『今、動き出す刻』(後編)



――――――舞い散る桜の花びら。あちらこちらに残る、冬の残思。
      青い空、白い雲、波の音。
      綺麗な紅葉。綺麗な、夕日。
      灰色の空、真っ白い雪、白く染まる世界。
      僕は、もっと見ていたいんだ――――――


「説明してくれないか?」
 透は自分の病室のベッドに腰掛けていた。
 足がまだ、少し痛む。床に倒れた時にぶつけた所がまだ痛い。
 でも、透の心の中はその痛みに囚われるほど悠長な雰囲気ではなかった。
 目の前には一人。
 木之下秋菜が座っていた。その瞳はいつになく影を帯びている。
 猛が突然倒れて手術室に運ばれてから、透は秋菜に付き添われて自分の病室に戻っていた。
「守秘義務ってやつか。普通は言えないんだろうな」
 秋菜は透と目を合わせようとしない。後ろめたい事があるわけではなかった。
 ただ、怖かったのだ。
 これから、先に起こる事が。
「でも秋菜さんは俺に言った。
『猛となかよくしてあげて』って。このままじゃ、俺は約束を守れなくなるかもしれない」
 その言葉に秋菜は顔を上げた。先ほどまでとは逆にしっかりと透の瞳を見返してくる。
「話して……ほしい、よ」
 透は、自分の言葉に一瞬躊躇った。
 本当に自分は知りたいのか?
 今それを知ってしまっては、取り返しがつかないのではないのか?
 今ならまだ間に合う。
 やっぱりいい、と言ってしまえ。
 心の中の何かが透に言葉を投げかけた。
 透はしかし、聞く事を選んだ。
「……あの子はね、もう、助からないのよ」
 透は秋菜が切り出した言葉を、やけに冷めた思いで聞いていた。
 心のどこかで、そうだろうと予測していたのかもしれない。
 理由はどうあれ、取り乱しもせずに透はじっと話を聞いた。
「最初に肺炎になって入院した後、あの子には先天的に備わっている病気があることが分かったの。
 先天性免疫不全症候群。エイズとは逆に最初から免疫機能が働きにくい。病院側も、その事には気づいたらしいわ」
 透は何も聞き返さない。黙って、岩にでもなったかのようにじっとしている。
「猛君は、肺炎と併用して悪性の病気にかかっていたのよ。肺炎を抑える薬に逆に強い病原菌が。それに気づくのが遅れて猛君の体は徐々に犯されていき、医師達にはどうする事もできない病気だと後で知った」
 秋菜の声は震えていた。怒りと悲しみが同居する不安定な瞳。
 誰に対しての怒り、誰に対しての悲しみなのか……。
「十二歳までは生きられない。医師達はそう判断した。そして猛君の両親を呼んでその事を告げた。その時に、両親はどうしたと思う?」
 遂に秋菜は瞳に涙を浮かべた。必死に爆発しそうな感情を押さえているのが痛いほど透には分かる。
「その場で夫婦喧嘩を始めたんたって。自分の息子が確実に死ぬって宣告されてるのに、その事にはお構いなしで責任の擦り付け合いをしだしたのよ。猛君に必要なのはそんな事じゃないのに」
 床に、秋菜の涙が落ちた。透は動けない。今できる事は話を聞くことだけだと分かっていた。
「結局、両親はそのまま帰っていった。そして病院に入院費だけ一喝で払って、それ以来一度も病院には来てない。猛君は、捨てられたのよ。一番怖いのは本人のはずなのに……」
「ちょっと待ってくれ!」
 透は話を聞き始めて初めて口を開いた。
「猛は自分が死ぬってこと、知ってるのか?」
 秋菜は無言で頷いた。肩を震わせながら。
「あいつ、絵描きになりたいって、言ってたんだ。じゃあ、それもなれるはずが無いって分かってて言ったのか」
「……そういうことになるわね」
 秋菜は少し、ショックから立ち直ったようで透の独り言に答えた。
「どうして、あいつはなることもできない夢を言えるんだ? 惨めになるだけじゃないか……。どうしてあいつは……」
 今度は逆に透が頭を抱えてふさぎこんだ。心に何かが引っかかっている。
 あいまいな思いが心の内にしこりとして残る。
「なら、直接本人から聞くしかないわね」
 秋菜は椅子から立ち上がりつつ、透に言った。
「猛君に必要なのは、あなたなのよ透君。最後まで、あの子の友達でいてあげて。そうすれば……あなたの知りたがってる事も分かると思う……」
 秋菜は静かにドアを閉め、出て行った。
 透は何も考える事ができなかった。考えたくも無かった。
 今聞いたことが全て夢ならいいと、むなしく思っていた。


