して来いよ」  草薙は身構えた。俊治の通う星陵大学を背にして。 「おいおい。まだ躊躇っているのか? 『完全体』よぉ」  草薙は構えはとかなかったが、半ば呆れたように俊治に向けて言葉を紡ぐ。冷たい夜風 と共に流れてくる言葉は、俊治の心を抉った。 「お前が否定しようとお前は人間じゃねぇんだからよ。もう人間面しないで闘えよ」 「……人間だよ、俺は」  俊治は左半身を草薙に向ける構えを取って腰を落とした。足元の砂利と靴底が触れる音 がはっきり聞こえるほどの静寂の中、徐々に二人の間に闘気による見えず、感じることの 無いはずの気配が満ちていく。空気中の塵が燃えたようなキナ臭い匂いが充満し始める。  草薙が腹腔に溜めていた空気を、少しだけ吐き出した。その瞬間。 「死にやがれ!」  俊治の後ろに電光石火の速さで周った草薙の拳が振り下ろされる。俊治は受けようとせ ずにその場から飛びのいた。草薙の拳はそのまま地面に吸い込まれ、爆音を立てて地面を 粉砕した。巨大なクレーターが出来上がり、舞い上がる土の塊が俊治の視界を隠す。 「ぼやぼやすんな!!」 「――!?」  俊治の視界が草薙を見失った一瞬で、草薙は俊治の背後へと周っていた。拳を避けられ ない俊治は繰り出された拳を両手で受け止めると、拳の前に進む力を利用して拳を掴んだ 両手を支点に自分の体を回転させた。  回転した反動をそのままに右足で草薙の顎へと蹴りを見舞う俊治だったが、草薙は異常 なバランス感覚で自分の顎に迫った蹴りを後ろを振り向いて躱す。二人はそのまま離れた 場所に着地してにらみ合う。 (手が……痺れる)  俊治は構える際に両拳を握ろうと思ったが、草薙の拳の威力が凄まじく、掌が痺れてし まっていた。しかしそんなことなど些細なこと。俊治の弱き部分を全て覆い隠すかのよう に体中に力がみなぎっていく。周囲に満ちていく熱気。  草薙は俊治から流れてくる熱気に気付き、額に汗が浮かんできた。 (……プレッシャーが強くなっていく……際限なく)  自分の体を流れる汗が、けして熱気のための汗ではないことを草薙は理解した。間違い なく草薙自身、俊治からくる威圧感に気圧され始めている。必死に否定しようとするが、 純然たる事実に逆らうことは出来ない。 (認めようじゃないか。『完全体』よぉ。お前を殺して、俺は自分の最強を証明する!)  草薙は右拳に全神経を集中し、力を集め始めた。異常に筋肉が盛り上がり、固めた拳の 隙間から血が噴き出る。 「行くぜ、『完全体』!!」  草薙は常人ならば消えたようにしか見えないスピードで俊治に迫る。移動速度と拳の威 力を兼ね合わせた一撃を俊治に解き放つ。圧倒的な殺意の一撃が、俊治に迫る。 「しにやがれぇええ!!」  草薙の拳が吼える。  空気を切り裂いて耳障りな音が周囲に響く。  次の瞬間には爆弾が爆発したような轟音が響き渡る。  だが、草薙の拳は俊治の右手に吸い込まれているだけだった。 「――な!?」 「灰に……なれ」  草薙の耳に聞こえてくる俊治の静かな声。囁き程度の声だったが、それは草薙にとって 死の言葉だった。  掴まれている右拳が、一気に灰と化していく。灰の侵食は草薙の体を抗えないほどの力 で縛り、覆い尽くす。 「ぐがあぁあああ!!?」  生きたまま灰にされていく激痛に悶えながら、草薙はもう何も出来ずに俊治の前に崩れ 落ちた。俊治は焦点が合わない瞳で草薙を見つめている。草薙はそんな俊治に笑いかけた。 「それが、お前だ」  草薙の言葉がスイッチだったかのように俊治の瞳に生気が戻る。そして草薙の状態を見 て自分がした事を知り、俊治は顔を青ざめさせた。どれほどの力、どれほどの恐怖を内包 していても、一瞬にして消えていく。  まるで――自分の姿を見ているかのようだと、俊治には思えた。 「あ――」 「お前は人間じゃない。俺と同じくな。これが、お前の力だ!! 死しか運ばない、絶望 しか運ばない力だ!! ははははははははは!!!」  草薙は口が灰にされるまで高笑いを続けた。そして声を発する器官が消えても、その目 は笑みを示していた。その瞳が俊治の心を貫いた。  草薙は最後まで笑いながらこの世から消えた。  あまりにもあっけない最後。  自分の力を確信し、そして自分より強いものに滅ぼされることをも受け入れての最後。  草薙だった灰が舞い上がり、俊治の気管に入り込み、咳き込む。  草薙だった物――人間だったモノ。 「う――」  俊治は治まらぬ咳と共に、胃の内容物をその場に吐き出した。  精神と肉体の均衡が崩れていく。自分が自分ではなくなる感覚。  そして――最後に浮かぶのは草薙の言葉。  草薙の笑み。 『それが、お前だ』 「う――わあぁああああ!!!」  俊治は絶叫した。


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