「明人がおかしい」

 あたしが言った言葉に沙織は眉をひそめていた。あたし達は相変わらずお昼ご飯を食べ

ていたけど、あたしの視線は手元のお弁当じゃなくて明人に向いてる。

「おかしい……って、別に永沢君。いつも通りじゃない? 今朝も朝練出てたし」

「ご飯を食べるスピードが遅い」

 あたしは明人のお弁当箱の中身を見ていた。食べ始めたのはあたし達と同じくらいのは

ずで、いつもの明人ならもう食べ終わって友達と外に遊びに行ってるはずだ。でも今日は

先にその友達を行かせて自分はご飯を食べている。

「そう言えば確かに遅いわね……食欲ないのかしら」

 あたしは沙織には答えずに立ち上がって、明人のところに歩いていった。ゆっくりと歩

いてきたにも関わらず明人は気付いた素振りがない。

「明人」

「ん? どうしたの? 美緒」

 やっぱりそうだ。

 明人は身体を悪くしてる。

 あたしは即座に明人の額に手を当てた。伝わってくるのは熱い体温。掌が汗を掻くくら

いの高温だ。

「あ――永沢君! 保健室行きな!!」

「え……いい、よ」

「いいからいけぇ!!」

 強引にその場から立たせて教室から押し出す。ついていこうと思っていたけど、明人は

流石に観念したのかあたしを静止して保健室へと歩き出した。廊下を少しふらつきながら

歩く明人を見て少し胸が痛くなった。

 教室に戻るとみんなが感心したような視線を向けてくる。あたしは気恥ずかしくなって

足早に沙織のところに戻った。そこでも同じような視線があったけど。

 やけに感心したような視線を向けてくる沙織はあたしが席に座ると同時に言ってきた。

「凄いね。誰も気付かなかったのに分かるんだ」

「明人は余裕なくなると地が出るんだ。普通みんなそうなんだろうけど、明人の場合は上

限高いから、よっぽどきつかったんだね」

「大丈夫そう?」

「うーん。明人って風引きにくいから、一日二日寝てれば治るんじゃないかな」

 あたし達がそのままご飯を食べて雑談をしてると明人が戻ってくる。そして鞄の中に勉

強道具を入れ始めた。やっぱり今日はもう無理なのかな。

「永沢、帰るのー?」

「顔青いよ。大丈夫?」

「ああ。家で寝てるよ」

 明人はクラスのみんなに言葉を贈られながら早退した。一人で帰れるのかな……心配。

「あ、立川」

「なに?」

 教室の前から出て行って後ろのドアを開けてあたしに話し掛けた明人は、申し訳なさそ

うに手を合わせた。

「今は保健室の先生に送ってもらうから、俺の自転車届けてくれるか?」

「いいよ。何かお見舞い買ってく?」

「任せるよ。じゃ、よろしく」

 明人は熱に浮かされてても何とか平常心は保ったのか、笑顔を向けて去っていった。い

つもよりも可愛い笑顔に見える。明人が辛い時にこう思うなんて何か薄情かも、あたし。

「何買って行くの?」

 明人が去ってからクラスのみんなの喧騒が収まると、沙織が話し掛けてきた。今日はや

けに絡んでくるけど、何かあったのかな?

「なんでそう気になるの? いつものろけのろけと怒ってるのに」

「いや、永沢君が体調悪い時くらい大目に見ないと悪いでしょ。だからどうせなら甘いと

ころを見てあげようと思って」

 沙織……君は……いい奴なのか悪い奴なのか分からないよ!!

