「立川さん。先生が配ったプリント、持ってきた?」

「あ……忘れた……ごめんなさい、あき――永沢君」

「じゃあ先生には俺から言っておくから、明日持ってきなよ」

「うん。ごめんね」

 明人はそのままあたしと沙織から離れていった。放課後に先生に渡せばいいプリントを

わざわざ昼休みのご飯を食べている時間に集めるとは、まめだなぁ、明人。

「自分はさっさとご飯を食べて、大半はどこかに行ってるのにねぇ」

 うお!? あたしが心で思ってたことに答えやがった。沙織はあたしが考えたことが分

かるのか! エスパー沙織!

「美緒は顔に出るから分かりやすいんだよ」

 またしても心の中を覗かれたみたい。でも言われてみるとあたしは感情が表に出るのか

もしれない。くそう、ポーカーフェイスとかかっこいいと思ってたのに。

「それにしてもねぇ……今だに永沢君が美緒と一緒にいるときに犬化するとは信じられな

いわよ。世界三大珍事よね」

「珍事言うな! しかもあと二つは何!?」

「校長の奥さんが美人な事と、飼育部が飼ってる豚に尻尾が二つあることよ」

 そう。明人は学校ではかなり真面目で通っている。あたし達が付き合ってることは確か

に知られているけれども、皆がいるところでは大体苗字で呼び合ってて、明人も犬化はま

ずしない。

 先生の言うことにてきぱきと反応し、更にそれ以上のことまでも先回りして動く明人へ

の先生達の期待はかなり大きいと思う。

「それにしても、永沢君、疲れるでしょうね」

「……うん。だからあたしと二人きりの時は犬化するんだと思う」

「それはつまりのろけているのね?」

「いやちがうよちがうよぜんぜんちがうよ」

 あうー、沙織から話題を振ってきたのにどうしてこんなプレッシャーを受けないと行け

ないの〜!? あたしはとりあえずこの場を脱出しようと残っていたお弁当の中身を口の

中に運ぶ。噛み砕いた物を飲み物で胃に押し込んで、時計を見た。

「あれ?」

 あたしの声に含まれてる物に沙織が気付いて、時計を覗き込んできた。

「止まってるね」

「うん……」

 あたしの腕時計は止まっていた。ちょうど十二時半。教室の時計を見ると十二時五十分

になろうとしていた。なんだろう……凄く胸がざわざわする。

「どうしたの? 美緒。顔が真っ青だよ」

「うん……何か凄く嫌な予感がするんだ」

 沙織があたしに何かを言おうとした、その時――

「永沢はいるか!?」

 教室のドアを開けてきたのは担任の先生だった。明人はちょうど教室に残っていたクラ

スメイトのプリントを回収し終えてて、机でそろえているところだった。明人の顔は何が

起こったんだろうって感じの顔だった。多分、あたしや沙織もそうだろう。

「ちょっと来てくれ」

 先生は精一杯動揺を隠そうとしてたんだろうけど、何か嫌なことが起こったのだという

ことはあたしにも分かった。

 明人が立ち上がって、先生のところに行く前にあたしを見た。

あたしは精一杯大丈夫だよって伝えたくて、強引に笑顔を作って頷く。明人は軽く笑いな

がら頷いて、先生のあとに付いて行った。

 ……あたしの顔が不安に引きつっていたことを分かってただろう。

 ポーカーフェイスになれたらよかったのに。





 結局その日、明人は学校を早退した。



* * * * *
 あたしはご飯もほどほどに食べて、自分の部屋でベッドに横になっていた。右手にあの 止まった時計を持って。 (おじいちゃん……死んじゃったんだ)  昨日聞かされた言葉を思い出す。  一昨日の十二時半に明人のおじいちゃんが亡くなった。自宅で突然倒れて、その時は昏 睡状態で、病院に運ばれた時はもう死んでいたらしい。昨日、明人はお葬式のために学校 は休んでいた。あたしも休んでお葬式に行きたかったけれど止められた。  明人自身に。 『学校休むなよ。プリント出してきな。じいちゃんなら、葬式じゃなくても後で来てくれ れば喜ぶからさ』  明人の言葉に強引に押されて、昨日は学校の授業を全て受けてから明人の家に行った。 午後の初めには火葬はすんでいたようで、仏壇に添えられる骨壷を見て悲しくなった。  止まった時計は、明人のおじいちゃんにもらった物だったから。 『最近の若者は腕時計も無いのかい? ちょうど二つ使ってないのがあるからあげるよ。 時間は大切にしないといけないよ』  そう言って笑いながら時計をくれたおじいちゃん。携帯電話で時間を見ることに慣れて いたあたしや明人は、腕時計に対してさほど執着もなかったけど、使ってみるとやっぱり 頻繁に見ていた。文明が進んでも昔ながらの物は消えない物もあるんだと思った。  大切に使おうとしていた時計は、今、動きを止めてあたしの手の中にある。  まだ二ヶ月くらいしか使ってないのに、その役目を終えたかのように動かない時計。  やっぱりおじいちゃんが死んだから……なのかな?  ぴぽぴぽぴぽーん  明人?  明人がくるときのチャイムの鳴らし方。ベッドから飛び起きて階段を一段飛ばしで玄関 に向かう。危うく倒れかけたけど、何とか無事に玄関に着いた。何故か必要以上に胸がド キドキする。いつも明人に抱くドキドキじゃなくて、胸が痛くなるような、ドキドキ。 