俺達の終戦記念日
第十三話【ある始まりの話】
まだ冬の名残が残る冷たい日差しが玄関口を照らしているのを、恭平は壁に寄り掛かりながら見ていた。最近はいつも着ていた学生服が、今日に限っては何か窮屈に感じ、卒業式の一通りの行事が終わった段階で制服の前ボタン全てと、ワイシャツの一番上のボタンを外していた。外したといっても、制服のボタンに関しては第二ボタン以外が後輩に渡ってしまった。午前中の窮屈さは、クラスでそれぞれの別れを惜しみ、写真を撮るイベントを終えた昼過ぎに押し寄せた後輩達の波に持っていかれてしまったのだった。
第二ボタン以外がなくなりすっきりした制服の前を左手でさすりながら恭平は考える。
(この制服、近所の子供に上げるとか母さんが言いだしたら大変だろうな)
恭平自身も入学する数年前に、前に中学に通っていた年上のいとこから制服を譲り受けていた。だが、いざ着ようとしたところで断念せざるを得なかった。
小学校六年の時点でいとこの身長を抜いてしまい、肩幅もバドミントンをやっているからか筋肉でしっかりしていて、文化系部活に入っていたいとこの制服は全く着ることができなかった。今でも、袖を通した後にボタンを止めようとして穴まで届かなかったことを思い出す。
結局、借り物の制服は着ることはないままクローゼットの主と化している。小学校四年の頃から収まっている古株だ。
今後はそこに自分の制服も加わるのだ。
(卒業式まであっという間だったな、本当に)
恭平はそう考えてため息をついた。息は微かに白く色づいて天井へと昇って消える。校舎内とはいえ、玄関の傍は外気の影響を受けやすい。それでもコートを着ていては暑いために脱いで横に置いた鞄の上に被せておいた。制服の前を空けたのは息苦しさと暑さから逃れるためだったが、すぐに冷たくなってきた体を覆うために、コートを取り上げて着る。すぐに暖かくなったが前は開けておいた。熱さと冷たさの境界線に立ちながら、あっという間に過ぎ去った日々を振り返る。暑かった夏の日がまるで昨日のことのように思えた。
引退式が行われた七月からあっという間に八ヶ月が過ぎ、恭平は今日、浅葉中学を卒業した。
バドミントンから離れて受験勉強が本格化すると、日々、頭に入れなければならない知識がたくさんあり、他のことを考える余裕がなくなった。その集中力を駆使した結果、元々問題なかった学力は更に伸びて、最終的な学力テストでは自己新記録の学年三位まで上がった。部活で培った集中力が役立ったというところだろう。日ごろの勉強の余裕は当日までも作用して、そんなに焦燥にかられることなく本番も終えていた。
高校入試の結果は卒業式の一週間後に発表されることになっているため、まだ周りのほとんどは落ち着かない様子だったが恭平自身は落ち着いたものだ。入試の後の自己採点では合格点を軽々と越えていたため、特に心配はしていなかった。
ぼんやりと今までのことを振り返って、春休みはどう過ごそうかと考えようとした恭平は、廊下を駆けてくる足音に気づき、その方向へと目を向けた。
やってきたのは菊池だった。足音の通りに早足できたためか、息が多少切れていた。俯いたままで数回深呼吸をした後にようやく恭平へと視線を向けて言った。
「お待たせ! って……凄いね、制服」
「ん。ああ。第二ボタンだけは死守したよ」
そう言って恭平は残っていた第二ボタンを外すと、菊池へと差し出す。恭平の顔と手の中のボタンとを交互に見たままで取ろうとしない菊池に恭平は首を傾げる。
「どした?」
「それはこっちの台詞。こういうのって頼まれてから渡すものだよ。雰囲気ぶちこわし。馬鹿。駄目人間」
「あ、ごめん……ってそこまで言うことないだろ。傷つくぞ?」
