『今、動き出す刻』(前編)



 真夏の太陽が地面を焼きつかせていた。
 直射日光が当たっているために陽炎が立つアスファルトはきらきらと光っている。
 その道が続く先には一つの建物が建っていた。
 ほぼ真四角な形をしているほとんど飾り気の無い建物。
 高さからして二階建てである。
 二階部分に備え付けられている窓からは中からの歓声が漏れ出していた。
 ここ、市立の総合体育館では今、熱戦が繰り広げられている。
 市内の高校のバスケットボール大会である。


「さあ! ディフェンス!!」
 気合の入った声が観客の声援と混じって体育館中に木魂した。
 観客全ての視線が集まる中央のコートでは二チーム十名の猛者達が最後の正念場を迎えている。
 三十秒前、T高の二点リード。このまま守りきれば自分達の勝利だ。
 エースである高峰透は自分達のチームの勝利を確信していた。
 自分達の高校始まって以来の快挙である全国大会出場。
 いろいろな人の想いが今、このコートの中にある。
「高峰!」
 残り時間僅か。相手チームから奪ったボールが回ってくる。
「とどめだ!!」
 透はほぼ勝利を手中にした喜びから何かを失念していた。
 そして……


「……」
 透は暖かな日差しを体に受けている事を感じるとゆっくりと眼を開けた。
 自分がどこにいて、何をしていたかが分からなくなる。
 間を置いて深呼吸してみる。
 そうだ、思い出した。
「またあの夢、か」
 透は自分のうたた寝に使用していたベンチの横にある松葉杖を掴むと微妙な体重移動をしながら体を起こした。
 自分が寝た時には頭のてっぺんにあったはずの日差しは既に自分の正面から惜しげも無く顔を照らしてくる。
 思えばこんなゆったりする時間を過ごすのも久しぶりだった。
 自分が過ごしてきた時の流れは常に速かった気がする。
「あら、ここにいたのね」
 声のしたほうに眼をやると白衣に身を包んだ女医、木之下秋菜がいた。女医といっても自分と歳が一つしか違わない。
「ああ、あんまり気持ちいいんで」
「もう、風邪ひいても知らないわよ」
「その時はよろしく」
「何がですか」
 そうして二人は笑いあう。実際会ったのはこの病院に入ったときが初めてだというのに二人は旧知の仲のようにすぐ親しくなった。
「でも、だいぶ良い様ね。その足は」
「痛みはほとんど無いよ。でも馬鹿だよな、子供守ろうとして自分が骨折するなんて」
「名誉の負傷、よ」
 その後、透と秋菜は何かしらの会話を交わしつつ、透の部屋の前まで来ると会話を打ち切った。
「夕食はちゃんと食べなさいよ」
「一つ違いで姉さん面するなよ」
 悪意の無い言葉に秋菜は顔をほころばせる。透はその顔を見て自分の頬が熱くなるのを感じた。
「それじゃあ、ね」
 秋菜が戻っていくのを少し名残惜しそうに見ていた。しばらくして病室の自分のベッドに入り込む。
(やっぱり、好きなのかね)
 透は運命の出会いなんて信じてはいなかったが、それでも秋菜との出会いは偶然が重ならないと起きなかった。
 透が車に轢かれそうになった子供を助けた時に妙な捻り方をして足首を骨折したのも偶然。
 秋菜がちょうど、この病院に新しく赴任したのも偶然。
 そして、こうして親しくなったのも偶然なのだ。
 透は考えていると頭が火照ってくるのを感じ、ベッドから這い出ると窓に寄って外を見た。
 外は既に夕闇に侵食され始めている。
 透の病室は南側なので日は左側へと沈んでいく。
 光を失いつつある病院前の庭に透は一つの特徴的な影を見つけた。
「誰だありゃ?」
 声に出して呟く。
 庭には車椅子に座った人物が透の死角になるところでしきりに手を動かしていた。
 そこへ見覚えのある影が近づいていく。
「秋菜さん……」
 秋菜は車椅子の人物に近づき少しの間会話を交わした後に車椅子を押して一緒に病院内に入った。
 それと同時に透の病室にも夕食が届けられた。
(まあいいか。明日聞いてみよう)
 透は何故か車椅子の人物の事が気になった。何を気にしたのか分からないまま透は欲求に身を任せて食事を取った。
 それが、彼の転機になる一時だった。


