《綺麗だよね、この桜》 目を細めて散っていく桜の花びらを見ながら、瀬田美奈穂は呟いていた。 《散っていく桜って、少し悲しいけどな》 渡島渚は彼女のすぐ横に行って彼女の視線で物を見ようとした。 しかし彼女はどう見て、この桜の木の絵を描いているのか全く分からない。 彼女は、彼女特有の感性でこの絵を描いているのだろう。 《桜は散るけど……》 見るとカンバスには見事な桜の木の絵が描かれていた。 《綺麗な、絵だな……》 渚は美奈穂の言葉に気づかずに途中で言葉を挟んでしまう。しかし美奈穂は嫌な顔一つせず、自分の絵を誉められた事で喜びを顔に出した。 《ありがとう》 ほんのりと頬を染めて呟く美奈穂。渚も思わずどきりとして顔を赤く染めた。 《渚君》 その声は真剣だった。渚はぼんやりとしていた意識を戻して美奈穂の顔を見る。 《―――――》 その瞬間、美奈穂の顔が歪んだ。周りも現実味を失い、うねりが渚に襲いくる。 そして渚の意識は闇の中に消えていった。 『桜塚』(後編) 目が覚めると、少し寒かった。 上体を起こして部屋を見回すと、窓が微かに開いている。 渚は横でいびきをかいている稲川優を起こさないように立ち上がって窓を閉めた。 最初は日帰りで帰る予定だったが、タイムカプセルを掘り起こすという約束のために渚はこの村に残る事にした。流石に宿は探していなかったので困っていたところ、優が泊まる許可を出してくれたのだ。 渚は窓の傍に立ちながら優の顔をぼーっと眺めていた。昨夜聞いた言葉が頭から離れなかったからだ。 《一番美奈穂の死が辛いのは、多分篤なんだよ》 その言葉から、昨夜の会話は始まったのだ。 「どういう事だよ?」 「あの二人、俺達には隠していたみたいだけど付き合ってたみたいなんだ」 優は窓を開けて換気を良くしてからまた座る。渚の前には優が入れたコーヒーがある。 一呼吸置くために渚はコーヒーを飲んだ。 やけに苦く感じる。 「いろいろと、変わっちまったんだよな」 優は呟いて肩を落とした。自分が一呼吸置くために飲んだコーヒーだったが、どうやら優にも余裕を与えたらしい。 渚は言いかけた言葉を飲み込んで優の話に耳を傾けた。 「藤次はもう、歌手を目指していない。篤も南も、スポーツを止めたし、森脇は小説家を目指してる」 「あの美汐が? 数学得意のばりばり理系だった奴が?」 「高校で数学は嫌になったんだと。それで本ばっか読んでたら、文学に興味出たそうだ」 「……」 その後は取りとめも無い話だった。 今の状況だとか、将来は何になりたいだとか。 優もどうやら東京の大学を狙っているらしくかなり勉強しているようだった。 渚は会話に合わせながら、ふと思った。 (もう、あの頃には戻れない) 無邪気だったあの頃。 まだ大人になる痛みを知る前の、あの頃。 夢を見、その夢が叶うとまだ信じることが出来た、あの頃。 月日は流れてしまった。 それによって得るものも多かったけれど、無くしてしまった物も多かった。 いつからだろうか? この天井が、自分に近づいたのは。 いつからだろうか? 思い出の中の声が、遠くに聞こえるようになったのは……。 優達の授業も終わる時間になって、渚は中学校に向かっていた。これからタイムカプセルを掘り出すのだ。その途中で美奈穂の家の前を通りすぎる。 ふと思い立って、玄関のチャイムを鳴らした。 「いらっしゃい。来てくれてありがとう……」 美奈穂の母親の後ろについていって美奈穂の仏壇の前に座る。 心の中でタイムカプセルを掘り起こすことを報告し、立ち上がった。 「渚……」 後ろからかけられた声にはあまり驚かなかった。 ある程度、この場所に来る事は予想していたから。 「お前が終わるまで待ってるから、一緒に行こうぜ、篤」 「……ああ」 神楽篤は頭を下げると美奈穂の前に座って手を合わせた。 しばらくそのままでいて、立ち上がる。 「もういいのか?」 「ああ。皆が待ってる」 二人は黙って美奈穂の家を後にした。 歩いていると散っていく桜の花びらが二人の前に落ちる。何軒かに一軒は庭に桜の木が植えられていて、風に流れて飛んでいく。道は三分の一ほど花びらで埋められていた。 