「はい」

「……えい!」

「もへ」

「……ふに!」

「もへもへ」

「…………」

「どうしたの? 流石に降参?」

「……降参しないもん! まだ戦えるもん!」

 明人の憎らしいほど冷静な言葉に、私はとりあえず反抗した。でも目の前に広がる戦況

を見るといくら嫌でも降参したくなる。

 あたしと明人の間には一つの将棋盤があった。明人が死んだおじいさんの形見から貰っ

たらしいそれを、態々あたしの家に持ってきたのだ。小さい頃におじいさんに教えられた

きり、今までやってなかったらしいけど……はっきり言ってあたしよりかなり強い。

 あたしも小さい時に少しだけ将棋をしたことはあったけど、すぐに止めてしまった。こ

ういう相手の先を読むとかいう頭脳戦は苦手なんだ。

 でも、久しぶりということでやってみたわけだけど……後悔したわ本当。

「早くしないと夕飯の時間になっちゃう〜。お腹空いたよう」

「がうがう。この勝負を終えるまで待ちな〜」

 明人は涙眼になりながら――もちろん形だけだけど――あたしに訴えてくる。でも意地

でも逃げない。最後まで戦う。まだ道は残されているから!

「じゃあ……これ!」

「おっ! 美緒、結構いいところ指したねぇ」

 そうやって誉めつつ、明人は迷う事なく次の一手を指してきた。あたしは何となく明人

の指を見る。

 明人の指は空手をやっているから、やっぱり太い。でも爪は綺麗だ。なんでも、打撃の

時に爪が割れないようにマニキュアをつけているらしい。男同士でマニキュアを塗るなん

て想像もしたけど、自分でやってるようだった。

 太いけど、やっぱりどこか整ってる指。あたしはここに芸術を見る。

「どうしたの? 美緒。まだ悩んでるの?」

「あ……何でもない!」

 あたしは誤魔化すために何も考えずに駒を指した。次の瞬間、明人の顔が笑顔に変わっ

た。いつもの笑顔じゃなくて、「してやったり」の顔。

「しまった!? 今――」

「はい。王手」

 あたしの言葉よりも先に、その綺麗な指はあたしの王様にとどめを刺した。流石に足掻

く事はもう無理。あたしは唸って明人を見るしか出来なかった。

「はーい。おしまい! もへ〜早く夕飯食べたいです〜」

「にゅ。分かったよ」

 あたしは釈然としないままに夕飯の準備を始めた。時刻は四時五十分。少し遅れるけど、

しょうがないよね。



* * * * *
「明人ってさぁ、指先綺麗だよね」 「? そうなの?」  夕飯の酢豚をつつきながら、あたしは明人に言った。明人はテレビのニュースから注意 をあたしに戻して首をかしげる。何故か凄く可愛い。最近、こう言った女の子に似合いそ うな動作をこなす明人がいる。  そのまま何度か首をかしげている明人を微笑ましく見ながら、あたしは続ける。 「うん。女の子から見てもやっぱり綺麗だよ。そりゃあ、空手なんて物騒な物やってるか ら太いけど、太いなりに整ってるというか」 「男の価値は指先じゃないよ〜」 「いやそうだけどうらやましいの」  あたしはご飯を食べ終わると自分の指を広げてみた。  女の子の中では平均的。爪もマニキュアとか塗ってないから少し傷ついてる。気にする ほどでもないけれど。  でも明人と比べるとやっぱり気になる。男の子に嫉妬しちゃう。 「どうして明人の指ってそんなに整ってるの?」 「どうしてって言われても……」  明人もご飯を食べ終えて、食器をキッチンへと出してくれた。あたしの食器も立ってる ついでに渡す。あたしは何となく釈然としないまま、居間のソファに座った。すぐに明人 も横に座ってくる。  テレビを付けると大して面白い番組はやってなかった。  今日は土曜日。面白い番組があるとすれば、午後十時くらいからお笑い芸人が沢山出る 番組があるくらい。  うーん、気まずい。 「美緒……怒ったの?」  明人の声はとても不満そうだった。何に対して怒っているのかも明人は分かってる。そ して、「将棋の事?」と言ってごまかすほどはぐらかしたりしない。だから、あたしは明 人に寄り添う事で、謝罪を示した。 「美緒」 「…………」  何も言わないで明人の胸に頭を寄せる。  最初は意味が分からなかった怒りも、今は少しずつ分かってきてる。  あたしはちょっと自分に自信がなくなったんだ。  明人は凄い。本当に凄い。  勉強も運動もルックスも、あたしにはもったいないくらい。  しかも二人になればあたしよりも可愛くなるし。  そして……指先。  そんな細かい所まであたしよりも綺麗な明人を知ってしまって、あたしはどうしたらい いか良く分からなくなったんだ。  あたしは何一つ明人に新しい物を与える事が出来ないんじゃないか。  全てが劣っているあたしには、明人を満足させる事が出来ないんじゃないか。  明人には、あたしは必要ないんじゃないか。  もちろん明人はそんなことないって答えるって、あたしは確信してる。  でも……感情で納得できない。 「美緒。泣いてる」  明人の指先があたしの目のすぐ傍を拭った。気付くと、あたしは泣いてた。  自分の考えが情けなくて。  