 猛の緊急手術は終わり、数時間後には普通の病室に移された。
 結局その日は猛の意識は戻らず、透は眠れなかった。
(どうして……あいつは……)
 透は死を目前にして平然としているように見える猛が信じられなかった。
 叶える事ができると言わんばかりに話してくる夢。
 しかしそれは永遠に叶う事はない。
 それでも、猛は透へ語ってくるのだ。
(どうしてだ……)
 そして、その日の夜は更けた。


「びっくりしたでしょ? 昨日は」
 透は猛を前にして何も言えなかった。
 手術の次の日に意識を取り戻した猛の元に透はすぐ向かった。
 言いたい事が有るはずなのに。言わなきゃいけないことが、尋ねなければいけない事があるはずなのに透は何も言えない。
 自分の命に関わる事を日常茶飯事のような気楽さをみせて言ってくる猛を目の前にすると。
「体は……大丈夫か?」
 無意味な質問だ。透はそう思う。
 大丈夫なわけは無いのだ。もう、助からないのだから。
「うん。一晩寝たら大丈夫だよ。心配させてごめんね」
(どうしてそんなに笑顔なんだ?)
 心の声が、透自身を傷つける。
「気を使うなよ。俺とお前は友達だろう」
(陳腐な言葉だ)
「再開しなきゃ!」
 そうして、猛はスケッチブックを取り出した。
「寝てなくちゃ駄目だろう!!」
 透は思わず大きな声を出した。猛は透の表情を見てああ、と小さく呟くと先程までとは違った表情を見せて言った。
「知っちゃったんだ。僕の病気の事」
「……ああ」
 透は酷い罪悪感が体を取り巻く事を自覚した。
 猛の表情はその年齢とは裏腹に死を受け入れた者が持つ物になっていた。
 諦めを超えた『何か』というのをその時の透は理解していなかったが。
「聞いたと思うけど、僕はもうすぐ死んじゃうんだ」
 その言葉は普段と変わらない。その事が透を苛立たせた。
「どうしてそんなに普通にいられるんだ!? お前は死ぬんだぞ!」
「……」
 猛はしばらく黙っていた。それは透に怒鳴られた事で竦んだからではなく、何かを言おうとして言葉を模索しているようだった。
 やがて、猛の口が開く。
「死ぬのは怖いよ」
 透はその言葉を言った時の猛をこれから先忘れる事は無かった。
 平然と言葉を出してきた猛が一瞬見せた歳相応の恐怖がそこにあった。
「僕の病気は治らない。だから、僕は死ぬんだ。怖いわけなんか無い。でも、もっと怖い事があるんだ」
「もっと……怖い事?」
「うん。それはね、『みんなに忘れられる事』だよ」
 透はその瞬間、猛の言いたい事を理解した。
「人が死ぬ時って、病気や何かで死ぬ時じゃない。人に忘れられた時に、ホントに死んじゃうんだって呼んだ本に書いてあったよ。僕は両親に捨てられた。それが一番悲しかったんだ。だから、もうそんな思いはしたくない。だから、僕は絵を描き始めた。あまり得意じゃなかったけど一生懸命頑張ってやっと風景画を描けるようになった。看護婦さんも誉めてくれたよ。そして………秋菜さんも。一番よかったのは僕がこれを描いたって事がこうやって残る事なんだ。だって、これが残れば、僕がいたことを誰も忘れないから……」
 透は猛をいつのまにか抱きしめていた。猛はいつのまにか泣いていた。
 お互い無意識の内に行動を起こして動揺したが、すぐに状況に身をゆだねた。
「覚えてる」
 小さいが、はっきりと聞こえた声に猛は顔を動かした。
「俺は、覚えてるぞ。猛のこと。俺が死ぬまで、絶対に」
「……ありがとう」
 静かな会話。
 誰の耳にも届かず、ただ、二人の間だけで交わされた会話。
 それは、本当の友人をお互いが得た瞬間だった。


