彼女が死んだと聞かされた時は、はっきり言ってしまうと何も覚えていない。
 ただ呆然として、電話を握っている事を忘れてしまうほどだった。
 時間が止まってしまったかのように、何も感じず、何も見えない。
 ただ最後に彼女と会った時に交した会話が耳の奥から聞こえてきた。


《綺麗だよね。この桜》
 目を細めて散っていく桜の花びらを見ながら、彼女は呟いていた。
 俺は、なんと答えただろうか?
 確かこう答えたはずだ。
《散っていく桜って、少し悲しいけどな》
 俺の言葉を聞いて彼女は笑った。そして中断していた作業を再開する。
 半分白かったカンバスへ徐々に黒の線が引かれる。
 線はまとまり、様々に組み合わされて一つの絵になっていく。
 それは散りゆく花びらを纏った桜の木。
 風に枝がなびく様がまるで写真で取られたかのように正確に描かれていく。
 その様子を、俺はまるで魔法を見るようにじっとして見ていた。
《―――――》
 彼女は何かを言った。しかしちょうど強い風が吹いて、彼女の声はかき消される。
 風が止んだ頃には彼女の絵は完成していた。
 絵を持って立ち上がる。
《卒業おめでとう。また、ね》
 それ以来、彼女には――瀬田美奈穂とは会ってはいなかった。


 『桜塚』(前編)


 一枚の写真があった。
 そこに映っているのは男四人、女三人の計七人。
 どの顔も笑顔で、無邪気さを内に残した顔だ。
 中央にはバケツのような物。
 蓋がちゃんとしてあって、その前には急いで掘ったような穴が開いていた……。


 渡島渚は写真を見ながら溜息をついた。
 友人七人の記念を作ろうと言ってタイムカプセルを埋めようと言ったのは自分だ。
 その場面を写した写真。
 もう三年も前なのに、この写真を見るたびにその頃に戻ったかのような感覚を得る。
「どいつもこいつも、だいぶ変わってるんだろうなぁ」
 渚は溜息混じりに写真を眺めた。
 転校続きの暮らしに慣れていたとはいえ、やはり仲良くなった友達と別れるのは辛かった。
 こうしてタイムカプセルなんて作る気になったのはその寂しさを少しでも紛らわせる事もあったが、この仲間達が一番親しめたからだと渚は振り返る。
 中学三年生から一年間過ごした村。共に過ごした仲間達。
 その中の一人が死んだという連絡が入ったのが、今朝の事だった。
「美奈穂……」
 渚の視線が写真の人物の一人を捕らえた。
 六人とは少し離れた所に控えめに立っている女の子。
 瀬田美奈穂。
 渚を含めた七人の中では大人しく、いつでも他の友達に合わせていた少女だ。
 しかし誰かが喧嘩しそうになると必ず間に入って止めていたのも美奈穂だった。
 誰よりも友達を大事にしていた美奈穂。
 そんな彼女を誰もが好きだったからこそ、自分達は集まったのだと渚は思う。
「……三年、か」
 電車がゴトンッ、と大きく揺れた。よろけて窓の傍に顔を寄せたと同時に視界に入る物。
 駅のプラットホーム。
 もうすでに目的地の駅は近くにあった。


「お、渚ぁ!」
「……宍戸? 宍戸藤次か!?」
 駅のプラットホームに着いたと同時に、渚は三年ぶりの再会に心を躍らせた。
 写真とはほとんど変わらない男が今、自分の前にいる。そのことが無性に嬉しかった。
 渚よりも十センチは高い身長に細い目。
 違う所があるとしたら茶髪になった髪か。
「お前全く変わってないなあ!」
「そっちもだよ。今でも歌手になる夢、捨ててないのか?」
 中学生の頃には絶対プロになると言ってその自慢の歌唱力を見せていた藤次。しかし藤次は表情を曇らせると言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「いや……親の店を手伝って歌う暇、もう全然無くてさ。まあ、たまに友達とカラオケとか行ってるけど……」
「そ、そうか……」
 渚は内心、動揺していた。以前は自信たっぷりに自分の声を自慢していた藤次。
 自慢と言っても、嫌味に聞こえないその人柄の良さが渚には眩しく見え、好きだった。
 今はその自信は見えず、声も少ししゃがれている。
 三年という歳月。
 それは、全てを変えてしまうほどのものなのかもしれない。


