Powder Snow 12


 十二月二十四日。

 クリスマス・イヴのこの日、俺の高校は終業式を迎えた。
 校長のお決まりの演説も終わり、担任のホームルームも終わって今年最後の掃除も終えた。

「さて、終わったなぁ」
「終わったわね……」
「最後に大掃除させるなよな……」

 俺と干場と赤峰の三人は最後まで残って掃除をしていた。
 どうやら加賀先生は俺達を三人一組だと認識してしまったらしく、最近はこのスリーマンセルで掃除をさせる事が多い。
 そして俺達は全校生徒に振り分けられた担当掃除区域のうち、最も面倒な体育館倉庫の掃除を今終えたのだった。

「よし! 終わった記念にどこか食べに行こうぜ」
「そうね。今日はバレー部の練習も無いし……」

 干場と赤峰は学校からしばらく解放されるからか、かなり上機嫌のようだ。
 当然俺にも誘いがかかってくる、が。

「いや、俺は行く所があるから」
「行くところ?」

 俺の言葉の中に何かを感じ取ったのか二人とも怪訝そうに俺を見る。俺はその視線が少し可笑しくて笑みを浮かべながら二人から離れる。

「二人仲良くクリスマス過ごせよ〜」

 俺の言葉に顔を赤くして言い返す赤峰と、嬉しそうに騒ぐ干場の声が背後に聞こえる。
 俺はその声に後押しされるようにあの場所へと向かった。
 待つことなど慣れている。
 これしかできないなら、俺は待ちつづける。
 それも、あの日から続けて四日目になった。
 のぞみが消えた、あの日から。




 公園にはまだ小学生達が数人残っている。
 俺はとりあえず雪に埋まってつかえなくなったブランコの傍の柵へと腰掛ける。
 そのままぼんやりと小学生達が遊ぶのを眺めた。

「この〜」
「やめろよ〜」

 雪合戦に興じている数人の子供。その中の一人が投げた雪玉が男の子の顔に当たる。

「うわ!」

 男の子は一瞬放心したように自分の顔に手を当て、すぐに大声で泣き始めた。
 口々に大丈夫か、と口にして駆け寄っていく子供達。

「いたいのいたいのとんでけ〜」

 子供の輪の中にいた女の子がそう言って泣いている男の子の頬に手を当て、どこかに何かを飛ばす仕草をする。
 その仕草を見て、俺の中にあった記憶が甦ってきた……。




『え〜ん……』

 俺はのぞみに雪玉をぶつけられて泣いた。のぞみはおろおろとしながらどうしようかと考えていたが、やがて俺の頬に手を当てた。

『いたいのいたいのとんでけ〜』

 そうすると、痛みが和らだような気がした。そしてのぞみは言う。

『雪ってね、とてもいいものなんだよ〜』
『……なんで?』
『だって、おなか空いたら食べられるんだよ〜。いちごシロップとかかけて〜』

 俺はそう言ったのぞみがとても可笑しくて笑ってしまった。その事に怒ったのぞみにそれから雪玉をぶつけられ放題だった。
 しかし、俺はその時から雪が好きになったんだ。
 のぞみと遊んだ、この冬を、雪を好きになったんだ……。

(なんだよのぞみ、お前も……同じだったんじゃないか)

 そうだ。
 あいつも子供の時は自分の全てをさらけ出して俺と遊んでいたんじゃないか。
 あの笑顔は間違いなく、数日前に見せてくれたあの顔だったじゃないか。
 のぞみもやはり成長していくにつれて、臆病になっていったんだろう。
 辛い事を経験して、心を閉ざしていったんだろう。
 俺達は同じだった。覆い隠すか、固く閉ざすかの違いだけで。

