「美緒、なんかあった?」

 目の前でコーヒー牛乳の紙パックをちゅーちゅー吸ってた沙織が尋ねてきた。いつも通

りの昼食時間だけど、やっぱり分かるのかなぁ? あたしの変化に!

「うん。……昼間から言うのも何なんだけどさ」

「ちょいまち」

 沙織はそう言って紙パックの中身を飲み干したようだ。いい心がけかもしれない。

「いいわよ。さあ、お姉さんに何でも言って御覧なさい」

 口調が何か固かったけれど、あたしは特に気にしない。

 何故なら幸せだから! さあ、聞いてもらおうか!!

「実はさ、昨日……ついに一線を超えたのです」

 ――風が、吹いた。

 あたしが沙織の腕を認識した時には、すでに顔の横を通り過ぎていた。沙織の顔はとて

も朗らかで……笑みが張り付いている、という表現がぴったりかもしれない。

「中村〜。コーヒー牛乳ありがとう」

「どういたしまして〜」

 どうやらあたしの後ろに一紗ちゃんがいるらしい。さっきまではいなかったはずだから、

ちょうど来たんだろうか。彼女のほんわりとした声がすると共に引き戻された沙織の手に

は、コーヒー牛乳が握られていた。

 また飲むのか……。

「そんなに好きなの?」

「大好きよ」

 そう言って二個目のコーヒー牛乳にストローを挿して一口飲む。沙織は自分を落ち着か

せるように息を吐くと声を潜めて言ってきた。

「なんか最近、あんたののろけを聞いていてむず痒さを感じなくなってきたわ」

「でも拳は突き出すの?」

「もう条件反射よね」

 沙織は自分の右手を見てから、いきなりあたしの頭の上にその手を乗せた。わけが分か

らずにあたしは沙織を見る。

「でも、それならどうしてあんた、そんなに寂しそうなのよ」

「寂しい?」

 なんで? あたしが寂しい? 沙織が感じたのは、幸せそうなオーラじゃなくて、寂し

さだったんだろうか?

 明人とようやく一線を超えて幸せ最高潮のあたしが?

 でも沙織は真面目な顔で言ってきている。それだけ心配してくれてる。

 こういうところが沙織の良い所だと思う。飴と鞭を使い分けているというか……。

 沙織がいて、あたしは幸せだ。

「特に感じて無かったけれど……思い当たる節はあるよ」

「何? さあ、お姉さんに何でも言って御覧なさい」

 言葉は同じだったけれど、そこにある感情はさっきとは違う。

 ちゃんと腰をすえて聞いてくれる沙織に、心の中で感謝した。

「一線、超えたんだけどさ……特に何も変わらないんだよね」

「変わらない?」

 沙織が疑問の声を出す。あたしは何とか上手く説明しようと、少し考えてから口を開く。

「あたしさ、一線を超えたら凄い明人のこと好きになると思ってたんだ。でも、最初は溶

けるくらい幸せだったんだけど、今は普通なの。明人のことを今までと同じくらい好きな

んだけど……」

「うんうん」

「なんだろうね。もっとなんかこう……特別な物だって思ってたという感はあるのよ」

「……分かったわ。あなたの疑問」

 沙織が何故か勝ち誇ったかのように言ってくる。おお! こんな短い会話だけで!

