俺達の終戦記念日
第四話 ある怒りの話
「田野。ちょっと待って」
部活を終えて学校の玄関で靴を履き終えてから外に出ようとした恭平は、きつめの声に呼び止められる。声の主は誰か分かっていたが、いつも聞かないような強い響きであるために少し意外に思う。
自分が知らないだけで、部長としては部員をこうして怒ったこともあるのかもしれない、と納得するくらいの時間を要して、恭平は振り向いた。
「どうした? 寺坂」
玄関は段差があり、校内よりも低くなっている。そこに立った恭平の視線よりも更に低い身長。同学年の女子と比べても背が低く、幼く見えるところは小学生にも間違われそうだと恭平は思う。実際に中学二年くらいまではそうやって間違われたことがあったと聞いている。
寺坂知美は仁王立ちして恭平を睨んでいた。何かいつもと違うと思い、視線をじっと向けていると、髪の違いだと分かる。部活の時には首の後ろで二つに分けていた髪の毛も解いて、背中に少しかかるくらいのロングヘアにしていた。普段、接している時とは違う髪型の寺坂を見ていると、恭平は自分の抱いているイメージがいつしか変わっていることに改めて気づいた。
(でも……最近はそうでもないか)
三年にもなると年相応かそれ以上の雰囲気が出てきていた。部長としてほぼ一年、部を引っ張っていった結果、そうなったのかもしれない。そこまで考えて、自分が今、全く関係がない思考に陥っていると気づいた。
寺坂も恭平の状態に気づいていたのか、ため息混じりに言った。
「ちょっと帰り、寄り道して」
「ん……何で?」
駄目だと分かっていても口に出してみる。寺坂は腕を組んだままで言う。
「いいでしょ。里香はいないから」
その言葉でもう決定と言わんばかりに寺坂は、既に用意していた靴をわざわざ恭平の隣で履いた。拒否権がないことと菊池のことを口にしたことで、恭平には何となくではあるが話の内容に察しがつく。
「どこいく?」
「桃華堂でいいでしょ」
「ああ」
外に出てから向かったのは自転車置き場。そこから自転車に乗って目的地である桃華堂――恭平達の住む市でも有名な甘味処まで進む。その間、寺坂は一言も口にせず、また恭平も口を噤んだまま。部活の後で汗を拭いたとはいえ、火照った体に前から流れてくる風は心地よい。それが寺坂との間にある暗い空気を押し流してくれないかと恭平は思ったが、風が後ろに流れていくと同時に二人の間に暗い空気が生み出されているのだから、変わることはないだろう。
(何を言われるのかは分かるけど……どうしてほしいと言われるかが分からない)
間違いなく最近の菊池との距離間の話だろうとは予想はついている。だが、結局は菊池と恭平の間の話になる。そこに寺坂が介入しても何が変わるというのか。言われそうな言葉をシミュレーションしている間に桃華堂に付き、店内に入る。店の奥の席が空いていたため、そこに陣取って注文をすませてからウェイターを遠ざけた。
「注文したの来てからにしましょ。途中で話の腰折られたくないし」
「そうだな……って、俺は内容分かってないぞ?」
「分かってるのに誤魔化してるようにしか見えない」
ずばりと言い当てられて恭平は口ごもる。それが寺坂の作戦だったと気づいたときにはもう遅く、寺坂の意地悪い笑みが待っていた。
「やっぱり。強く言ったらボロが出るかと思ったけど。その通りだった」
「……意地悪いな」
「バドミントンやってたら意地悪くなったのよ」
そう言う寺坂の顔には笑みが広がっている。相手の弱点を容赦なく突く、あるいは作り出すバドミントンは、確かにそういう一面もあるかもしれない。恭平は寺坂の様子を見ながら考える。一年くらい前はそのあたりのずるさがまだ少なく、試合運びの幅も限られていた。いい意味でも悪い意味でも他人を観察し、他人の目を気にしていたため、結果的には部長としてもプレイヤーとしても割り切れない部分があった。
それでも、昨年末の学年別大会を経験し、三年になってインターミドルへ挑戦していく中で、ミスを誘ったり弱点を徹底的に狙うといった戦略も駆使できるようになった。その結果が、全道大会に出場という結果に繋がったのだろう。それにはたくさんのことを経験から吸収していったに違いない。
「寺坂も強くなったよな」
「まだ勝ててないのにそう言われるとちょっとカチンとくるなー」
言葉からも全く怒っていなかったが、恭平は会話の流れを止めないように言葉を選んで行く。
「素直に言ってるだけだよ。いつ負けても仕方がないくらいで考えてる」