「俺は……お前を救えたか?」

 答えが返らぬ問いかけを、俺は空へと呟いていた。
 微かな望みを抱き続けて……。




 子供達が去ってもうどれくらいの時間が経っただろう?
 俺は何とか体中の感覚を保とうと体を震えさせていた。
 コンビニで買ってきたコーヒーを飲み干してゴミ箱へと捨てる。
 そのまま俺は、あのベンチへと向かった。
 ベンチには雪が積もっていた。
 俺はゆっくりとそこに近づいて、雪を払う。
 人一人が座れるスペースを作ると俺はそこに腰を落ち着けた。
 濡れている文字盤を拭うと、夜の十時を指している。
 雪はすでに降るのを止めているために、逆に気温は下がっていた。
 誰もいない公園。
 誰も座った形跡のないベンチ。
 この場所に立つ自分が部外者のような気がして、自然と笑みが零れる。
 公園にいくつか立っている照明灯の中、一つの灯りに軽い眩しさを感じながら、俺は眼を閉じた。
 暗闇に生まれる残像。
 さっきまで見ていた灯りだ。
 そこに新しい顔が浮かび上がる。
 亜麻色の髪を後ろで結んだ少女。
 元気が良くて、行動的で。
 女性としての綺麗さよりも、内面の綺麗さが際立っていた少女。
 もう一度会いたい。
 淡い粉雪のように俺の前から消えてしまった少女。
 数日前に消えてしまった少女の名を、俺は眼を閉じながら呟いていた。

「望……」
「呼んだ?」

 俺は目を開けた。まず映ったのは靴。
 俺が買ってあげた靴だ。そして紺の靴下。
 視線を上げていくと茶色のコートが入ってきて、そのまま一気に視線を上げる。
 頂点には、目蓋の裏に映っていた顔があった。
 猫のような瞳を輝かせて、彼女は俺を見ている。この場にいることが至極当然だというように。

「一人で、夜のベンチに座って何をしてるの?」
「待ってたんだよ」
「ん? 誰を?」

 わざとやっているのかと思ったが、望は本気で聞いているようだった。
 俺は顔が熱くなるのを感じながら言った。

「望を待っていたんだ」
「わたしを?」

 望は心底驚いているようだった。俺は怒りがふつふつと心の内から浮かび上がってきて――すぐに消えた。
 いいじゃないか。彼女を見つけることが出来たんだから。
 ついさっきまでの落胆が嘘のように俺の心は晴れていく。

「わたしはね、ここに来たかったんだ」

 望は空を見上げて呟いた。
 俺もつられて見上げると、粉雪が降り始めている。

「最後に、この場所に来たかったんだ」

 その言葉は俺の心に突き刺さってきた。
 望は俺へと視線を向け、数日前と同じように悲しげな表情を浮かべた。

「お別れ、だよ」
「そうか」

 いざとなると、何も言えない自分に腹が立ってくる。のぞみにもう一回会えたなら、いろいろと言いたい事があったというのに。

「分かるんだ。多分、今日が終わった頃には目が覚める。そして、わたしは完全にこの世界から消える」
「……そうか」

 望はくすっと笑い、ベンチに座ったままの俺を覗き込むようにして見つめた。

「望。そうか、ってばかり言ってる」
「そうか」

 俺も自分が言っている事に思わず吹き出してしまった。空気が冷気によって張り詰められた公園内の空間に二人だけの笑い声が響く。
 不意に笑い声が止んだ。
 次の瞬間にはのぞみの両手が、俺を包んでいる。まるであの時の再現のように。
 俺が絶望の淵にいたのを呼び戻してくれた、干場との関係が壊れそうになった時。

「望、気付いてる? わたしの名前、ちゃんと呼んでくれたね」
「ああ。当たり前だろ」

 俺はいろいろ言いたい事があった。だが、一つだけ、ちゃんと伝えたい事だけを選んだ。

「お前はいなくなる。なら、最後にちゃんと呼びたいじゃないか」
「望……」

 そう。俺は現実を受け入れた。
 のぞみは……望は消える。それは事実なんだ。

「でもな、お前にちゃんともらったよ。いろんな物を。だから、お前は自分の世界に目を向けな」
「……わたしも望から勇気とかいろいろもらったよ。多分、これからも大丈夫だと思う。現実でも生きていけるよ」

 俺は立ち上がって改めて望を抱きしめた。望の体温が感じられる。これは少なくとも本当だ。
 望の体が粒子となって消え去ろうとしていたが、それでも、体温はそのまま。
 また雪が降り始めて俺達を覆っていく。寒さは感じない。
 お互いの温度が、お互いを暖めているから。

「わたし、これからは強くなる。もう、人から逃げないよ。だから望も、これからはそうやって生きていってね」

 望の言葉に俺は頷く。静かに、はっきりと。

「望」

 そして望の唇が俺に重ねられた。温かい唇。望の思いが伝わってくる気がした。唇が離れてから望は俺をしっかりと見ていた。
 最後の瞬間まで、自分がこの世界から消える最後の瞬間までも、俺の顔を目に焼き付けておこうとするように。