「お前等、付き合ってたんだって?」 「……ああ」 渚の問いにすんなりと篤は答えた。渚も最初は聞くのを躊躇したが、もう言わずにはいられなかった。 「どうして、そこまで辛そうな顔をするんだよ」 「……辛いさ。あいつが死んだのは、俺のせいなんだから」 「お前の、せい?」 篤は足を止めた。つられて渚も少し前で足を止め、篤を振り返った。 涙を目に浮かべて、雫は頬を伝っている。篤はなんの体裁も無く、悲しさに涙していた。 「俺があの日に、誘わなければ………美奈穂は死ななかった! あいつは、俺の所に走ってきて、その途中で……」 「……」 渚は答えない。ただ、黙って篤を見ていた。 「友達五人で……一緒に過ごすのが一番良かった。俺があいつを――」 「美奈穂を好きになったことが間違いだった、とでも言うつもりか?」 篤は言葉を止めた。渚の言葉に含まれているのは純粋な怒り。渚は篤の目の前に歩いてきて、胸倉を掴んだ。 「子供の時のままで、何も変わらなければそれでいいとでも言うつもりかよ。お前がそう思っていたらなぁ、おそらく最後までお前の事が好きなまま死んでいった美奈穂が浮かばれないだろうが!」 渚は篤を突き飛ばす。そのまま篤は桜の花びらの中に落ちた。 「かりに、お前の言う通りだとしたら、お前は何が出来るんだよ?」 渚の言葉に、篤は顔を下に向けた。拳を震わせている事からもどうにもできないもどかしさがあらわれている。 「お前が美奈穂と付き合っていないからって美奈穂が死なないなんて保証はない! 誰か一人の行動で全部が変わっちまうほど、世の中簡単じゃないだろ!?」 渚は篤に背を向けて歩き出した。その歩みは速く、もう篤を振り返る気配は無い。 遠ざかっていく背中を篤はただ呆然として見ていた。 ふいに、その背中が止まる。 「死ななかった奴に出来るのは、そいつを忘れない事。それだけだ」 振り返らずとも聞こえるように、渚は大きな声で叫んだ。そして歩き出す。 今度はゆっくりと、何かを期待するかのように、ゆっくりと歩いて行く。 篤は自然と、微かだが笑いが顔に出てくる事を意識した。 まだ吹っ切れるわけじゃない。でも、この男の言葉のおかげで、張り詰めていた物が緩む。 昔からこうやって渚には助けられていた。 この不器用で、でもまっすぐに自分の意志を貫く所が昔から好きだったのだ。 篤は立ち上がると駆け出して渚の隣へ向かった。 少しずつでも、先に進むために。 その先の何かを見つけるために。 タイムカプセルを掘り起こした頃にはもう夕日がなくなろうとしていた。 学校帰りのまま来ていたために制服は泥だらけになっている。 「じゃあ、開けるぜ」 宍戸藤次が蓋をゆっくりと開けた。そこに入っていたのは少し汚れてはいたが、確かに三年前の物。 「なつかしいな……」 篤が取り出したのは小さなメダル。 初めて陸上競技大会で獲得したメダルだ。 渡瀬南は自分の汗が染み込んだ、愛用のリストバンド。 「うわぁ……恥ずかしい……」 顔を真っ赤に染めている森脇美汐が胸に抱えているのはどうやら日記らしい。藤次は珍しい、カセットで音楽を流しながら歌えるマイクだ。優の物は一時期はやったシール。 いまやオークションにでもかければ高く売れるような物。 「これだよこれ!」 渚は自分が入れた物を見て大きな声を上げた。それは人形だ。 その当時にテレビで放映していたヒーロー物、そのフィギュア。 「美奈穂のは……」 渚は一番下にあった物を取り出した。白かったであろう包装紙にくるまれた長方形の物体。 丁寧に表面をはがして全てを取り去った時、その場の皆が溜息をついた。 「これは……」 「スケッチブック?」 渚はゆっくりと表紙をめくった。そこに描かれていたのは走っている篤の姿。 「中体連の、大会か……」 篤の言葉を聞きながら渚は次をめくる。次に描かれているのは南のテニスをしている姿。 次々とめくるたびに他の皆の姿が描かれていた。 「凄く、うまいね」 美汐が目に涙を浮かべながら言った。その絵は鉛筆で軽く描いただけの物だったが、なぜか水彩画に負けない美しさがあった。絵の中の彼等は、満面の笑顔で前を見ている。 