なんとなくではあるけれど、自分に何かが足りない気がしていた。
 これまでの私はそんなことをぼんやりと考えながら、机に向かっていた。数式に数字を当てはめることで導き出される答えは、一定の過程を通って出るもの。
 人間の人生もそうやって答えが出ればどれだけいいだろう。でもそうじゃないものを望んでも仕方がないから、私は自分の思考に蓋をして淡々と数式を解いていた。
 でも――
「正解。さすが咲坂さんね」
 数学の中井先生が笑顔で誉めてくれるけれど、特に愛想をふり撒くことなく私はどうも、とだけ言って席に戻る。先生はもう三十後半だけれどどこか子供っぽくて、でも締める時は締めると言う人だ。生徒にも人気がある。
 彼と同じくらいに。
「じゃあ次は……水島君」
「はい」
 彼の名前が呼ばれたことで、心臓が跳ねた。私は極力自分の焦りを抑えつつ、黒板に向かう彼の後姿を見た。
 昨日、残って自習をしていた私に話しかけてきた水島君の前で私は涙を流してしまった。理由は彼には分からなかっただろうけれど、私としては大事な物を少しだけ手に入れることが出来たから、いくら感謝しても足りないくらいだった。だからこそ、ちゃんとハンカチを返してお礼をしたかった。
 でも、涙を見せてしまった私は普通に振舞うことができず、避けたまま六時間目まで来てしまった。今日中に出来れば、渡してしまいたい。
(この何とも言えないもやもやとした気持ちから……解放されたい)
 昨日の夜からずっともやもやとしたものがあった。心をうっすらと覆う膜が生まれたみたいに、そしてそれは私をちくちくと刺激する。でもそれは嫌なものじゃなくて……ほんの少しだけ心地よかった。
(何なんだろう)
 そう考えることも、ほんの少しだけ心地よかった。



 掃除が終わった後の教室には誰も残ってはいない。結局、帰りのホームルームの前も掃除の時も、水島君は女子と一緒にいた。そこにハンカチを返しに行くという行為が、どんな誤解を招くのかは予想できる。誰もが帰った後にこうして勉強していれば、水島君はハンカチを取りにくるのではないかと思って待っていたけれど、五時を過ぎても姿を表さない。さすがにハンカチのために彼に時間を合わせるまでは思わない。
「……そうか」
 唐突に思い立って、私は鞄に勉強道具を片付けるとハンカチを手に彼の席へと向かった。別に無理して彼に直接渡さなくても机の中に入れておけばいいじゃないか。それで私を覆っている膜がなくなるのかというと、多分なくならないかもしれない。でも、薄れるだろうとは予感として持っていた。正式なお礼はいつかチャンスが来た時にすることにしよう。
「やっぱりいた」
 机にハンカチを入れようとした時、扉が開く音と一緒に水島君が姿を表した。唐突な出現に固まっている私を不思議そうに見ながら近づいてきて、私の手にあったハンカチを取った。
「洗わなくても良かったのにって言うの遅いよね。ありがとう」
「う……うん」
 彼を前にすると言いたいことが喉に詰まるような感覚に襲われる。
 一言「昨日はありがとう」と言えば私は感謝の気持ちを伝えられて、これまで通りにちょっと言葉を交わす程度に関係が戻るだけ。
「でも、本当良かったよ」
「何が?」
 何か揺れた心を抑えるためにあえてそっけなく問いかける。
「もう青に溶けないだろ?」
 すんなりと水島君は言ってきた。その言葉は私が前日に紡いだ言葉。空に溶けてしまいたかった私の残滓。
「俺さ、空が好きなんだよね」
 その言葉はちくりと胸に刺さる。彼は続ける。
「空の青ってさ、汚れてないように見えるんだよね。俺自身が汚れてるからかもしれないけれど」
「水島君が、汚れてる?」
 その言葉は信じられなかった。昨日私を救ってくれた言葉を言った人が汚れているだなんて。でも、水島君の目は真剣そのものだったし、私にも思い当たる節があった。

『自分が傷ついたことがある人は、他人の痛みが分かる』

 そんな言葉をどこかで聞いたことがあったから、私の傷を見抜いた彼にも傷があるのだろうかと思った。
「んー、俺、ちょっと家庭環境が異常でさ。細かいことは省くけれど、つまりはそんなんだから綺麗なものにあこがれるって言うか」
 水島君は私から離れて窓際へと寄った。昨日と同じように夕日が差し込んでいて、彼の身体は橙色になる。
「だからさ、空の青って好きなんだけれど……だから溶けていきそうな咲坂さんを見過ごせなかったと言うか」
 彼の言葉を聞いていて、足りないものが埋まっていくような気がしていた。
 自分が追い求めていた青。その意味を無くした私の中に生まれていたのは、空虚だった。それまで「青」への想いが良いものではないとしても、私を支えていたのは確かだ。必要なのは、意味を無くした想いに新しく意味を与えること。
 それは――
「やっぱりさ、空は眺めてみない? 溶けないでさ」
「そうだね」
 ゆっくりと彼に近づいた。目の前に立つと、水島君は信じられないものを見たような顔をしている。私が笑ってるからって、そんな顔しなくてもいいのに。
「まださ、気を抜いたら溶けたくなるかもしれないから」
 手を、伸ばす。
「溶けないように、握っていてくれる?」
 握った瞬間は緊張していたようだけれど、すぐに弛緩する。私の問い掛けに対しては無言でその手を握り返した。



 こうして私達は少しだけ近づいた。
 恋人同士というわけでもないけれど、同じ想いを持つ友人として。




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