「俺達が出会ったのは、望が見た夢だからかな? 望が手紙に書いていた、銀色の夢。……最高の夢だったよ」
「……そうだね」

 その時、望の顔は少し不満そうに膨らんでいた。しかしすぐに笑顔に変わり、俺から離れる。体の粒子化は激しくなり、とうとう望の輪郭もはっきりしなくなってきた。

「わたしも、これはいい夢だったと思う。じゃあね……高階望!」

 望は敬礼のポーズを取った。明るい声を俺に向けて。
 その瞬間、望の体は完全に粒子と化して空へと舞い上がった。

「望! さよなら!!」

 俺は望のいた場所まで行き、空を見上げる。
 舞い降りてくる雪の滝を登っていくかのように、望を形作っていた粒子はその身を光り輝かせて昇っていった。
 俺はそこに望の姿を見た気がした。
 背中に光の翼を生やして、空へと帰っていく望の姿を。

「最高の、夢……か」

 望と共に見た、銀色の夢。
 その終わりに相応しい、素晴らしい粉雪の中、俺はその場にずっと立っていた。
 腕時計の時刻が日付が変わる事を知らせるまで、ずっと……。




 今は誰もいない部屋。
 まだ雪が乗っていたことで濡れていた髪を軽く撫でながら、部屋を見て回る。彼女の名残を探すかのように。
 やはりまだ寂しいという気持ちは浮かんでくる。それは仕方が無い事なんだろう。だが、俺は彼女の消滅を受け入れた。

 俺は思う。
 彼女の消滅を受け入れたと言う事は、俺自身を受け入れた事なんじゃないかと。
 他人を信じる事が出来ない自分を嫌いだったあの頃から、今の俺は変わった。
 そんな自分を受け入れて、改善しようと決めた。
 だから、彼女は消えたんじゃないだろうか?
 身勝手な考えだが、そう思えてならない。

(真実はお前の言う通りかもな。だが、こう思ってもいいだろ?)

 望の顔を思い出しつつ部屋をまた見回すと、机の引出しが少し引き出されている事が見て取れた。開けてみるとそこには日記帳が置いてある。俺は、手にとって中を見た。

『十一月二十四日。今日、またもう一人の自分と会えた。でも昔とは大分違っていて、とても悲しかった。まるで今の自分を見ているようで。何とか力になりたいと思う。そうする事で、自分のためにもなるかもしれないから……。利用するみたいだね。許してね、望』

 それは望が俺と出会った日から書かれた日記だった。
 彼女が体験した、夢の記録。
 俺と……もう一人の自分と共に過ごした記録。
 一日一日、一回も休まずに。どんな些細な物事でも詳しく書かれていた。俺が忘れていたような些細な事までも。

「望……」

 あいつの中では、俺との日々はこんなにも価値あるものだったんだ。現実から逃げてしまった自分と、出会った頃の俺は重なる物があったんだろう。だから、彼女は俺と共に生活した。
 あいつ自身がまた生きる力を得るために。
 俺はゆっくりと、ゆっくりと彼女の文章を読んだ。望と過ごした日々を思い出しながら。
 一つ一つ心に刻みつけながら。
 そして最後のぺージ。


 十二月二十四日

 どうやって書かれたのか分からなかったが、そこには十二月二十四日の日付があった。
 そこには一言、こう書かれていた。

『この一ヶ月の事は、きっと夢なのだろう。でも、夢でなければいい。望は、ここの人々は確かに存在したんだから』

 俺はこの時初めて、望が最後に見せた不満そうな顔の意味を理解した。
 望は確かに銀色の夢と言った。
 しかしそれは自分が見ていた夢という事の他にも、俺と共に過ごした一月の事も含まれていたのだろう。
 片方の意味しか理解していなかった俺が望は不服だったんだ。

「ごめんな。同じ自分でも、やっぱり思っている事はなかなか伝わらないな」

 そう思ってももう悲観はしない。
 諦めずに伝えつづける。自分の思いを。
 俺は日記を持って部屋を出た。
 明日には両親が帰ってくる。
 年に一度のクリスマスを俺と過ごすために。
 俺の仕事は帰ってくる両親に食べさせるケーキと料理を作らなければならない。

「今日も冷え込む……」

 自分の部屋に入って窓を開けると先ほど降ってきていた雪がその強さを増していた。しかし吹雪と言うわけでもなく、降ってくる量が増えてきている。
 俺は体が寒さに耐え切れなくなるまで窓を開けたまま、空からくる粉雪を眺めていた。
 過去から想いを馳せていた雪が、この時はさらに綺麗に見えた。
 だからだろう。
 俺は空に向かって呟いていた。

「メリー、クリスマス」




『Powder Snow』完




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