「明人?」  あたしが呼びかけると、玄関がゆっくりと開いた。  現れたのは確かに明人だった。でもいつも笑っていた顔には面影が無く、たった一日し か経ってないのに、やけに痩せて見えた。 「だ、大丈夫なの!? ご飯食べてるの!?」 「美緒……」  サンダルを履いて駆け寄ったあたしに、明人は抱きついてきた。あたしを拘束する二つ の手。いつもの、柔らかく抱いてくれるのとは違う、力の限りきつく抱きしめてくる。 「いたい、よ……明人」 「嫌だ。離さない。離さない! 離さない!!」  背中を締め付ける腕の力は更に上がっていった。明人は空手部だ。腕の力はやっぱり強 い。息が、出来ない……。 「くる、し――」  その時、いきなり体を離されると、すぐに明人の顔が接近してきて唇が触れた。乱暴に あたしの口を舌で押し開けて、そのまま侵入してくる。 「うう、あひほ――」  乱暴にかき乱されるあたしの口腔。舌で弄られることに反応する体。乱暴にされても、 素直に体は快感に犯されていく。 「――ぱはぁ!? や、やめ――」  何とか口を離して明人に止めるよう言おうとした時、いきなり押し倒された。玄関口に 足をかける形で、家の中に倒れこむ。そのまま明人の口はあたしの肩に移動した。 「やめて! 明人ぉ!」  凄い怖かった。  怖くて、涙が出てくる。声まで涙声だ。いつも可愛くて、優しかった明人が今、あたし を怖がらせている。全然別の人みたいに。  着ていたシャツをむりやり下に下げて、あたしの胸部が外にさらされる。明人はあたし の胸の谷間に顔を押し付けてきて、動かした。 「や、め……」  その時、明人の動きが止まった。あたしはどうにか明人の下から動き出そうとしたけれ ど、明人が泣いていることに気付いてどうにも動けなくなった。 「ごめん……ごめん……どこにも、いかないで……いかないで……」  明人の声は本当に悲しそうだった。あたしは空いている両手で、明人の頭を包んであげ る。あたしの胸の谷間に顔を押し付ける形になってかなり恥ずかしかったけれど、明人は 徐々に落ち着いていったようだった。  しばらく時間が経って、明人はゆっくりとあたしの手から逃れて顔を上げた。  その顔はもうあの怖い明人じゃなくて、いつもの明人の顔だった。酷く疲れているのは そのままだったけれど。 「……ごめん、美緒」 「とりあえずあがって?」  明人は素直に従って、あたしの上から体を起こした。 「本当にごめん!」  明人はテーブルに手をついてあたしに頭を下げた。傍にはお茶漬けを食べた名残が残っ てる。よほどお腹が空いていたんだろう。実際、食べっぷりは凄かった。顔色も大分良く はなってきてる。あたしはとりあえず安心した。 「いいよ、もう。おじいちゃんのことでしょ?」 「……うん」  明人は昔、おじいさん子だったって言っていた。体を悪くして入退院を繰り返すように なってから疎遠になったって聞いていたけど、やっぱり昔からの思いは変わらなかったん だろう。 「本当、寝てるだけに見えるんだよ、じいちゃん。でも、もう起きることないんだって、 俺の名前を呼んでくれる事はないんだって気付いたら……抑えきれなくなったんだ」  明人は寂しがり屋だ。  だからこそ、自分を大切にしてくれる人達を大事にしようと、必要以上に頑張るんだ。  そんな明人が大好きで、でも見てると少し辛かった。 「いいよ、明人。あたしはどんな明人でも好きだし」 「美緒?」 「明人があたしにどんなことをしようと、多分あたしは嫌いにならない。だから、あたし の前ではずっと弱いままでもいいんだよ」  明人の表情が緩んだ。そのまま泣き出してもあたしはいいと思ったけど、自分で抑制し たようだ。一回下を向いてから上げた顔には、もう悲しみの影はなかった。 「……ありがとう。そうだ、美緒がじいちゃんからもらった時計、止まってたって?」 「うん。ちょうど、おじいさんが倒れた時みたい」  あえて話を変えようとした明人にあたしは合わせる。あたしは持っていた時計を明人に 見せた。明人は複雑な表情を浮かべて、自分がつけていた時計を見せてきた。  それはおじいさんから貰った時計。あたしと一緒に貰った時計だ。 「同じ時計なのに、俺のは止まってなかったんだ。どうしてだろうな」 「多分さ、おじいさんが知らせたくなかったんだよ」 「?」  明人が不思議そうに首をかしげる。少しだけ、可愛さが戻ってきて嬉しい。あたしは思 ったことを口にした。 「明人に直接教えたら、明人が悲しむでしょ」 「そう、か」  明人は涙を流した。さっき堪えた涙と一緒に、一気にあふれ出てきた。そのままテーブ ルに突っ伏す明人の背中に回って、静かにあたしは抱きしめた。明人の温もりが伝わって くる。 「あたしはここにいるからね、明人」  明人が泣き止むまで、あたしはずっと明人を抱いていた。  あたしをいつも包み込んでくれている明人を、今はあたしが包み込んでいる。  それが不謹慎だけど、やっぱり嬉しかった。  少しでも好きな人を支えることが出来てることが嬉しかった。  『03・了』


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