『今、動き出す刻』(中編) 絵の一件があってから、透と猛は会うようになった。 どちらからという事は無い。別に互いの病室に行くわけでもない。 ただ、病院内で会った時にはどこかの椅子に座って話をした。 話の中で二人は徐々に互いの事を話していった。 猛は今年で十二歳。順調に行けば来年は中学生のはずだった。 しかし、小学校一年の時にかかった肺炎が以外に酷く、入退院を繰り返していると言う。 「なら、その車椅子はなんなんだ?」 透は最もな質問をする。 猛は少し表情を曇らせた。 透はまずい事を聞いてしまったのか、と内心ひやりとしたが次に返ってきたのは陽気な声だった。 「前からこいつに乗ってみたくてさ。別に意味は無いんだよ」 そう言うと猛は車椅子から立ち上がり歩き出した。その足取りはしっかりとしている。 「なんてね。ホントは病院生活に体が弱くなってきてるんだ。こうして立ってるのも結構辛いんだよ」 猛はゆっくりと車椅子に座った。その後、変わらない笑顔で言ってくる。 「でも、透もろうにん、って大変そうだね」 透は一瞬迷ったが、前に見舞いに来た先輩に言った事と同じ言葉を言った。 「俺はついてないのに慣れてるんだよ」 「そんな事に慣れたくないよね」 「まったくだ」 そう言って二人は笑いあった。透にしてみれば本当に久しぶりだった。秋菜を除いて人と心から笑えるのは。 最後に笑ったのはいつだったろうか? それさえも思い出す事が出来ない。 それどころか自分には高三の記憶が何かあいまいだった。それだけ印象が薄かったとも言える。 そして、それだけ無気力だったとも言えた。 再び車椅子に納まった猛と一緒に中庭に出ようとエレベーターへと向かった透は目の前に一人の医者を見つけた。 「秋菜さん」 透は思わず大きな声を上げるところだった。内心の動揺を押さえつつ冷静に話し掛ける。 「透君。あら、猛君も一緒だったのね」 女医、木之下秋菜は視線を少し落として猛の眼を見つめた。 猛は恥ずかしそうに視線を背けている。その様子を見た透は一つの事を思い出した。 「秋菜さん。猛の事知ってたんですか?」 「ええ。患者さんですもの。医者が患者の事を知らなかったら三流よ」 秋菜は少し誇らしそうに言う。透はすぐさま突っ込んだ。 「まだ、秋菜さんは一流じゃないだろう」 「気持ちだけは一流よ」 透は秋菜のそんなところが好きだった。 患者の容態を見るだけじゃなく、患者と同じ視点で物事を見ようとする姿勢。 そんな、人間臭いところに透も引かれた。そして思う。 (こいつも、引かれてるんだな) 透は猛の様子を見て内心笑った。 おそらく最初の頃の自分もあんな顔をしていたんだなと思った。 「病室まで送るわ」 秋菜は透の代わりに車椅子の後ろにつくと押し出した。透も横をついていく。 「透君。猛君の面倒を見てくれるのもいいけど、自分の足も治さなきゃ駄目よ」 「……」 透は答えなかった。 その顔は一瞬だけだが何か悲しげに染まった。それを秋菜は気づく事はない。 やがて透の病室の前まで来て、秋菜と猛は透の前から去った。 何故か悲しい気分になる。 病室のベッドに寝転がり、顔を枕に埋めた。 そして気づく。 「中庭に行くはずだったのにな……」 透は違和感を覚えた。結局自分達は秋菜にのせられて病室に逆戻りさせられたのだ。 日常会話をしているうちにいつのまにか目的を擦り返られていたのだ。 「どうしてだ?」 透は秋菜がそうする意味を知りたかったが、自分も疲れがたまっていたのだろう。 考えている間に眠気が襲ってきて眠りに陥っていった。 窓から差し込んでくる日光。 体から離れて空中を舞う汗が光に照らされてきらきらと輝いている。 あの、夏の日のギムナジウム。 そこで、俺は――。 俺はすぐ傍に気配があることに気づいて目を開けた。 ベッドの横に腰掛けているのは秋菜だった。 見舞いのりんごを丁寧に剥いている。 「あら、起こしちゃったかしら?」 「いや……別に」 透はすぐ傍にある秋菜の姿にどぎまぎした。頬が熱くなるのが分かる。 「透君」 照れのために秋菜の顔を見ていなかった透は明菜の言葉に含まれるものを感じ取った。 はっとして明菜の顔を見る。 そこにはいつもの彼女の顔があるだけだ。しかし透には分かっていた。 いつもそこにある顔の下に、悲しみが隠れている事に。 「足が治っても、猛君と仲良くしてあげてね」 「……分かった」 理由は、聞けなかった。 ただ単に友達がいないせいかもしれない。 親が、いないのかもしれない。 どんな理由があるにせよ、猛はかげりを見せる事なく俺に接してくる。 なら俺も普通に猛と付きあっていくべきだろう。 「猛は……大事な友達だから」 「ありがとう」 透の言葉に明菜は寂しそうに礼を言った。 綺麗に剥かれたりんごを残して明菜は病室から出て行った。 透はその時の明菜の眼が印象に残った。 何か、泣いているように見えた。 秋菜と話した日から数日後。 「絵のモデル?」 