「そっかー。でも、田野達も試合の中で強くなってるから、なかなか追いつけないよね」
「……え?」
寺坂の言葉に恭平の思考が一瞬止まる。何を言われたのか理解して、口ごもってしまう。
場を繋ぐために、なんとか「どこが?」と問いかけると寺坂は考えながら口を開き、言葉を紡ぎ出す。考えながらのために自然と言葉が冗長になるが、恭平は口をはさむことなく話を聞く。
「んー。例えば竹内だと、前衛の動きが二週間前とぜんぜん違うよ。試合時間が長くなってるのはきっと、実力が近づいてきたからだと思うんだけど、一回のラリーのシャトルが行き来するスピードは速くなってる。私、前だから特に分かるもん。田野で言えば、スマッシュやドロップのコースが良くなってすごく取りづらくなったよ。多分、私が取ろうって予測してる場所に落としてくれないからかな。最初の頃よりも考えて打ってるんじゃない?」
竹内のことはおぼろげだったが、自分については合っていた。最初は上がったらまず空いているスペースにスマッシュを打つようにしていた。セオリー通りで読まれやすいが、威力があれば寺坂も菊池もレシーブに失敗していたからだ。
しかし、試合を重ねていく内にスピードに慣れたのか、二人ともレシーブの精度が上がっていった。だからこそ恭平も相手の動きから心理まで想像して、スマッシュやドロップの軌道をその時々でどうするか考えながら打つようにしていった。
正確には、橘兄弟との試合の時にしていた思考をするようになったということだが、思い返してみれば今日の練習の方が活用できているように思えた。
(俺も、成長してる……)
実戦形式の中で、知らず知らずのうちにプレイヤーとしての技量が上がっていた。そのことに嬉しさを感じて、恭平は頬を緩ませる。視線を移すと、寺坂が恭平を見ながらまた笑っていた。頬の緩みを見られたと思い、下半分を掌で隠す。
「なんだよ」
「ううん。安心したなって思って」
「何が」
寺坂に聞き返したところで二人が頼んだものがくる。寺坂はイチゴパフェ。恭平はカフェオレ。ごゆっくりと声を残してウェイターが下がっていく。寺坂は離れていくウェイターの姿を追っていき、恭平の言葉に答えるそぶりがない。
「どした?」
「んー? 私達、どう見えてるのかなって思って。カップル?」
「そんなの気にする理由あるか?」
「あるよ」
寺坂が短く言葉を切り、場の空気が少しだけ重くなった。
(ここから本題、か)
寺坂自身、会話の糸口を探していたのだろう。自分の中にある本題を自然な流れで口にしたいという意図。それは恭平から見ればあからさまだったが、逆に言うと口にすることを躊躇していた結果でもある。恭平は居住まいを正してカフェオレを一口飲んだ。自分も聞く体勢を整えた、と寺坂に伝えるために。
「……里香のことなんだけど」
「うん。里香がどうした?」
「最近、一緒に帰ってないんだね」
「一足先に受験勉強開始しようと思って。早めに帰って勉強してるんだ」
それは半分までは本当だった。実際に、もう部活では先がなく、受験勉強を開始する時期。そこまで良い成績を残せなかった恭平には普通の受験しか選択肢はない。一、二年までは好成績をキープして、三年次はインターミドルに集中するために勉強時間を削っていた。そのために一学期のテストは今までよりもだいぶ順位を落としていた。
挽回するには十分な時間がある。バドミントンで進まないならば、できるだけ偏差値の高いところに入学するというのが理想だった。そのための勉強は、確かにしている。
それは理由の半分。
残り半分を悟られないようにして寺坂に言う。
「ほら、二年の最後の学力テストは俺、学年一桁だったろ。三年最初の中間テストの成績は授業だけだったから落ちたし。次のテストは今のままだと間に合わないし。夏休みからは塾だろうから……それまでに自分で上げておかないと――」
「ずいぶん早口で話すんだね」
寺坂が言葉を差し挟んできて、恭平は口を止める。そう言われて初めて自分が堰を切るように言葉を紡いでいるのに気づいた。心なしか心拍数も上がっている。何か後ろめたい時の状態に似ていた。
(実際に、後ろめたいのかもしれない)
言われることはもう分かっている。どんなに疲れても遅くても菊池と一緒に帰るのは日課だったのだ。お互い、デートをする暇はほとんどなくバドミントンに打ち込んでいるため、一緒にいられる数少ない時間を大事にしようと交際からすぐに決めた。二人とも、バドミントンを強くなりたいという気持ちが強かったため文句はなかった。
