『緑の海』





 開いた瞳に見えた彼女の姿。近づいてくる彼女に合わせて、私はベンチから腰を上げる。

 樹冠から零れ落ちる光がその姿を霞ませるけれど、私の目に映るのは間違いなく彼女だ

った。背中まである黒髪。少し大きめで丸い瞳に、いつも微笑をたたえた口元。身体の線

は少し細くなったが、同性から見ても溜息が出るようなスタイルだろう。

 一月ぶりに見る彼女は、最後に見た時とほぼ変わらなかった。ゆったりとした歩調を崩

さないまま、この木々が生み出す空気の鼓動を感じているらしい。

 緊張をほぐすために一度目を閉じ、大きく息を吸う。鼻腔に流れ込む濃密な森の匂い。

 久しぶりに味わうそれは、身体を奥から浄化してくれるような不思議な感覚を抱かせて

くれる。空気中に含まれる木々から放出された粒子が肺から血管へと入り込む。全身に行

き渡ったところで、腹腔に満たされたそれを吐く。

「……あの……」

 慌てているところを悟られないように自分を抑えながら、私は目を開けた。目に飛び込

んできたのは、言うまでもなく彼女だ。どうやら私が感じていたよりも、時間の流れが早

いらしい。自分の歩みを遮った相手――私を彼女が睨んでいる。内心にまだ留まっている

動揺を抑えるためとはいえ無反応な私に、彼女が少しずつ不機嫌になるのが分かったが、

今は変わっていく彼女の表情を見ることさえも、嬉しい。

 逢いたかった。逢いたくてたまらなかった。

 この一月、再会することを願っていた彼女が、ここにいる。

「――っ」

 動揺が収まっても、今度は胸に満たされる想いに言葉が出ない。その内にどうやら彼女

の堪忍袋の緒が切れたようだ。

「そこにいられては、通れないのですが――」

「織枝(おりえ)」

 ようやく口から出たのは、彼女の名前だった。おそらく私の三十年の人生の中で最も多

く紡がれた言葉に違いない。だからこそ、口が私の想いを代弁してくれたのだろう。

 織枝の身体が硬直して、私の顔をまじまじと見つめてきた。自分の記憶の内から、私が

誰なのかを探し当てようとしているらしい。

 私も一月前と顔は変わってはいないはずだ。やはり私が分からないのだろうか。

「すみません。私の名前を知ってるということは……私のお知りあいですか? 実は今、

記憶が曖昧なんです……」

「ちょっとした友人ですよ」

 自分のことを明かせば全てを思い出してくれるかもしれない。でも、それはあの凄惨な

記憶までをも呼び覚まし、彼女を苦しめるかもしれない。なら、あえて真実を教えること

もないだろう。折角、ここで出会えたのだから。二人が初めて出会い、何度も逢瀬を重ね、

共に生きると誓った土地で。

「いい散歩日よりですね。それに空気もおいしい。最高です、ここは」

「……ええ」

 織枝が話しやすいように、私から積極的に話し掛けた。彼女はぎこちなかったが、私に

抱いた警戒心を解きほぐそうとしているようだった。その気持ちだけで嬉しかったし、自

分に敵意を見せない相手と打ち解けようと努める姿勢は前と何も変わっていない。

 そう思い、自然と浮かぶ笑み。そこで彼女もようやく微笑み返してくれた。身体中を縛

っていた見えない鎖が外されていくように、彼女の身体の固さが取れていくのが分かった。

 それでも残る不安に、私の胸へと小さな棘が刺さる。

「私も散歩に付き合ってよろしいですか?」

「……はい。少しお話しましょう。何か寂しかったんです」

 淡々と語る彼女の言葉を気にしないように努める。今の彼女は何も知らない。もしかし

たら自分なりに理由を見つけているかもしれないけれど、自分がどうしてここにいるのか

も本当のところは分かっていないはずである。

「今日は昨日よりも暖かくて――」

「本当ですね――」

 他愛のない会話の中、私の中でリフレインされる記憶。私達の人生を変えた交通事故の