「おおー! 沙織博士! あたしの疑問に答えてください!!」

 コーヒー牛乳を再び飲み終えて、沙織はあたしの耳に口を近づけた。どうやらそこまで

ひそひそ話な内容らしい。

「あんた。ちょっと理想あったと思うよ。エッチに」

「そう、なのかな?」

 あたしの後ろに回した腕に力がこもる。あたしは沙織と頭部をほぼ密着させていた。ち

らっと周りを見たら変なものを見てる目で、クラスメイトが何人かがあたし達に注目して

いた。

 でも気にせず沙織の話を聞く。

「別にエッチしたことで特別な何かが手に入るってことは……まあ赤ちゃんが出来るかも

しれないけど、ようはそこまで行った事が重要なのよ。最近の女子高生とかにさ、援助交

際とかで簡単にエッチしちゃう娘達いるけど。あんたらみたいなカップルにはそこまで行

くこと自体が、特別な物なんだと思うよ」

 沙織もあたしも最近の女子高生なんだけど……やけに説得力があった。やはり沙織博士

は違う! でもあたしはその中の一単語を呟いた。

「……赤ちゃん」

 その声が意外に大きく出てしまって、クラスに波紋が広がる。その声がやけに不安そう

だったから、どうやら沙織にも勘違いさせてしまったらしい。

「まさか避――」

「昼から何を言ってるんだよ……」

 いつの間にかこめかみに怒りマークをつけるくらいの形相で、明人が立っていた。



* * * * *
「あーあー、暇」  あたしは机から離れてベッドに横になった。勉強は大体終わった。後は明日、学校で沙 織や明人に聞くことにすればいいや。  明人は今日はいない。思えば最近、毎日家に泊まりに来てたから忘れがちだけど……明 人も自分の家で寝るんだよね。  明人としてはあたしの家の光熱費が、自分がいると多くかかるからって遠慮してるみた い。あたしがそこまで頭回らないのに……やっぱりいい彼氏だ。うんうん。  でも明人がいないと寂しい。  いや、寂しくなった。  先々週に明人が来ないときは、ここまで寂しくなかった気がする。明人がいなくても、 次に会える時により嬉しくなるからって我慢できた。  でも……今は凄く不安になってる。 「何でだろう……」  不意に携帯を取り上げて、明人にメールしてみる。 『今、なにしてる?』  送信して少し待つ。  ……返ってこない。 「お風呂かなぁ」  あたしはすでに上がってしまったから、時間潰しにまた入るっていうのも変だ。  かといってまた勉強をする気にもなれない。気持ちが落ち着かない。 「やっぱりエッチしたからかなぁ」  思い当たるのはそれしかなかった。  昨日、明人と一線を超えてしまってから、あたしはおかしくなってしまったのかもしれ ない。  確かにあたしは寂しがり屋だけど、それでもある程度は明人がいなくても我慢できた。  そうでないと今まで生活していけたのがおかしいじゃないか!  でも……今はこんなに、明人に会いたい。  ずっと傍にいてほしい。 「明人……明人……」  携帯電話を握り締めて、あたしは小さく丸まった。あたしの中で不安が大きくなってい くのは明らかで、身体をぎゅっと抱えていないと寂しさに負けてしまいそうだ。  こんなことならエッチなんてしなければ良かった。  こんなに寂しくなってしまうなら、今まで通りベタベタで我慢しておけばよかった……。  自然と涙が出てきて、情けなくなる。 「あきとぉ……」  涙声と同時に、抱えていた携帯が震えた。思わず「わっ」と声を出しちゃったけど、す ぐに確かめる。  それは電話だった。明人からの。 「も、もしもし!」  声が裏返ってしまったけど、涙は引いていたし、声も涙声じゃない。明人は電話の向こ うで一瞬口篭もったような気がしたけど、すぐに声を聞かせてくれた。 『ごめんね。風呂入ってたんだよ』 「わざわざ電話しなくても……メールで良かったんだよ?」  そう言うと、明人はまた少し黙る。なんだろうと思ったら、明人は少し恥ずかしそうな 声で言った。 『何か凄く寂しくてさ。美緒の声が聞きたかったんだ』 「……明人」  あたしは凄く嬉しくなった。明人もあたしと同じような気持ちだったんだろうか?   でも原因があのエッチだったとしたら……そう思うとやっぱり悲しい。だから、あたし は明人に訊いていた。 「やっぱり、エッチのせいかな?」 