それを今更破って、一人で帰っているのが寺坂にとっては問題なのだろう。
「はぁ……確かに早口だったな。でも、里香と一緒に帰っていない理由は言ったとおりだよ。これまでも毎日一緒に帰ってたわけでもないし……それがどうした?」
恭平の言葉に寺坂の顔色が変わる。先ほどまでのどこか恭平を試していた表情から一転、あからさまな怒りを浮かべて。その変化に呆気に取られていると、バカにされたと思ったのか寺坂は語気を荒げて言った。
「あんた。里香が調子崩してるの分かってないの!? あれだけ毎回試合してるのに!」
「……え?」
大きな声に店内にいる何人かの客が寺坂に視線を集める。その視線から逃げるように身を縮ませても寺坂は恭平にきつい視線を向けていた。
寺坂の怒りはひとまず流して、恭平は試合の間のことを思い出してみる。接戦でいつも勝ちを拾っていることは思い出せたが、菊池のこととなると急にぼやけた。菊池の打ったシャトルの軌道は思い出せても、相手の調子など判断するほどに菊池のことを見ていなかった。
「すまん。ぜんぜん気づいてなかった。でも、なんでだ?」
「……は? 竹内からわざわざ言ってきたんだよ。菊池、大丈夫かって」
自分は全く気づかず、竹内のほうが先に気づいたということだけで事の深刻さが分かった。自分の注意力が低下しているということ。
しかし、それがここで寺坂に怒気を向けられていることに結びつかず、恭平は頭が混乱してくる。
「里香に大丈夫なのか直接聞いても、大丈夫しか言わないし。でも大丈夫なわけないんだよ。一緒に帰ってあげてよ」
「なんで、俺と一緒に帰ると調子が回復するんだよ……」
「彼氏だからでしょ! そもそも田野も変だって。何かあったの?」
「俺には、なにもないよ」
なにもない。その言葉に恭平は胸の奥がちくりと痛む。全く別の意味で発したものだったが、言葉の響きが恭平の中にたまっていた黒いもやを刺激する。そうすると、徐々に目の前の寺坂への怒りが込み上げてくる。
(俺の気も知らないで……小学校から長い付き合いのくせに)
寺坂とは同じ町内会。同じ小学校で、同じバドミントンサークルだった。寺坂のことを小学生の時から知っている恭平には、彼女が本気で菊池と、そして恭平を心配していることが分かった。あえて怒って恭平を焚き付けようとしているのだろう。
おそらくは、無理して怒った代償を一人になって払う――自己嫌悪に陥る――のだろう。自分が傷ついても仲間を何とかしたいというのは、昔から変わらない寺坂の一面だった。
そう分かっていても、いらつきは止まらない。恭平は温くなったカフェオレを一気に飲み干して、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「帰るんだよ。時間の無駄だ」
「え……ちょっと!?」
すでに立ち上がって移動しようとする恭平を止めようと慌てて立ち上がる寺坂に、恭平は自分が考える中で一番きつい表情を作ってから見返した。
「あ……」
恭平の顔に浮かぶ怒りに寺坂の勢いが止まる。その間に恭平は入り口へと歩こうとした。
だが入り口が開き、そこから菊池の姿が見える。
(……里香)
相手も恭平の顔を見ると驚いた表情を見せた。それが寺坂と同じく怒った表情を見たことによるものだと考えて、恭平はまた寺坂へと振り向くと静かに言った。
「何? 俺と里香を直接話させて解決しようとしたのか?」
「ちょっと待ってそれは――」
「待たないよ。仮に俺ら二人の間がぎくしゃくしたとして、それにバドミントンを理由にして入ってくるな」
次の言葉を言わせる前に恭平は席から離れた。ウェイターに声をかけられても呆然として、恭平を見たままの菊池の隣をすり抜ける。
恭平は入り口側のレジで料金を払う間、菊池の方を一度も振り向かなかった。そのために、気配で離れていくのを悟る。
外に出て、自転車乗り場まで行く間に恭平の頭の中に渦巻くのは自分でも制御できない怒りだ。八つ当たりなのは分かっている。寺坂も気を使ったのは分かっている。こうでもしなければ、もうしばらくは菊池と話す機会を自分で作ろうとはしないだろう。それでも、恭平は寺坂も菊池もまだ受け入れられない。
(むしゃくしゃする……)
自転車に乗って速度を上げる。一刻も早く桃華堂から離れるために。脳内では涙を流した菊池を寺坂が慰めている様子が浮かんだ。自分の罪悪感の象徴。ありそうな光景だけに恭平は頭を振って忘れようとする。その甲斐あってほとんど霧散したが、かすかにこびり付いたものがいつまでも恭平の頭の片隅に鈍痛のように残り続けた。