凄惨な記憶。車体に圧迫され、血に塗れて意識がない織枝の姿が、隣を歩く彼女へと重な

る。ほんの一瞬ではあったが、動悸を早めた心臓は私の背筋に冷ややかな物を生み出す。

 あれから一月の時が流れて、今、途切れ途切れの記憶と共に織枝は歩いている。脳内で

再生される事故の記録から目をそらすように、隣を歩く織枝の歩みをじっくりと観察した。

 そして、彼女の中にあった不安の正体がおぼろげながら見えた。

 おそらく彼女は恐れているのだ。自分がどうしてこの場所へと惹きつけられたのか分か

らないことを。理由が分からなくとも、この生い茂った木々の合間を抜けて癒されていく

自分を。それが、ただ自然の中を歩いたことによる癒しではないことを理解しているから。

 だからこそ抜け落ちた記憶を恐れて……いるかもしれない。

「どうしました?」

「いや……」

 二人の足音が、緩やかに私達を通り抜けていく風の音が、聞こえる。合間に交わされる

言葉は余りに他人行儀な物。しばらくして、鼻の奥がツンとした。

 今の彼女、今の私は、もし周りに誰かいたのならばどう見ているだろう?

 流れてくる緑風が私を包み込み、癒し、感情を吐露させる。

 込み上げてくるのは悔恨の念。懺悔の言葉。

 今すぐ全てを話してしまいたい。私のせいで、君は今のような状態になったのだ。私が

もっと注意深く運転をしていれば、私と君は、今のようにはならなかった――。

 こみ上げてきた言葉、そして嗚咽を強引に押し留める。今そのことを話しても何にもな

らない。意味がないのだ。

 咳払いを一つすると、悪しき感情だけが吐き出され、空気に浄化されていくかのように

思えた。幾分楽になった気分を更に紛らわせるため、空を見上げる。

 見えたのは一面の緑。点在する青。

 青空は生い茂った葉の合間ぽつぽつと見えるけれど、そこから陽光が真っ直ぐに地上へ

と降り注いでいた。普通ならば見えないはずの軌跡。この場に充満している粒子が通り道

を作っているのだろうか。

「綺麗ですよね」

 私が見惚れていることに気づいたのだろう。織枝もまた、歩みの中で少し上へ顔を向け

る。口元は何かの歌を呟いているようだったが、意識してやっているようには見えない。

何の歌なのかは聞こえなくとも理解できた。

 織枝がここを歩く時にいつも歌っていた歌だ。

「こんな場所があるなんて、今まで知らなかったです。ふと、思い浮かんで……おそらく

なくした記憶の中にあったのでしょうけど……」

 少しおどおどと語る織枝は、私の推測を十分裏付けてくれた。

 やはり、彼女は無くした記憶に不安を抱いている。幸福な記憶の裏にあるかもしれない

不幸を恐れているのだ。返事がないことを特に気にした様子もなく、織枝は先を続ける。

「ずっと、こうして歩いていても途切れないし。同じところを通るたびに違った空気が吸

える……気がするんです」

 少しだけ前に進み、見えない口から紡がれた言葉は、織枝が前に私へと伝えた言葉だっ

た。微かに震えた語尾が彼女の内なる想いを十分伝えてくれる。彼女の背中を見ながら歩

き、彼女の言葉を反芻する。

 紡いだ口と言葉は同じだったが、それはもう違う言葉だ。時が流れ、彼女の中に築かれ

た想いが崩れた後に生み出されたそれは、もう前と同じ響きを私へと感じさせない。

(違う、空気。違う、織枝……)

 私が知っている織枝と、記憶をなくしている今の織枝。二人は同一であり、違う二人だ。

 背中に重なるもう一つの影。少しだけ今よりもふっくらとしている織枝。

 それでも、彼女は私が好きだった織枝と何も変わらない。

 私が知っている織枝だと言えないとしても、彼女は、彼女だ。

 いつかこの影が重なる時が来るとして、この時を覚えているだろうか? 私との、この

時間を覚えているだろうか?

