「おい、時計、何時から止まってた?」 俺は夏海に尋ねた。俺の言葉に反応して夏海が部屋の時計を見る。 確かに時計は止まっていた。時刻は午後四時二十分三十二秒。 普通なら電池が切れたでという事ですむ問題かもしれない。だがそれはありえなかった。 何故なら、時計はデジタル時計だったからだ。デジタル時計の電池が切れたのならば表示全てが消える。だが今はピッタリと時間を示したまま止まっている。 あたかもこの部屋全体の『時間』が止まったかのように。 「い、一体……どういう事なの?」 「分かったら苦労はしないな」 そう言いつつも俺は得体の知れない気配の存在を感じていた。部屋を静かに移動して机に立てかけてある木刀を掴む。いつもは『道場』に置いてあるんだが、昨日の稽古が終わって手入れをしようと思って部屋に持ってきていたのだ。 幸い、体は軽い虚脱感がある程度で動くには支障は無い。いつもの俺ならば、この状況をきっと乗り切れるはず……。 「隼人……」 心配そうな声で言い、俺のシャツを掴んでくる夏海。夏海の中で不安と恐怖の割合が増してきていることが分かる。今、平常心を失われたら守れる物も守れなくなるだろう。俺は夏海を安心させるように頭を撫でる。 「大丈夫だ。俺が、守ってやるから」 「……うん」 まだ不安はあるものの、落ち着いたようで夏海はシャツから手を離した。その瞬間、部屋の窓ガラスが勢いよく割れる。 「きゃあ!?」 「……!」 俺は即座に木刀を正眼に構えた。自分の『剣術』がこの得体の知れない物にどれだけ通じるのか? しかも本当に通じるような物なのか全く分からなかったが、やるしかなかった。 そしてカーテンを破って出てきた『それ』を見て夏海は悲鳴を上げた。近くでそのように叫ぶ夏海を見て逆に俺は落ち着いていた。 先に驚かれたせいもあったが、『それ』に出会うのは初めてではなかったからだ。 (夢の中の……奴だ) それは朝、自分が見た夢の中で周りに転がっていた死体――化け物だった。 手足は棒切れのように長く、頭は異常に長い。体が黒光りしている。 眼は鈍い光を放っていて口は耳元まで裂けていて、昔映画で見た「エイリアン」のような風貌だった。 「隼人ぉ……」 夏海は尻餅をついて部屋の隅に這って行った。俺は化け物と夏海の斜線上に入り、木刀を突きつけると自分を奮い立たせる意味もこめて叫んだ。 「何者か知らないが……夏海には触れさせないぞ!」 精一杯の虚勢。 そして化け物は躊躇無く俺に襲い掛かってきた。 化け物がその右腕を突き出して突進してくる。その様子をしっかりと視界に収めて俺は横に体を動かした。 化け物は単純に突き進んできたので俺にちょうど横腹を見せる形になる。 そこで俺は木刀を叩き込んだ。 奴の、右肘へと。 鈍い手応えと音。まるで岩を殴りつけたかのように腕は痺れたが、その衝撃も手伝ってか化け物はそのまま部屋のドアを壊し、突き抜ける。 俺はすぐさま後ろへと回って背中へと蹴りを喰らわせ、化け物は階下へと落ちていった。 「夏海! そこから動くなよ!」 そう叫んで俺も続いて部屋を出る。下を見ると化け物が頭を振りながらゆっくりと立ち上がるのが見えた。俺はその隙に階段を滑るように駆け下りる。 そして途中で飛んで化け物の肩を踏み台にして、階段から反対側へ降り立った。 「こっちだ!」 テーブルの上に乗っていた灰皿を投げつけて叫ぶ。 ガラスでできていたその灰皿は化け物の頭部へと直撃し、粉々に砕け散った。しかし化け物は別段効いた様子も無くゆっくりと俺の方を向く。 俺は無言で走り出していた。 (こんな木刀じゃ駄目だ。あいつを倒すには――真剣しかない!) 腕はまだ痺れていた。こんな状態でまた木刀で殴りつけたなら、今度こそ木刀は弾かれて無防備な体をさらす事になろう。そうすれば、死ぬのは明白だ。 対抗する手段はただ一つ。 俺は全力で家に隣接している道場へと走っていた。 古流剣術を継承している久坂家には普通の家に繋がって道場がある。そこには昔から飾られていた刀があった。 本当に斬れるかは賭けだったが、木刀よりは良い結果を見出せるはずだ。 「るごぉおおお!!」 化け物の咆哮。 咄嗟に俺は体を低くして右に避ける。すると左後ろから何かが飛んできて、それは廊下を粉砕して穴をあけた。 「マジか!?」 化け物が吼えるたびに発射される何か。そして破壊される床。このままでは俺に大穴が空くのも時間の問題だろう。 だが何とか俺の体に穴が空く前に目的地に着いた。俺が走りこんですぐに化け物も道場へと侵入する。 俺は振り向いて化け物を睨みつけた。手には飾られている刀。鞘を恐怖に負けないように力一杯握り締めている。 「さあ、来いよ……」 化け物が咆哮し、ゆっくりと間合いを詰めてくるのをどこか冷めた眼で見る自分がいた。 手の中に感じる重さ。 意味は分かっている。それはこの刀の重さだ。しかしそれだけではない。 (これは、物の『命』を奪う重さだ……) 自分の眼の前に迫ってくる化け物の動きがスローモーションになって見える。自分の反応速度が一気に拡大し、時間が引き延ばされているような感覚が自分の中に生まれる。 それは奇妙な事だったが、今の俺にそれを不思議がる余裕など無い。 今の俺にあるのは、一刻も早くこの化け物を倒し、夏海を家に送って帰るんだ! 「おおおお!!」 腹腔から裂帛の気合を吐き出す。俺が習っている古流剣術の呼吸法。 自分の内の力を一度に、最大限に発揮させるための気合。 そして俺は、化け物が伸ばしてくる右腕に向かって躊躇いも無く鞘から刀を抜いた。 ザンッ! 音はそれだけだった。 俺の視線は踏み出した右足を捕らえている。即ち床を向いているのだ。左手に鞘を持ち、真横に伸ばされた右手には抜き身の刃が握られている。 遠くで何かが落ちる音がして、次の瞬間、化け物の咆哮が響き渡った。 「ぎゃおおおおおお!!!」 殺気を感じてその場から飛びのき化け物を振り返ると、右腕を失い左腕で傷口を押さえていた。床にうずくまり、化け物を中心として青い血が信じられないスピードで広がっていった。 「やった……?」 しかしそう思ったのは甘かった。化け物は苦しそうな悲鳴をあげながらも立ち上がってきた。その眼は真っ赤に染まり狂気の色を呈してきている。 「完全に息の根を止めないといけないのかよ」 俺はまた刀を鞘に戻した。再び抜刀術を使い、今度は頭部を体から切り離す。そこまでやれば流石に化け物も生きてはいまい。 そのためには……。 「るぐおおお!!」 「!?」 しかし化け物は今度は突進せずに口から咆哮する。すると目に見えない、空気の弾丸のような物が鋭い殺気を放って飛んでくる。その場から跳躍して躱すが、化け物は連続して放ってくるために、やがて逃げ場所がなくなるのも時間の問題だろう。 「どうしろって――」 それは予期せぬ事態だった。 先に弾丸が当たって穴が空いていた床。そこに足を取られる。 一瞬で体勢を立て直しはしたが、その間に化け物の攻撃を躱すタイミングを逸した。 「があああああ!」 「!?」 死が、俺のすぐ傍まで来ていた。 一秒が一分にも感じる。 手が、化け物の手が俺を引き裂こうと伸びてくる。 (嫌だ……) 体が熱い。 (嫌だ……!) まだ、俺は死ぬわけには―― 「行かないんだ!!」 その瞬間、俺の中に『何か』が生まれた。体を内から熱くする『何か』 それは一瞬で俺の闘志を復活させ、そして行動を起こさせた。 「お――らぁ!!」 崩れた体勢からの抜刀術。それは全く威力を発揮しはしないはずだった。だが俺には確信があった。 この一撃が、全てを決める物だと。 鞘から解き放たれる刃。 自分でも信じられないほどのスピードで放たれた刃が、化け物の手と交錯する。しかし今度は手応えは無かった。 なんの手応えもなく、刃は化け物の腕を切断していた。 「――ぎゃああ!!!!????」 遂に両腕を斬られてその場に倒れ伏す化け物。しかし俺は化け物よりも自分の持つ刀を唖然として見ていた。 「燃えてる……」 自然と、言葉が洩れる。 俺の持っていた刀の刃が、真紅の炎に包まれていた。 それはあたかも夢の中で見た炎と同じ。 自分の敵のみを討ち滅ぼす、滅魔の炎。 太古の昔から燃えつづけている炎――。 「何を、言っているんだ? 俺は……」 ふと呟いてから、自分の言葉に不信感が芽生える。果たして今の言葉は俺の言葉だったのかさえ怪しい。それほど不思議だったのだ。 「太古の、昔?」 しかし考えに耽るにはまだ早かった。化け物が見るからに必死になって起き上がってくる。最後の力を振り絞って俺に滅びを招くというのか。 「無駄だよ」 俺は刀を正眼に構えた。両腕で力強く握ると心なしか炎の輝きが強くなったように思える。音を立てて燃えさかる炎。それに恐怖する心を無理やり押さえ込んだかのように咆哮した化け物は、頭から俺に突っ込んできた。 俗に言う特攻というやつだろう。 「倶叉火流、奥義……」 炎を纏った刃が円を描く。そして化け物が飛び込んできたところへ、一気に力を解放した。 「焔!」 交錯する俺と化け物。お互いが反対の位置に着地した時、全ては終わった。 「ぐ――おおおおおおぉおお!!!」 咆哮と共に化け物の体が幾つ物の物体に切断され、化け物は絶命した。 少しの間、ばらばらになった化け物の体を油断無く見ていたが、もう復活もしてこないと確信すると刀を思わず取り落としてしまった。緊張に体が崩れ去りそうになるのを必死に抑える。 「――やった、か」 俺はそう呟く事しかできなかった。 何かが割れる音が聞こえたような気がして、俺はふと腕時計を見た。 時計の針は動き出していた。 そしてあの化け物の姿は影も形もなくなっている。 化け物が破壊した床も何も無かったかのように元のままだ。 「まじで、どうなってるんだよ……」 結局答えが出るはずもなく、俺は夏海の所に戻った。 これが、始まりだった。この『剣』の闘いの。 |