「美奈穂は本当に俺達といることが好きだったんだな」 渚も涙が出そうで上を向いた。空はもう日の光も少なく、暗くなろうとしている。 「一緒に、これを掘り出したかったね」 「そうだな」 南と藤次が呟き、篤は嗚咽を堪えつつも涙を流している。優と美汐は黙って渚を見ていた。 渚は自分の描かれているページをめくった。そして目を見開く。 「……」 最後のページ。 そこに描かれていたのは桜の木だった。 舞い散る桜。 渚の夢の中で美奈穂が描いていた桜だ。そしてそれは自分達の眼の前に立っている木である。 桜の花びらももうすぐ散ってしまう、木。 渚はそこで唐突に閃く物があった。 「なあ、みんな」 渚は桜の木に歩いていきながら五人に呼びかけた。 「この桜の木の下にさ、このスケッチブックを埋めないか?」 「……そうだな。美奈穂、桜が好きだったからな」 「いい考えだね! でも、一人じゃ可哀想だから……」 篤と美汐が賛同し、何か一緒に埋める物を考えた時、優がそうだ! と言って進言した。 「俺達の制服のボタン、てのはどうだ?」 「おお! いい考えじゃん」 「賛成〜!」 藤次と南はそう言って自分の制服のボタンに手をかけた。制服の第二ボタンだ。 「いいな。心臓に一番近い位置、ってやつか」 「そうそう」 藤次は渚に得意げに返した。他の四人も自分の第二ボタンを外して、篤はタイムカプセルを掘り出すのに使ったシャベルで桜の木の下に穴を掘った。 少しして出来た穴に包装し直したスケッチブックとボタンを入れて土をかける。 徐々に埋まっていく美奈穂の思い出に、篤は涙を流した。 「忘れないよ。美奈穂……」 シャベルが最後の土をかけ終えた時、最後まで残っていた桜の花びらが舞った。 その場にいる全員が、舞い散る桜を見上げる。 誰もが金縛りにあったかのようにその場から離れず、ただ、見上げる。 《桜は散るけど……》 渚の頭の中に、不意に美奈穂の声が聞こえた。この頃夢見ていた、あの頃の夢。 その会話の声。 《綺麗だよね、この桜》 目を細めて散っていく桜の花びらを見ながら、瀬田美奈穂は呟いていた。 《散っていく桜って、少し悲しいけどな》 渡島渚は彼女のすぐ横に行って彼女の視線で物を見ようとした。 しかし彼女はどう見て、この桜の木の絵を描いているのか全く分からない。 彼女は、彼女特有の感性でこの絵を描いているのだろう。 《桜は散るけど……》 見るとカンバスには見事な桜の木の絵が描かれていた。 《綺麗な、絵だな……》 渚は美奈穂の言葉に気づかずに途中で言葉を挟んでしまう。しかし美奈穂は嫌な顔一つせず、自分の絵を誉められた事で喜びを顔に出した。 《ありがとう》 ほんのりと頬を染めて呟く美奈穂。渚も思わずどきりとして顔を赤く染めた。 《渚君》 その声は真剣だった。渚はぼんやりとしていた意識を戻して美奈穂の顔を見る。 《桜の花びらは散ってしまうけど、幹はちゃんと残ってる。また、春に桜は咲くよ》 美奈穂は立ち上がって桜の木に近づき、手で幹に触れた。 《だから、また会えるよ。この桜が咲く限り》 《そうだな……》 美奈穂は完成した絵を持って渚に向かい合う。そしてはっきりと、言った。 《卒業おめでとう。また、ね》 「また……な」 渚は小さく呟いた。空はすでに日はなく、月明かりが辺りを照らし始めていた。 月夜に舞う桜の花びら。 その美しさに見とれながら、渚も、最後に涙を流していた。 《また、会えるよ。この桜の咲く限り》 『桜塚』完 ========================================== 紅月赤哉です。 新ペンネームに変えて初めての短編でした。 なんかこう、自分的に桜には儚げな雰囲気があるのです。 ということで作品になんとなくですが、少し弾いただけで壊れてしまうような雰囲気を出すように書いてみたのですが成功しましたかね? 自分で言ってる意味がいまいちなので成功も失敗も無いですね(汗) この作品で短編を十一作品も書いていたと気づいて自分で驚きです。 というか記念すべき十作品目を書いてる時に気づけば、もっと気合入れて書いたのに……。 では! |