透は猛が言ってきた言葉に戸惑った。 「そう。絵のモデル。僕、今まで風景しか描いたことないから、初めての被写体になってよ」 透は何か気恥ずかしくなった。 自分の絵を描いてもらう。それだけの事が何故かとても。 「お、俺なんかの絵描いたって……」 「楽しいかは僕が決めるの! お願い」 猛は真摯な瞳で見つめてくる。どうやら本気のようだ。透は観念した。 「分かった。俺でよければ」 「やったぁ!!」 猛は手を叩いて喜んだ。何がそんなに、と思いつつ少しうきうきしている自分に戸惑っている透だった。 さっそく、猛はベッドに座った透を描き始めた。 デッサン帳を持ち、鉛筆を持って真剣な瞳を透に向けた後に鉛筆を走らせる。 シュッシュッ、という音が止まっては鳴り、鳴っては止まる。 それから三十分ほどした時だった。 「透はどうして、バスケット止めちゃったの?」 「えっ!」 透はあまりの驚きに腰を浮かそうとした。それを猛は動かないで、と注意する。 「どうして、知ってるんだ?」 透は落ち着きを取り戻して問いかけた。しかし答えは分かりきってる。 「秋菜さんがから聞いた。だって透、テレビで見たスポーツマンって体してるもん。秋菜さんに聞いてみたんだ。 そしたら、バスケをやってたって」 俺は再びあの日のことを思い出していた。 甦る、記憶。 頭の奥が疼く。 でも、何故か不快じゃなかった。それを聞いた猛のことも、別に不快にはならなかった。 (俺は、聞いて欲しいのかもしれない) 「聞きたいか?」 透がそう言うと猛は嬉しそうに頷いた。 「なら、話してやるよ」 そして、透は話し始めた。 窓から差し込んでくる日光。 体から離れて空中を舞う汗が光に照らされてきらきらと輝いている。 あの、夏の日のギムナジウム。 そこで、俺は――夢を失った。 「俺が高二の時の県大会決勝戦。俺達のチームは残り三十秒で相手高に勝ってた。あのまま行けば全国大会だった」 猛は手を動かしつつ透の話を熱心に聞いている。 「残り時間が僅かになった時、チャンスボールが俺に渡った。駄目押しの点数を入れようと思ったんだ。 そこで、俺は、事故に遭った」 「事故?」 透は少しの間、眼を閉じていた。あの時の時間が通るの中で再び甦る。 「俺を止めようとした相手と衝突したのさ。そして、俺とそいつは重なって落下した。俺を下敷きにな」 猛が絶えず動かしつづける鉛筆の音が病室内に響いた。 それほど、沈黙が二人の空間を支配している。 「結局、最後の最後に俺達は勝利の女神に見放された。俺は退場し、相手は調子づいて逆転を許してしまったんだ」 なおも猛は描いている。透はふと、何故こんな事を話しているのかと思った。 聞いてもらいたいと思っているのかもしれない。 しかし、何故猛なのか? 子供だから、俺の言う事に何も反論せずに聞いてくれると思ったから? 何か違う気がする。 そんな思いを胸に抱きながら透は先を続ける。 「医者は半年は安静にしておけって言ってた。そして怪我が治った時、俺は……」 透はその後を続ける事ができなくなった。 しばらく流れる静寂。 やがて、静寂の中シュッシュ、と鉛筆がキャンバスを走る音が消えた。 「透は、怖いんだよね」 透は何も言えずに、ただ目の前にいる少年を見た。 何故か、そこにいる少年は自分がさっきまで話していた少年とは違ったように見えた。 「また怪我をしちゃうのが。でも、もっと怖いのは、みんなに迷惑かけちゃうことなんじゃない?」 透は、猛が自分が心の奥底に思っていた事をずばりと当てた事に驚いた。 「僕は夢があるんだ。絵描きさんになって、いろんな絵を描くって夢。 透にもあったんじゃない? でも、それを自分から捨ててるように見える……」 猛の言葉に透は一瞬、自制を忘れた。 「お前に何が分かる! バスケができなくなった時の気持ちも、みんなの気持ちを裏切った時の気持ちも分かるってのか!!」 叫びの残響が病室に木魂した。何事かと廊下を歩いていた入院患者が何人か中を覗いてくる。 「……分かる、と思うよ」 静かに、消え入りそうな声で猛は言った。透はその声に不安を感じて猛を凝視した。 「透は逃げてるだけだもん。僕はもう、それもないんだよ」 透は気づいた。 猛の息が震えている事に。 息だけではなく、体が震えている事に。 「寒いのか?」 間の抜けた質問だと思ったが言わずにはいられなかった。 透の声にはある種の祈りが込められているようだった。 自分が感じた予感が外れてくれるように願う、言葉。 しかしそれは最も残酷な形であらわれた。 「つ、かれちゃ――」 猛が、車椅子から落ちる。 透は思わずベッドから飛び出し、折れている片足によってバランスを崩して猛の傍に体を打ちつけた。 「猛! 猛!!」 這いつくばった体勢のまま、猛に近寄って透は狂ったように少年の名を呼んだ。 猛は苦しそうな息を吐くだけで透の声には反応しなかった。 幸福な夢の時間が、終わろうとしていた。 |