のぞみが再び倒れてから一週間が過ぎようとしていた。 俺はすぐにでも病院に連れて行きたがっていたが、何故かそこまで踏み切れない。 何か不思議な力が働いて、俺が動くのを防いでいるようだ。 (馬鹿な事を……でも、そうとは言い切れないんだよなぁ) これまでも何度かのぞみに対して自分の意見に踏み切れない事があった。 このままではのぞみのためにはならない。そう思っても彼女の意志を尊重してしまう。 それは甘いと言うよりも、彼女の気持ちをどこかで理解してしまっていて、それに従ってしまうんだ。 「それは、やっぱりさ、高階はのぞみちゃんの事が好きだからじゃねぇか?」 すでに立ち入り禁止になっているはずの屋上へのドアを開けた干場は、寒さに体を震わせながら言う。 俺がここ一週間憂鬱になっているのが嫌でも分かったんだろう。 つい最近覚えたんだと言うピッキングを使ってドアの鍵を開けてしまった。 「お前、そんな技術どこで使うんだよ?」 「沢山の技能を持っているとどこかで役立つんだぜ」 干場の言葉を濁らすように俺は何度目かの問いかけをした。干場はそのたびに同じ答えを返す。 それを拒絶するわけでも、俺にのぞみの事について深く追求してくる事も無い。 『お前の問題だからな、お前が何とかしろ』 目がそう語っている……気がする。 直接言われたわけでもないから確証は無いが、干場はそう言っている気がした。 (これが、人を信頼するって事なのかもな) 言葉にならない言葉。 見えるけど見えないもの。 それらが互いを繋いでいる。 それこそが人を信頼する、信じると言う事なんだろう。 前までの俺はその繋がりを見ようとはしなかった。誰もが俺にその繋がりを掴むチャンスをくれていたというのに。 しかしのぞみが来て俺に触れてきた事で全てが変わった。 のぞみは俺に光を与えてくれた。闇から俺を助け出してくれた。 ならば、次は俺があいつを救う番だ。 「気分は晴れたかよ?」 「……桃華堂の苺パフェな」 俺達は笑いあった。 十二月二十日。 クリスマスまであと五日。 俺は、ついに学校を休んだ。 あれほどこだわっていた皆勤賞を捨ててまで、俺はここにいたかった。 何も心の中に無かった俺が、何かにしがみつこうとして追い求めていた物だったから、すでに必要なくなったのだ。 何故、今ここにいるのか? 俺には何故かのぞみがもうすぐ死んでしまいそうに思えるから。 そんな事はありえない。あるはずが無い。 そうした不安があるのはのぞみが意識を失う直前におかしな事を言ったからか。 のぞみは意識が無いだけで体温も脈も普通と変わらないように見える。 でも、体の中では『何か』が体を蝕んでいるのだろうか? 「望……」 夕暮れの中差し込んでくる光に照らされて、のぞみはまた口を開いた。 久しぶりに聞いたのぞみの声は弱弱しかったが、それでも生の活力が含まれているように思えた。 「大丈夫か? 何かしてほしい事あるか?」 俺がそう訊くと、のぞみはゆっくりと起き上がる。辛そうな顔をしつつ、必死になって起きようとするのぞみに、俺は手を差し出さなかった。 のぞみは何かを克服しようとしている。 俺には分からない物から抜け出そうとしている。 「聞いて……ほしい事があるの」 のぞみは体を起こして俺の正面に体を向ける。のぞみがベッドに腰掛け、俺が横にある椅子に座る形。 俺は黙って頷いた。 逆光でのぞみの表情は良く見えない。だが俺は凝視する。 のぞみの一挙一足を見逃さないように。目に焼き付けるように。 ――後から思い出すと、この時ののぞみは最も気高い存在のように思えた。 「わたし……もう死んでいるのよ」 それはのぞみがまた意識を失う寸前に聞いた言葉だ。 「……どういう事だ?」 「正確には、死ぬ直前」 のぞみはこれから説明するための言葉を選んでいるようだ。俺は待った。 待つのは得意だった。あの、冬の日からずっと待っていたんだから。 (あの、冬の日?) 自分の頭に浮かんだ単語に違和感を覚える。しかしすぐに理解できた。そう、俺は待っていたんだ。 「ゆっくり考えな。俺は子供の時からお前を待ってたんだから。これくらい待つのは楽勝だよ」 「望……うん、大丈夫」 のぞみは言葉を再開した。 「わたし、高校でいじめにあってた。普段から言いたい事言ってたから、友達も多かったけど敵も多くて……ある時、クラスの皆が一斉に無視しだしたんだ。それまで友人だった娘達も……恋人も。わたし、絶望しちゃったんだ。そして屋上から飛び降りた。もし死んだら、またあなたに逢えるかと思って」 のぞみの言っている事は正直、理解しがたい。 でも、のぞみが嘘をついているようには見えなかった。 「わたし、小さい時に交通事故にあって死にかけたんだ。何か、光の中を進んでたのを覚えてる。そして気がつくと公園にいた。そこは知っているようで全く知らない場所で……そこで男の子が泣いてた」 のぞみの言葉を聞いているうちに俺はなんともいえない感覚に襲われた。まるで今まで胸の内に支えていた物が取れていくように。 「その子を見て、わたしは分かった。どうして? とか疑問を挟む事なんて無くて……。だって、同じ匂いがあったから」 のぞみは一度言葉を切り、それから一気に言った。 「この子はわたしなんだって分かった。もう一人のわたしなんだって」 「……パラレルワールドってやつか?」 聞いたことがある。 たしか、別の宇宙って言うのが存在していて自分達ではない自分がいる、とかいう話。 普通なら信じがたい話だが、忘れていた記憶を取り戻した俺には思い当たる感覚がいくつもあった。そして、最近も。 (……のぞみは俺の心に入ってくる。もともとそんな性格かと思ってたけど、それだけじゃない何かを感じてた。それはこの事だったんだ) 違う自分でも同じ自分。 だからこそ、誰よりも俺の心に入り込めたんだ。 「小さい時、望と遊んでわたしは生きる力をもらった。息を吹き返しても微かに記憶が残ってて……また死にそうになったら逢えるんじゃないかと思って」 そこには心をさらして弱さを見せるのぞみがいた。 唐突に、理解できた。 のぞみは俺と違うと思っていた。 明るくて、元気で、人の心に積極的に触れてくる。でもそれはこの弱さを隠すためだったんだ。 自分の弱さを心を閉ざして護ろうとせずに必死に皆と触れ合う事で自分からも忘れさせようとした。 自分が先に表面だけで友人と触れる事で、深い付き合いを避けたのだ。 のぞみは確かに、『俺』だったんだ。 「そして、わたしは望に逢えた。でもあなたは昔と変わってしまった。心を閉ざしてしまっていた。……わたしと同じように、他人に触れるのを怖がっていた。わたし、そんな望、見ていられなくて……。だから、わたしは力になりたいと思ったの」 それでのぞみの言葉は終わりを迎えたようだった。 しばらくの間、俺達は無言で向かい合う。 いつの間にか夕日が消えて、辺りは闇へと包まれようとしている。 俺は席を立ち、部屋の電気をつけようとした。その時、背中から声が聞こえた。 「望……どうして信じるの?」 俺は背中を向けていて、さらに部屋は暗さを増していくためにのぞみの表情はほとんど見えなくなっていた。 声の調子からして俺がのぞみの話を信じた事に本当に驚いているようだ。 「どうして、信じられるの? パラレルワールドなんてSFの世界だよ? そんな事を言い出すわたしの事おかしいと思わないの?」 「信じるさ」 俺は言葉と同時に電気を付ける。 振り向くとのぞみは泣いていた。頬から流れる涙を見て、話の終わりごろからはもう泣いていたんだと気付く。 それでも声にはその影響を出さずにのぞみは話し続けた。素直にそれを、俺は格好良いと思う。 「俺はのぞみに救われた。そして一つ、学んだよ。……真実なんて意味は無い。確かなのはどう行動するか。