「元気にしてるか?」
「武藤先輩こそ」
 次の日の正午。透の病室には一人の男がいた。
 武藤高志。透の高校時代の先輩である。
「浪人して尚且つ骨折か。お前とことんついてないな」
「ついてないのは慣れてますよ」
 その言葉を聞いた時、武藤の顔にかげりが生じた。
 武藤はそのまま沈んだ顔のまま透に問いかける。
「お前、まだあの時の事を気にしてるのか?」
 武藤の言葉に透は少しの間考える態度を取った。その後、首を横に振る。
「いえ。あの時は結局、ああいう結果にしかならなかったんでしょう」
 武藤は何も言えなかった。透の口調に含まれているものが武藤にも分かる。
 絶望、諦め、という感情が透の言葉には含まれていた。それが武藤には痛々しい。
「お前は少し息抜きが必要だよ。この骨折はいい機会かもしれない。ゆっくり休め」
 武藤はそう言って見舞いの果物を置いて部屋から出て行った。まるで逃げ出すように。
 透は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「結局、立ち直るのは無理なんですよ」
 ひとりでにそう呟いている。
 秋菜のことを考えていた時の瞳とは明らかに違うものがそこにあった。
 深い絶望と、強い諦めに縛られた透は本来の活発さを確実に失っている。
 透は武藤が帰ってからしばらくベッドに寝転がったまま見舞いの果物を食べていた。
 空は青く、外では病院に入院している患者で比較的体調がいい人達が談笑を交し合い、賑やかな時を過ごしている。
 それは今の透には辛い事だった。
 外の心地よい空気を遮断するように窓を閉めて透はベッドに入った。
「お兄ちゃん。暇そうだね」
 腹も満腹になり、うつらうつらとし始めた時、不意に子供の声が聞こえてきた。
 視線を向けると病室の入り口の所に車椅子に乗った少年がいた。
 何時からいたのかは分からないが、どうやら結構な時間、彼の存在に気づいていなかったと見える。
「なんだ? お前は」
 透は少年に近寄ろうとして体を起こした。とたんに少年から声が飛ぶ。
「動かさないで!」
 少年はそのまま車椅子の横につけてあった一つのスケッチブックを取り出した。そしてペンを走らせ始める。
「……」
 文句を言おうにも少年は完全に自分の世界に入っているようだった。
 不機嫌なのは変わらないが何かその少年を見ていると起こる気になれない。
 しかし、透は何か覚えのある感覚が体を包んでくるのを感じる。
「これはあの時の……」
 それは前日に見た車椅子の人影と同じ感覚だった。
 やがて二十分程して少年の手が動きを止めた。
「やっとできたか」
 透は体をようやく起こして少年の描いた絵を覗き込んだ。それを見て絶句する。
「これは……何だ?」
 透は自分の見ている絵が信じられなかった。少年は何を気にする事なく言う。
「何って、見た通りだよ」
 透は再び絵を見た。
 そこに書かれていたものは透にも分かっていたのだ。ただ、認めることを何か拒んでいた。
 スケッチブックに描かれたものはバナナだった。
 透のベッドに隣接している簡易机に乗っていた、武藤が置いていった見舞い品の残りだった。
「……」
 透は無言で少年を見るとその頭に拳を振り下ろした。
 ごんっという音が上がると少年はうー、と唸って頭を抱えた。
「なにするんだよぉ」
 少年は涙目になりながら透に視線を戻した。
 透はばつの悪さを感じながらも思っている事を口にした。
「お前な、俺を描いてるもんだと思ってお前の指示通りに俺は動かなかったんだ! どういうことだ!」
 少年は透が言っているがよく分からないらしく首をかしげていたが、やがて思い至ったようだった。
「ああ! 僕が言ったのはそこのバナナを動かさないでって意味だよ」
 透は思い出してみる。
 確かに少年は「動かさないで」と言った。「動かないで」ではない。
 人に大して動かさないで、とは言わないか。
 そう納得すると急に罪悪感が透を襲い、おもわず拳が出る。
 またしても少年の頭部にヒットした。
「うー、痛い〜」
「すまん、勢いだ」
 透は何とか少年にわびようと簡易机にあったバナナを渡した。
 少年は、自分は動物じゃないよ、とぼやいていたが結局貰って喜んでいるようだった。
「僕は坂上猛(たける)。お兄ちゃんは?」
「俺は……透。高峰透だ」
 透は少年に自分の名を名乗るのに何か気恥ずかしさを感じた。少年は屈託の無い笑顔で言葉を返す。
「これからも、仲良くしてね」
 そう言うと猛は車椅子を反転させて病室を出て行った。
(何か……不思議な奴だな)
 透は自分の心が暖かくなっている事に気づいた。あの時以来、感じる事が無かった『喜び』をいう感情。
 少年――猛に会った事で透は忘れかけた喜びを受け取っていた。
(ほんとに……不思議な奴だよ……)
 それが、高峰透と坂上猛の出会いだった。

(続く)




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