 透にとって幸せな時間は終わりを告げたはずだった。
 夢に挫折して逃げ込んだ道。
 そこで新たに直面した絶望。
 透はもう二度と心から笑う事はできないと思っていた。
 しかし、透の心を覆った氷は完全に氷解した。
 猛がどうして笑えるのか。その理由が分かったから。
 目の前でキャンバスに鉛筆を走らせている猛を見て思う。
(死ぬと分かって、それを拒絶しないで受け入れる。誰でもできる芸当じゃない)
 透はその一挙一動をじっと見つめている。
(どうせ死ぬなら、やりたい事を、自分に正直にやろうとする気持ち)
 涙が出そうになるのを顔に出さないように堪える。
(自分に正直だから、こんな笑顔ができるんだ……)
 透は『何か』を得たような気がした。言い表す事ができない『何か』
 でも、とても大切な『何か』
 そして、呟く。
「もう一度、バスケやってみようかな」
 猛の手が止まり、透を一直線に見つめてきた。その表情が、ぱぁっ、と明るくなる。
「ホントに! 透……」
「ああ、逃げたままじゃ、後味悪いだろ」
 透は以前猛に言われた事を思い出した。
 今なら納得できる。
 結局、透が一番許せなかったのは自分の弱い心だったのだ。
 でも今は、弱い心と向かい合う決心がついた。  それも……。
「お前のおかげだよ。猛」
 透と猛は笑いあった。できれば、このままこれからも笑いあっていたい。
 その思いは届きはしなかった。
 猛が逝ったのはそれから三日後だった。


 時間は流れた。
「退院おめでとう」
 秋菜は病院の入り口の前で透と会っていた。
 透の足は完全に治り、無事、退院する事となったのだ。
「秋菜さん。まだ、猛のことを気にしているんですか?」
「……」
 秋菜は答えない。ただ、その沈黙が事実を物語っている。
 透は脇に抱えたスケッチブックを秋菜へと渡した。
「これ……」
「あいつのスケッチブック。見てみてよ」
 秋菜は透の言うままにぱらぱらとスケッチブックをめくっていく。そして気づいた。
「あいつは、秋菜さんを好きだったんだよ」
 スケッチブックにはいくつかの風景画。透の絵。そしてそれよりも多く描かれていたのは秋菜の絵だった。
「猛君……」
 秋菜の目に涙が溜まる。透は続けて言った。
「いつまでも悲しそうな顔してるとあいつも嫌だと思う。俺達があいつにできるのはあいつを忘れない事だけだよ」
「……そうね」
 秋菜は泣き出しそうになるのを強引に堪えて笑顔を作った。
 透も笑った。
 猛が死んだ日から透は心から笑う事を忘れなかった。
 それこそ、猛の望んだ事だから。
「じゃあ、俺は行くよ」
「うん。お大事にね、透君」
 透は秋菜に背を向けて歩き出した。その顔には少しの翳りがある。
「結局、告白できなかったか。まあいいか」
 その呟きは小さく、風に流されて消えていった。
 透はしばらく歩いて一度、病院を振り返ってから再び歩き出した。
 今度は振り向かなかった。
 後ろ向きな自分は消え、停滞していた自分の時間が動き出すのを感じていた……。


 『今、動き出す刻』終



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