ずっと心が濡れたままだった。
 それは小さい時から親が続けている「不倫」から来ていると思う。何ヶ月か経つごとに家を訪れる女性が代わり、その中の一人が俺の父親に股を開いていく様子を寝室の少しだけ開いたドアから見てしまった時からだと思う。
 異性や同性の区別がようやく自分の中に生まれた小学校高学年の自分に、ある意味不健全なそんな光景を見てしまったからなのか、俺はセックスに対して何となく抱いていた神聖さをなくしてしまったのだろう。それは中三が終わり、高校に入る直前の春休みに体験した初めての行為で実証された。
「――で、どうだったんだよ、それから」
 俺と違って両親が普通に仲がいい家庭に育った徹は、まだ女の子と付き合った経験がない。だから俺の初体験談に目を輝かせているんだろう。中学からの付き合いだけれど、一番楽に話せる男はこいつだった。女子と仲が良くて男子からはあからさまではないけれど距離を置かれていた俺に、そんな状況を意にも介さず近づいてきてくれた男。それだけに徹の存在はありがたかった。
「なんも、なかったよ」
「なんも?」
 徹は拍子抜けしたように俺の言葉を繰り返した。
 初めてのセックスは、確かに自分で慰めるよりも快楽を得た。女の子の中はとても温かくて、動くたびに相手が上げる歓喜の声は俺の耳朶を心地よく打った。
 けれど、それだけだった。
 それまで付き合っていた女の子は、いつの間にか父親に股を開いていた女性に変わっていた。その顔は果てた後でも戻ることなく、その女の子とは高校が違うこともあって自然に関係は切れた。
「ふーん。そんなもん?」
「さあね。俺の育った環境じゃん?」
 俺は立ち上がって四月の空を眺めた。
 高校二年になって初めての、屋上からの空。
 クラスの喧騒だとか、何となく気分が沈んだ時にはここに逃げてくる。この高校に入ってからずっと続けていること。
 沈んだ時には決まって、自分がずぶぬれになったような気になる。だから、晴れ渡った空に出来るだけ近い場所へと行きたくなる。ついこの間、十人目の彼女に振られたことが効いてるのか、ここ一週間は気分が乗らずに毎日ここに来ていた。
「空はきれーだねー。俺は、青って好きだよ」
「そうか?」
「おう。だって、真っ青って汚れてないように見える」
 フェンスに寄りかかって空を見る。首が痛くなるほど真上を見て、俺は本心を告げた。白はあまりにも綺麗過ぎて、でも青ならば人間味あるピュアさを表してる気がする。昔からずっと雨に濡れたような気がしてた俺には、青空は憧れの対象だった。
「あれ? あれって、咲坂さんじゃん」
 徹の声に首を戻すと、屋上に出る入り口から一人の女の子が出てきた。俺達がいる場所は入り口が向いている方向から見るとちょうど真右で、彼女の視界に入ることはない。実際に、彼女は俺達に注意を払うことなく反対側のフェンスに手をかけて空を見上げた。
「咲坂って……あの優等生?」
「ああ。新しいクラスになってもう少しで一月だけど、一人でいるところしか知らないんだな」
「ふーん」
 彼女は俺と同じく空に興味があるんだろうか。何かぼんやりというよりも食い入るように空を見つめている。いや、空を覆う青か。そして、その姿がうっすらと消えていく――
「え?」
「? どした?」
 瞬きをすると彼女の姿ははっきりとしていた。当たり前だ。人が消えるなんてことがあるわけがない。彼女は人間だ。でも……胸騒ぎがするのも事実だった。
「でも本当、どっか他の女子と違うよな」
「……ああ」
 徹の言葉は事実だった。彼女は、俺がいままで出会った女の子の中でも異質で、存在感を示していた。クラスの一員としてはないそれが、女子と言う枠組みの中だと明らかに違うものを放っている。
 しばらく空を見ていた彼女が校舎内に戻り、徹も用事があると言って消えたあとも、俺はその場に留まったままだった。離れた場所から見ていたから彼女の表情は見えなかったけれど、どうしてもあの一瞬消えかけた彼女を忘れられなかった。

 まるで、空に溶けてしまいそうだった。

 この時から、俺は彼女を知りたいと思うようになった。それまで付き合ってきた人、出会ってきた女性はどこか意識の奥に届く前に、意識の核を覆う雨の滝に遮られていた。でも、彼女は――咲坂さんはその一線を簡単に踏み越えて俺の前に姿を表した。
 その消えそうな身体を晒して。
「いつか……話し掛けられるかな?」
 何かきっかけを作りたいと思った。同じクラスなんだから、いつかその機会があるはず。
 その時に何を言うか。何を言われるか。そのことを楽しんでいる自分がいることに気づいていた。
「はは、まるで――」
 そう、まるで。


 恋しているみたいだ。


 その言葉はまだ、外に出ることはない。ただ、僕の中に降る露が、徐々に少なくなってきているのは自覚していた。
 この露が消える時が、彼女と話が出来る時なのかもしれないと、思えた。




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