 藤次の案内で渚は目的地である美奈穂の家に着いた。
 名前を書いて中に入ると親類に混じって座る学生服。
 遺体の前に並んで座っている四人を見つけて、渚は近寄った。
「皆……」
「渚?」
「渡島君……」
 最初に振り返った二人は笑い顔のような、泣き顔のような顔を向けてきた。
 素直に再会を喜びたい心と、大事な友人の亡骸の前での悲しさが同居している。
 実際に嬉しいのだろう。ただ、再会の場所が本人達にとって最悪な状態だったのだ。
「篤、南。電話、ありがとう……。葬式に誘ってくれて感謝してる」
 神楽篤は首を横に振っていや、と呟いてから話し出す。
「この中で一番お前に会いたがっていたからな、美奈穂は。やっぱり最後にはお前にいて欲しかった」
 スポーツマンらしくバランスよく筋肉が付いている、全体的にがっしりした体格が今は小さく見える。
 顔は少々痩せていた。くぼんでいる目が心労を如実に渚へ伝えてくる。
「そうだよ。美奈穂、中学三年の時の話をしてた時が一番楽しそうだったし」
 目を少し赤く染めているのは渡瀬南。こちらもスポーツをしているのか引き締まった体つきだ。普段ならば笑顔が絶えない女の子だったはずだと渚は記憶しているが、どことなく昔の元気がなくなったように思える。
「……渚、久しぶりだね」
「本当だな」
 最後の二人、森脇美汐と稲川優が呟き、そのまま美奈穂の遺体へと頭を垂れる。
 二人ともさほどイメージは変わっていなかった。
 三年前の記憶にある人物がそのまま成長したらこんな感じになる、という風貌。
 少しの会話でも、そんなに中学時代とは変わっていないと分かる。
 渚は同じように傍によって死体を見た。
 青白い顔。
 瀬田美奈穂だ。
 最も変わってしまったと思えた彼女はもともと色白で、あまり変わってはいないようにも見える。
 綺麗な装束を着せられて、胸の上で手を組まされて、静かに眠っている。
 その寝顔があまりにも安らかで……今にも起きそうに見えた。


 美奈穂の葬儀は滞りなく行われた。
 全ての行事が終わり、最後に火葬場で焼かれる。
 その後に行われるはずの骨拾いには渚は参加しなかった。
 いくら死んだとはいえ、大事な友達の骨を拾う気はしない。
 それは他の友人達も同じようで一斉に火葬場から抜け出してきた。
 そのまま歩いてやってきたのは、美奈穂を入れて七人が中学時代を過ごした校舎だった。
「この木、何も変わってないなぁ」
 木の幹に刻まれている相合傘。書かれている名前は渚と美奈穂。
 冷やかし半分で他の友人がつけたものだ。
「これのせいでしばらく学校中から睨まれたよなぁ」
「そうそう。それで渚ったら、帰る道を変えたりしてたのよね、襲撃に備えて」
 美汐がその時の様子を思い出したのか笑った。つられて皆で笑い出す。
 渚も過去の出来事を思い出していた。
 今のようにして笑いあい、つつきあう情景。
 足りないのは、その様子を少し離れた所から見て微笑んでいた美奈穂の姿。
「なあ」
 渚は聞かずにはいられなかった。
「どうして、美奈穂は死んだんだ?」
 笑い声が止まる。一斉に。
 しばらくの間は誰も口を開こうとはしなかった。渚も無理に聞き出そうとはしない。
 やっぱりいい、と言おうとした時に口を開いたのは神楽篤だった。
「自動車事故さ。信号待ちしていた美奈穂に、車が突っ込んだんだよ」
 握った拳を戦慄かせて、篤は下を向いた。
 篤に渦巻いているのは悲しさだとすぐに分かったが、何かそれだけでないような気がした。
 渚はその疑問を問いただしてみようと考え、すぐに止めた。
 今の自分に、この五人の中に入る資格は無い。
 三年という歳月は渚には長すぎる時間だった。
「もうすぐだったのになぁ……」
 美汐が残念そうに桜の木を見上げた。その言葉に呼応するかのように篤も溜息をつく。
「そうだったな。もうすぐ、約束の三年なんだよな」
「約束……? あっ!」
 渚はようやく皆がこの校舎にやってきた理由を知った。
「タイムカプセル……」
「ようやく思い出したかよ」
 優が空元気を出して渚の背中を叩く。渚は優の笑顔を見て心の中に悲しさが広がった。
「? どした?」
 渚はなんでもない、と首を振って他と同じように木を見上げる。
 優は、美奈穂の死をこの中では一番最初に認めたのだろう。まだ、皆がショックを隠しきれていないのに対して、優は一番落ち着いているように思えた。
 そんな優を見てしまったから、渚の中に急速に美奈穂が死んだという現実が入ってきた。
 いずれ受け入れなくてはいけない美奈穂の死。
 しかしそれでも、渚は受け入れたくは無かった。
「みんな」
 美汐が声をかける。その場の皆はゆっくりと、美汐へと視線を向けた。
「タイムカプセル、少し早いけど……開けようよ。折角、渚が来てくれたんだから」
 その一言。
 三年前の記憶。
 記憶の蓋が、開かれようとしていた―――――――


 続く。


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