『は?』  明人はいきなりのことにわけが分からないと言った声で訊き返してくる。 「あたし達、エッチしなければこんなに寂しくなること無かったのかなぁと思って。こん な気持ちになるなら、しなければよかったか――」 『美緒』  あたしの名前を呼ぶ声は、少し怒っていた。どうして? やっぱり寂しくさせたのはあ たしが悪いの? 『そんなこと思ってたの? それは違うよ』  少し怒っていた口調が、急に優しくなる。 『俺、凄く嬉しかった。美緒と……エッチできて。きっと美緒も凄く嬉しいと思ってくれ たと思う……だからさ、ちょっと感覚が鈍ってるんじゃないかな?』 「鈍る? 感覚が?」 『そう。美味しいものを食べたらしばらくは普通の食べ物でもあまり美味しく感じないだ ろ? 微妙に違うけど、俺達もあんまり幸せだったから、離れると急に寂しくなったんじ ゃないかな』 「……なら」 『俺が言いたいのは、こうやって寂しく思えるってことは、幸せだって事の裏返しなんじ ゃないかってことだよ!』  明人の言葉。  それはあたしの中にすぅっと入ってきて、こんがらがっていた感情を解きほぐしてくれ た気がした。 『だから寂しさも増えたんだと思う。でも……きっとまた会った時はもっと嬉しさも増え てると思う。だから……今までよりももっと我慢しないといけないんだよ、きっと』 「ううう……明人の言うこと正論だぁ。明人博士好き〜」 『博士が何か分からないけど、俺も美緒好きだよ〜。もへ〜』  いつものもへぇ、を聞いて、あたしは凄く幸福な気持ちになる。  いつもと同じ明人。  いつもと同じ空気。  そうなんだ。  別にエッチしたから劇的に表面が変わるとかじゃないんだ。  いつもと変わらないことは特に変なことじゃないんだ!  多分変わるのは、お互いの絆。  大好きな人と、もっと一緒にいたいって気持ちなんだろう。 「我慢……するよ! そうしたら、明人にもーっとドキドキ出来るかな?」 『大丈夫大丈夫。俺ももーっと美緒とベタベタしたい』  明人は「ふにぃ」とか「もへーん」とか言いながら会話してくれる。その言葉を聞くた びにあたしは幸せになって、脱力する。気づくと電話を始めてから一時間が経っていた。 「もう一時間経ってる! もうそろそろ寝るよ〜。明人は明日、来てくれる?」 『うん。明日は泊まらせてもらうよ〜』  その言葉に妙にうきうきする自分がいる。 「ならさぁ……明人」 『なに?』  明人の顔が赤面して恥ずかしがるのを想像しながら、あたしは言った。 「明日、またエッチしてね!」 『――――!? 美緒、恥ずかしいよ……』  想像通りの反応をしてるだろう明人に、あたしは笑ってしまう。もう夜だから思い切り 笑えない。声を押さえるのに必死だ。 『ぷー。笑ってる……なら、明日は美緒を乱れさせてあげる』  ……次に赤くなるのはあたしだった。明人は電話の向こうで勝ち誇ったような鼻息を出 したようで、こっちまで聞こえてくる。  心臓を落ち着かせて、あたしは言った。 「じゃあ、おやすみなさい」 『お休み、美緒』  切られる電話。あたしは明人との会話の余韻をしばらく楽しんでから、充電器に携帯を 入れて、ベッドの中に入る。  電気を消して暗闇の中を見ながら、あたしは明人の姿を思い浮かべていた。 (……早く会いたいなぁ)  そう思う自分を叱咤して、明人の姿を消す。  これから先、こんなことはしょっちゅうあるんだろう。明人といつも一緒に居れるわけ ないんだし。慣れていかないといけないんだ。  でも……一緒に居れないことに寂しさは感じるけど、明人とずっと恋人付き合いしてい けるってことには、何故か不安が無い。  もしかしたら別れてしまうのかもしれないのに、そんな不安だけは無い。  これも、エッチの効果なのかもしれないな。  前よりもっと二人の絆が強くなった証拠なのかもしれない。 「おやすみ、あきと」  目を閉じると、ゆっくりと眠気があたしを飲み込んでいく。そんな中であたしは願って いた。  明日も明人といられますように。  明後日も明人といられますように……。  これからもずっと、明人と一緒に居られますように――。   『長編・彼女の理由・了』


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