頭をかきながら謝罪と文句を言う恭平に、菊池はすぐに破顔して手の中のボタンを手に取った。すぐにそれを胸ポケットの中に入れる。第二ボタンは心臓に一番近いところにある。互いの心臓が近くにあると想像して、恭平は少し照れくさくなり視線を逸らそうとした。だが、胸に付いているものに視線が止まる。
ポケットには卒業祝いのピンク色の造花が付けられている。恭平の制服の胸にも水色の同じ花が付けられていた。男女で色が決まっていて、三年生全員に付けられていたもの。恭平が菊池を待っている間も、今、こうして話している時も傍を花を付けてる男女がちらほらと通り過ぎていく。
卒業式の後で担任からの別れと旅立ちの言葉も終わり、三年生は学校から出るだけになる。大半の三年生は学校から出て思い思いの道を進んでいったが、中には名残惜しさや、他の理由から校舎内に残っている生徒もいた。恭平や菊池もその一人。落ち込んで歩いて行く生徒や、ぎこちなく笑いながら歩いて行く男女のカップル。いろいろとイベントを想像できた。
「他のボタンは後輩に取られたの?」
「ああ……しかもさ、全員、バド部以外の後輩だったんだよ。接点なんてないのに。バド部の女子達が悲しがってた」
「うっわ。自慢してる」
「自慢じゃないよ」
こうした会話を交わすのも久しぶりだと恭平は思った。新年を跨いだころはまだ軽く会話をしていたが、受検の日が近づいていくごとに菊池も勉強だけに集中して行って、気楽な会話を交わさなくなっていた。
久しぶりの菊池との楽しい会話も一段落ついたところで恭平は足を一歩踏み出す。そこで菊池が恭平を引き留めた。
「ねえ、体育館、寄っていい?」
「いいよ」
菊池が言い出さなければ自分が言っていた。恭平は心の内は告げずに、菊池の後ろをついて体育館へと歩を進める。
扉を開いて中に入ると、卒業式用の内装はほとんど片づけが終わっていて、いつも見ていた体育館になっている。一年と二年はこれから一時間くらい後まで三年の担当区域だった場所の掃除を行い、帰宅する。部活があるところは部活に勤しむ。
今日は、バドミントン部と卓球部の練習日だった。
「いろいろあったけど。過ぎたらあっという間だったな」
「ほんとだねー。吐きそうになるまで大変だった練習に、悔しかった試合もあるし。でも、いろいろ体験できたね」
二人は言葉を切り、自分の中にあるバドミントン部の思い出を振り返る。二人で共有している物は、実際のところは少ない。普段の練習は男女でバラバラであるし、試合も同様だ。自分の出番がない時の応援も同性の試合が主なもの。更には、試合の実績は恭平よりも菊池のほうが上だ。全道大会まで進んでいる回数は菊池と寺坂のダブルスのほうが多く、経験値の面では劣っている。その分だけ、思い出も共有できていない。
だからこそ、共有できている部分は貴重だ。菊池と寺坂が全道に挑んだ時の記憶や、共に全地区予選に行ったこと。他にも試合での思い出も少しだが、ある。
今後、それが極端に減ってしまうのだから、大事に記憶にとどめておきたいと恭平は思う。
「高校は別でも、大丈夫だよね、私達」
「ん……同じ市内だし。バドミントンしてたらあまり会えないかもしれないけど……ちゃんと会おう」
「うん」
学力の差から菊池と恭平は学校が離れてしまった。恭平は市内一の進学校を受験し、菊池は二番手の学校。まだ結果は出ていないが、どちらも採点では問題なし。もし悪い結果だとしても、二人の道は今後、離れる。
「お互いバドミントン続けてさ。試合会場で会えたらいいね」
「まずは部内で試合出られるように頑張らないと。寺坂とも離れただろ」
恭平の言葉に菊池は俯きながら答える。声はいつもの通りに思えて、心なしか寂しげに聞こえた。
「うん。トモも高校からはライバル同士になるんだ……だから、実はちょっと前に試合したんだよ、シングルス」
「へぇ……どっちが勝ったんだ?」
「トモのほう。だから高校で絶対勝つって宣言したんだ。お互い頑張っていこうって」
恭平と竹内。菊池と寺坂。ダブルスとして一緒にいた仲間が、綺麗に他の高校に分かれた。