 なんかあたしを見て面白がってるだけの気がしてきた……追及するのも怖いけど。

「明人の大好物を買ってくよ」

「永沢君って何が好きなの?」

「プロテイン」

「喉飴にでもしときなさい」

 即座に否定されちゃった。何かいけないのか? プロテインで……



* * * * *
 明人の家まで自転車二つを押していくのはなかなか疲れた。だからようやく着いて、物 置の前に明人の自転車を置いたところで明人のお母さんが出てきてくれたのは助かった。 「あら、美緒さん。わざわざごめんなさいね……明人の自転車」 「いえ! 気にしないで下さい。明人君……どうですか?」  あたしの言葉に明人母は少し顔をしかめた。その表情に急に不安になる。 「まさか、かなり悪いんですか?」 「いえ。そうじゃないのよ。ただ熱が高いからしばらく安静にしておかなくちゃいけなく て、美緒さんにお見舞いしてもらったら移らないか心配で」 「大丈夫ですよ。多分」  あたしは何の根拠もなく自信を持って言った。そうしないと明人母はあたしを家には入 れてくれないだろうから。あたしの言葉を信じてくれたようで、明人母はにこやかに玄関 のドアを開けてくれた。靴をそろえて置くとそのまま二階を見上げる。 「二階の一番奥よ」 「ありがとうございます」  明人母に頭を下げてあたしは静かに、でも駆け足で階段を上った。明人の家は何度か来 ているけど、明人の部屋には入った記憶がほとんどない。だから不謹慎だけど明人の風邪 に少し感謝していた。  一番奥の部屋のドアを見る。  登別ででも買ってきたのかといわんばかりにキタキツネの絵が書かれている部屋プレー ト。そこに明人の字で『明人部屋』と書かれていた。何か相撲部屋みたいなネーミング。  静かにドアを二度ほどノックすると、鼻が詰まった声が聞こえてきた。 「はい」 「あたしだよ」  声をかけてからドアを開ける。明人はベッドに寝ていた。額には熱冷まシートをつけて 後頭部には水枕。布団は八月半ばには暑いだろう掛け布団が小山のように明人を押しつぶ していた。あたしはベッドの横に腰を下ろす。 「みお〜。来てくれたんだ〜」  いつになく甘えた声を出して明人は微笑んだ。目が熱のためか潤んでて、男の子とは思 えない。 「はい。おみあげだよ」  そう言ってあたしは買い物袋からアイスを取り出した。ソーダ味のアイスは明人の好物 なんだ。これなら冷たいから気持ちよくなるかなと思ったんだ。 「もへもへもへ〜。あいしゅしゅき〜」  急激に幼児化した明人が手を伸ばしてアイスを取ろうとする。あたしはアイスを袋から 出して明人の口元に近づけた。 「はい。あーんして」 「あー」  言葉の後半はアイスをかじったせいで消滅する。全体の三分の一ほどを一気に口に入れ た明人は満面の笑みのままで口の中を動かしていた。その様子がまるで小鳥に餌をやって るみたいで楽しい。というか可愛い。  ここにいるのはみんなを引っ張っていって、かっこいい明人じゃない。  誰よりも寂しがり屋で、甘えん坊な男の子だった。  アイスを全て食べ終わると至福の喜びを味わったというような顔をして、明人は頭を少 し浮かせた。 「あ、寝てないと駄目――」 「ありがとっ!」  あたしの頬に触れる明人の唇。 「――もう。明人は甘えん坊だねぇ」 「もへ〜そうだよ〜。みおすき〜だいしゅき〜」  笑みを崩さないまま可愛く言ってくる明人。でもすぐにあたしから顔を背けて咳を何度 かした。  やっぱり明人は体調、かなり悪いんだ。何でここまで酷くなるまで我慢してるかなぁ。 「大丈夫、明人? どうしてもっと早く体調悪いこと言わなかったの?」  落ち着いた明人は「うーん」と唸って天井を向いた。でもすぐにため息を吐いてあたし へと視線を戻す。 「わかんない。昨日は大丈夫だったんだ。少し風邪気味だったけど。でも今日の朝練が効 いたかな。終わった後やけに寒気したから」 「夏だからって汗の処理はちゃんとしないと駄目だよ」  あたしはゆっくりと明人の頭を撫でた。明人は目を細めて天井を見ている。これは明人 が心底気持ちいいと思ってる仕草だ。しばらく撫でた後であたしは少し身を乗り出した。 「熱なんてどこかいっちゃえ」  呟いて額に唇をつけた。  明人は驚いたようで赤い顔を更に真っ赤にしてあたしを見てる。これよりも恥ずかしい こと前にしてるはずなのに……。  明人は日頃の何気ないキスとかに凄く反応する。たまに明人から少しエッチなことをし てくるときはあたしがもうメロメロで顔を真っ赤にしてるのに。  でも最近気付いた。明人は真面目モードの時は大丈夫だけど、こうやって甘えん坊モー ドになってる明人は本当に子供みたいになるんだ。  だからキスとかの愛情表現に極端に照れる。 「恥ずかしい〜」 「裸エプロンのほうが恥ずかしいよ」 「あれは恥ずかしすぎ」  いつかの出来事を思い出して笑う。でも笑おうとした明人はまた咳にむせた。 「……あたし、帰ったほうがいいね」 「えっ!?」  あたしの言葉に驚いた明人がまた激しく咳をする。買い物袋からもう一つのお土産の喉 飴を明人の枕の横に置く。 「明人に必要なのはあとは休息だよ。あたしがいたら話して休めないでしょ。早く良くな ってほしいもん」 「……分かった」  明人はあたしから視線を外して呟いた。言葉とは裏腹のサイン。行ってほしくないと明 人は思ってる。でもあたしとしても明人には早く風邪治してほしいし、あたしがいれば休 めないのは事実だ。風邪が治ればまたお互い楽しく会話できる。 「じゃあ、行くね」  あたしが立ち上がろうとした時、明人が手を掴んだ。そのまま弱々しい力であたしをそ の場に座らせる。明人は何も言わなかった。目を閉じて、傍から見れば寝ているように思 えただろう。あたしの手を掴んでいる手を見なければ。  明人の手は徐々に力が抜けていく。でもあたしは無言でその手を離さずにいた。  何も言わずに明人が手を掴むのは、どうしようもなく寂しい時だ。寝る気はあるみたい だから、本当に眠るまでは傍にいてあげよう。  やがて明人の呼吸が落ち着き、手からは完全に力が抜けた。あたしはゆっくりと布団の 中に手を入れて、静かに立ち上がる。 「お休み明人」  静かにあたしは部屋の扉を開けて廊下に出る。扉を閉める直前に見えた明人の顔は、と ても穏やかに見えた。
* * * * *
「それにしても、凄い回復力よね」  沙織が明人のほうを見て呟く。あたしも同感だった。昨日はあそこまで辛そうだったの に、次の日になっていきなり出てくるとは……。 「昨日の看病が効いたわね」 「何したの?」  あたしの言葉に沙織が不思議そうに尋ねてきた。自信を持って答えてみる。 「おでこにちゅーしたの」 「それはつまりのろけたいということね」 「いやちがうよちがうよぜんぜんちがうよ!」  殺気を滲ませて立ち上がる沙織から逃げようと椅子を蹴倒して立ち上がる。と、動いた 視線が明人にぶつかる。明人は微笑むとおでこの中心を人差し指で指した。  沙織が動いた気配を捉えて走り出したけど、あたしは心の中では嬉しかった。  明人のサインの意味が嬉しかったから。 「何にやついてんのよ!」 「ちがうよちがうよぜんぜんちがうよ!」  沙織に弁解しつつ、あたしは校舎内を今日も駆けていった。 『05・了』


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