 ……覚えていて欲しいと、切に願う。君と私が今、確かに存在していたのだと言う証を、

胸に刻んで欲しいと願う。

 先ほどとは違う切なさが私の胸を満たし、ついに溢れ出す。

 流れる涙を右手で拭い、距離が縮まらない彼女の背中をしっかりと目に焼き付ける。

 離れたまま、無言のままに道を行く。この距離も私達の今の状態なのかもしれない。足

を早めればすぐに追いつけるはずなのに、足をこれ以上動かすことが出来なかった。まる

で何もないはずの空間へとびっしりと何かが詰められて、足を進めている私を軽く締め付

けてくるようだ。

 それはけして不快な物ではなく、むしろ幸福な気持ちにさせていた。

「もうすぐ、夏ですね……」

 降りてくる陽光を眩しそうに見つめながら、呟く織枝。それが、私が織枝の声を聞いた

最後の瞬間だった。

 先ほどまで微かだがはっきりと私を締め付けていた空気が変化していた。今度は徐々に

身体が開放されていく。身体を通り抜ける風の清涼さが、より確かな感覚となる。

 一歩進むたびに、身体が軽くなる。

 一歩進むたびに、心が浄化される。

 一歩進むたびに、胸が切なくなる。

 そこで不意に、強い風が巻き起こった。私の耳の傍を駆け抜けた疾風はこの場所に満た

された空気を撹拌し、木々をざわめかせる。

 最初は小さなものだった音が、徐々に激しさを増していく。

(……なんだ……?)

 私と織枝を囲む木々達が、波を打つように枝をなびかせていた。一つの波が消えるとま

た別の波が起こり、また一つの波が消えると更に強く波打つ。

 さながら、荒れる海原のように。

 急な変化に脳がついていかないのか、眩暈を覚えてふらついた。鼻腔に流れ込んできた

木々の香りにむせたところで、織枝の姿が見えなくなったことに気づく。

「――織枝!」

 焦燥を消すことが出来ない。一月前に感じた悲しさが再び胸に込み上げてくる。君と折

角出会えたのに、もう別れなければいけないのだろうか。この奇跡の時間は終わってしま

うのだろうか?

 眩暈から回復した視界に、織枝は再び姿を現していた。少しだけ先にいるか細い背中。

だが、私が隣にいないことを気にする素振りもなく、ただ周囲の緑と空気を堪能しつつ進

んでいる。まるで最初から私となど逢っていなかったかのように。

「そう、か」

 自分の手を眺めて、理由を悟った。

 手を透けて見える通路。薄くなる意識。遠ざかる風の音。

 奇跡の時間が終わると共に、消えていく『私』

 事故で死んだ私がこの場所に留まり続けたのは、織枝ともう一度逢いたいという想いが

あったからだろう。最後にまた、この場所を二人で歩きたかったという私の想いが、最も

二人の思い出が詰まっていたこの場所に私を残してくれたのだろう。

 二人の道が交わった時から存在したこの場所。

 その場所で、私達の道は二つに別れる。

「……いつか、時が流れて――」

 自分の声さえも聞こえなくなる。身体の重量さえも感じなくなり、ただ意識だけが残る。

 視覚も消滅したが、歩みを進めていく織枝の気配と、徐々に空へと昇っていく自分は何

故か理解できた。

 もう二人でこの緑溢れる道を歩むことは出来ないけれど、私の分まで生きて欲しい。



 いつか時が流れて、私の事を思い出したとしても、そのまま歩き続けて欲しい。



 意識さえも分散し、光溢れる場所へと昇っていく自らを感じるだけとなった。

 最後に感じ得た物。

 それは緑色の海原の中に存在し、光へと繋がる一筋の道だった。




同盟用あとがき



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