寺坂と竹内は同じ学校に進むが、竹内はバドミントンを続けるかどうか分からないと言って、答えはまだ聞いていない。もしも止めるということになれば、引退式の直前にしたシングルスが竹内の最後のバドミントンということになる。熱い試合ができたと胸を張って言える数少ない試合だけに、竹内の動向が決まらないのは残念に思えた。
「そういえば、恭平君も竹内と試合したんでしょ? どっちが勝ったの?」
「それは秘密」
「えー! 負けたの?」
「秘密」
恭平は菊池の問いには答えず歩き出す。外に出るわけではなく、床に引かれているコートのシングルスラインに沿って。
シングルスをした時の結果は、互いに死ぬまで言わないと誓いあった。その約束も風化して、いつか漏らすかもしれないが、少なくとも中学の間は守られるはずだ。
お互いにダブルスで、強い相手に挑み続けた仲間。だからこそ、二人の対決は二人の中だけで収めたい。中学時代に最後まで勝ちきれなかった自分達のけじめだ。
バドミントンの時に履くシューズではない中学指定の上履きが、体育館の床の上を滑っていく。中一から中三まで汗を流した場所。思い出されるのは先輩達との練習や、そこで生まれた悔しさ。勝ちきれない自分への苦悩。結果を出す先輩や後輩達を見る中での嫉妬。マイナスの記憶の方が多いが、それを嫌とは思わなかった。
それだけ自分が悩み、苦しんだのは。バドミントンが本当に好きだったから。バドミントンを通して部活でも、他校にも友達ができた。これからもできるだけ続けていくバドミントンの中で、自分はどれだけ成長できるのか。どれだけ出会いがあるのか。今は楽しくて仕方がないと思える。
もう、最後の試合を終えた後の落ち込んだ自分が別人にしか思えないほどに精神の在り様は変わっていた。
「恭平君。思い出し笑いしてる?」
「え、笑ってた?」
「うん。ちょっと気持ち悪い」
菊池の言い方に傷ついたが、すぐに気を取り直して体育館の扉へと歩き出す。いきなり方向を変えた恭平に驚いて後を追う菊池に、恭平は言った。
「もうこんな時間だろ。さすがに皆、待ってるぞ」
「あ、そうか。ファミレスでお疲れさま会とか妙に結束力あるよね。うちの代」
「竹内がやりたがりなんだろうな。そこからカラオケ行ってって感じだろ」
次の日からは浅葉中へと来ることもない。今日を最後に皆がバラバラになる。その前にぱーっと盛り上がろうと竹内が企画した打ち上げ。菊池を待っている間に全員が会場のファミレスへと移動していた。
玄関から出て、皆が辿っただろう道を二人で歩いていく。まだ雪が残る道を滑らないように気をつけながら歩いていく。
「手、繋ごうか」
「うん」
手袋越しに手を繋ぎ、互いを支えあう。溶けかけた雪を践むと水が跳ね、二人の靴を濡らしていく。雪は残っていても春の日差しは柔らかく道を照らしていた。
(こうして二人で帰るのも最後か)
そう思うと手を握る力が自然と強くなる。菊池は視線をほんの少し恭平へと移したがすぐに前に戻した。自分も同じ思いというように少し力が込められる。
「恭平君」
「ん?」
「お疲れさま」
「里香も。お疲れさま」
何への労いかは互いに分かっている。
一歩一歩、中学から離れていくと自分の中から消えていくものがある。
恭平は深く息を吐いて、空を見上げた。
「本当に、終わったな」
浅葉中バドミントン部での三年間。ずっと挑み続けてきた恭平の戦いが、今日、一つの終わりを迎えた。
明日からは全く新しい戦いが始まる。それでも、中学の三年間を思い出せば折れることはないだろう。
たとえ折れたとしても必ず立ち上がれる。その自信が、今の恭平にはある。
(これからも、頑張っていこう)
友達が待つ場所へゆっくりと歩みを進めていく。
隣にいる大切な存在を感じながら。
遥かな未来へと続いていく道を、恭平達は進み続ける。