明人が凄くて、あたしにはもったいないって考えが消えない……。 「美緒。大丈夫だよ」  明人の指がまた涙を拭ってくれる。そしてゆっくりあたしの顔を撫でてくれる。  十本の指が優しくあたしを支えてくれて、そのまま明人の唇があたしのへと吸い込まれ た。すぐに舌まで入ってきて、あたしの身体に電流が流れる。 「――んっ」 「俺が、居るよ」  舌を絡ませたままで、明人が言ってくれる。そしてまた、あたしの舌の上と下を円を描 くように舐めてくる。その度にあたしの身体は反応して、小刻みに震えた。 「――ん、んん! はぁ……んん!」  あたしの舌から離れた明人の舌は、そのまま口の中をゆっくりと伝っていく。  歯を、唇の裏側を舐められると……頭の中がとろけてきた。 「あき、と……」 「しようか」  何を、とは聞けなかった。  直後に明人はあたしの胸を服の上から触る。 「あんっ!?」  指先があたしの胸を圧迫する。下着越しに明人の指は胸の形をゆっくりと変えていく。  ……指使い、明人巧いかも……本当に初めてなのかしら。 「そうなの?」 「は?」  あたしの問いが唐突だったのか、明人は動きを止めた。よく見えるようになった視界に 映ったのは、上半身が裸の明人。いつの間にか着ていた服を脱いでいたらしい。あたしは ソファに倒れこみ、明人が上に乗っている。  我に返ると急にその体勢が恥ずかしくなった。 「……降りて!!」 「分かったよ」  明人は意外とあっさりあたしの上から降りた。それに不服だった、というわけじゃない けど拍子抜けしちゃう。ソファの下に落ちていた上着を着てから、明人は言った。 「元気になった?」 「元気を通り越して、少し体が熱い」  ほてってる体を冷まそうと、あたしは冷蔵庫の下へと走る。中に入った炭酸飲料をコッ プになみなみと注いで、一気にそれを飲み干す。 「――げふ〜」  ゲップが出た。 「美緒、はしたないよ……」 「ふーんだ! いいんだもん! 明人の前だけしか見せないよ!」  あたしはそのままソファに座る明人に飛び掛る。明人は慌ててあたしを抱きしめてくれ た。逞しい腕が、大きな手が、綺麗な指先があたしを包んでくれる。  気にしなくて、いいんだよね?  あたしが傍にいてもいいんだよね! 「いつもの美緒だね」  明人の柔らかい声が耳に心地いい。あたしを包んでた嫌な気分もどこかに吹っ飛ぶ! 「そだよ。いつもの美緒だから……リターンマッチ!」 「……まさか将棋?」 「まだ見たいテレビまで時間あるもの。今度は飛車角香車抜いてやってね」 「いくらなんでもそれはきついかも」  そう言いつつ、明人は将棋盤を用意して駒を並べ始めた。あたしは鳴らないけど拳を握 って指を鳴らす真似をする。 「今度こそ負けないわよ〜」 「はいはい」  明人は笑いながら駒を並べてく。ちゃんとあたしのまで並べてくれるのは律儀だ。  全ての駒を並び終えて、明人はちゃんと飛車角香車を抜く。むふふ、これで明人は最強 の矛と盾、そして飛び道具をなくしたことと同じ! 今度こそ勝てる! 「じゃあ今度は何か賭けようか」 「何賭ける〜?」  あたしは勝利の予感にハイテンションになりながら、明人に言う。 「胸、触らせてよ」  明人が言った言葉にあたしは顔が熱くなることを感じずにはいられなかった。  あたしの身体を駆け巡っていた血液が全部顔に集中したみたい。何か言葉を言おうとし たけれど、うまく口が回らなくなる。 「それくらいいいんじゃない? 俺、不利な状況で戦うんだから」 「…………」  少し落ち着いてきても、あたしは言葉を話せない。しょうがないから首の振りで答えた。  素直に縦に首を振る。  明人の顔が笑みで崩れた。 「よ〜し! 頑張るぞ〜」 「……頑張ってね」  明人は鼻歌を歌いながら最初の一手を指した。思わずその指を見てしまう。  さっき、明人に触れられた感触が甦ってくる……。  あの指に触られるんだ……。 「美緒。ほら、美緒の番」 「あ、はい……」  あたしは少しぼーっとしながら駒を進めた。  あの指になら、触られてもいいかもね。そんな事を考えながら、あたし達の将棋は続い たのだった。
* * * * *
「で、結果はどうだったの?」  沙織は顔に笑みを浮かべたまま聞いてくる。よかった。いつもならもう怒りモードなの に、今日は優しい。 「うん。気持ちよかった」  勝負の結果の結果を言うと、沙織は「ふーん、そう〜」と肘を机について、両手で顎を 支えている状態から即座にあたしの頭を掴んできた。  左手は頭に。右手は沙織の口元に近づけて、息を吹きかけている。 「つまりあなたはただのろけたかったのね」 「ちがうよちがうよぜんぜんちがうよ」  沙織の手があたしの頭を掴む。指先をあたしの頭部にめり込ませんと力をかけてくる。  どうして同じ指でも明人と沙織はこんなにも違うのだろう……。  そんなことをぼんやり考えながら、あたしは沙織の冷たい怒りに燃える瞳を見ていた。 『07・了』


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