ただそれだけだって」 次の瞬間、俺はのぞみを抱きしめていた。 突然の事に動揺するのぞみの鼓動が伝わってくる。一気に跳ね上がった鼓動が俺の胸を刺激して心地いい。 「の、のぞ――」 「心から信じられる人なんて本当は少ないものなんだよな。俺は誰とでも信頼しあえなければ友達の価値はないんだって勘違いをしていた。でも、そうじゃない。たった一人でも信頼できる人がいれば、それで良かったんだ」 俺はのぞみを抱きしめる両手に力を込める。のぞみは少し息苦しそうだったが、それ以上に口から切なげな吐息を吐き出した。 心底安心しきっている。 「お前が違う俺だろうとそうでなかろうと。俺はお前を信じるって決めた。だから裏切られたなら、そういう人だって見切れなかった俺のせいだ。俺は自分を守ろうとしていた。でも、傷つかなきゃ、先には進めない」 「そう……かな」 のぞみの声に少しだけ力が込められていた。 消えかけていた命の炎が、再び燃えようとしている。 「わたしも出来るかな? わたしも、また目が覚めたら……この世界から消えたら、頑張れるのかな?」 「出来るさ。だって俺達は同じなんだろ? 俺が出来てお前にできない事があるはずないじゃないか?」 俺は抱きしめていた手を外してのぞみの肩に置く。そして顔を見つめる。 のぞみの顔は涙の跡がくっきりと残っていた。しかし涙は既に止まり、顔は笑顔に覆われている。 「お前は変われるよ。俺が変われたように。……だから、頑張れ」 「……うん」 のぞみは満面の、いつもののぞみの笑顔だ。 いや、それよりもはるかに綺麗なものへと変わっている。 これがのぞみの本当の笑顔なんだろう。 心の底から笑っている、笑顔なんだろう。 「ありがとう、望。立ち直ったら、おなか空いてきちゃった」 俺はのぞみの笑顔に見とれていた事が恥ずかしくて、早口で言葉を返した。 「分かった! 昨日の残りの夕飯でよければあるぞ。親子丼だ」 「嬉しい……」 「待ってろ! 今、持ってくるからな」 俺は部屋のドアを閉めてから急いで階下へと降りて、キッチンに置いてあった鍋を火にかけた。 親子丼の具に火が通るのを今か今かと待ちわびる。のぞみは回復する。 そして…… (消える?) そうだ。今になってのぞみの言葉に含まれていた言葉を思い出す。 『この世界から消えたら、頑張れるのかな?』 今のあいつは、夢を見ているようなものなんだ。 自殺をして、しそこねて病院で眠っている間に見ている夢。 なら、意識が戻ればあいつは消えてしまう。 こちらで眠っていたのは、あいつの現実で目が覚めようとしているからだったんだ。 「のぞみ!」 俺は二階へと駆け上った。 確かに閉めたはずのドアが微かに開いている。俺は悪い予感が的中したと悟りながら、ドアを開けた。 そこにはのぞみはいなかった。 のぞみが寝ていたベッドには一枚の手紙。 俺はそれを取ると震える手で中身を取り出した。 『望。いままでありがとうね。 わたしはあなたに逢えて良かった。 あなたのおかげで、わたしは生きる力をもらいました。 でももうすぐわたしは目覚めてしまうようです。 この素晴らしい、銀色に包まれた夢ももうすぐ覚めてしまいます。 だから、わたしはもう行きます。あなたがいない場所へ。 消える時に望には会いづらいんだもの。 では、さようなら。もう一人のわたし。』 それは別れの手紙だった。 極力感情を入れずに、しかし感謝の気持ちを込めた手紙。 しかし俺は滲んでいる文字を見て、のぞみの涙を思わずにはいられなかった。 「馬鹿やろう……」 俺はやるせなくなって部屋を出た。 導かれるように玄関に行き、靴を見ると、のぞみにプレゼントした靴は消えていた。 それを見るとさらに俺の心の中に悲しさが広がってくる。 結局、俺は呟いていた。 「さよならくらい、言わせろよ……」 玄関を開けると凄まじい量の雪が家へと入ってきた。 この激しい吹雪と共に、のぞみは姿を消した。 |