「それで、大丈夫なのか? 医者には見せなくても」 「ああ。熱も無いし、一晩休んだら意識は戻ったし。ただ、どうにも体がだるいみたいで起き上がれないんだよ」 俺と干場は帰り道を歩いている。 終業式まで、冬休みまであと二週間をきった事で、授業への身の入らなさは天下一品だ。 対する先生もカリキュラムに余裕が出来たのか少ない範囲を詳しく説明するので覚えるのも楽。 今の学校はちょうどいい暇つぶしの場と言える。 「そうか……のぞみちゃん、大丈夫かなぁ。俺が慰めに行ってやろうか?」 「今は甘えてるだけだろ。見舞いにでも来たら付けあがるぞ。やめとけやめとけ」 俺は極力平静を装って干場と接している。 もし本当の事を言ったら余計な心配をかけるだろうから。何しろ、赤峰の事で完全には立ち直ってはいないんだから。 いくら干場でも重い現実を二つも背負うとなるときついはず。 「んで、今日はやってくのか? フォースソルジャー」 俺は少し考え込む動作をしてから決めている答えを言う。 「いや、止めとくわ。のぞみが帰って来いってうるさいから」 そう言って俺は干場から別れる。俺の背中に干場から声がかかった。 「高階。いつまで、のぞみちゃんを居候させとく気だ? 両親、もう少しで帰ってくるんだろ?」 「……まあ、何とかなるさ」 俺はそれだけ返して帰り道を急ぐ。 干場の言った通りだ。 クリスマスイブ、十二月二十四日には両親が帰ってくる。その時にのぞみがいたら一体どう説明すれば良いんだろうか? まず、良い説明は浮かばない。 しかしそれよりもより気がかりなのは……。 「もう、四日か」 十二月十二日。 のぞみがキッチンで倒れてから、四日が過ぎていた。 静かに家のドアを開ける。 明かりを自分で付けて、俺は二階へと上がった。 極力静かに上がるようにしているがどうしても階段を上がる時の足音は消せない。 のぞみの部屋の前に立ってドアをノックしようとすると内側から声をかけられた。 「お帰り〜。入っていいよ」 「……ただいま」 俺はゆっくりとドアを開けてのぞみに声をかけた。 のぞみは俺が渡した小説から顔を上げて俺を見た。 「おかえり〜。あぁ〜早く続きが読みたいよ! 持ってきてよ〜」 「病人が何言ってるんだよ。……でも、どこが面白い?」 「主人公の女の子が大好きなお兄ちゃんのために命を捨てようとするところ!」 のぞみは目を輝かせて俺に小説の続きをねだっている。これで自分で立つのも苦労するような状態の女とは思えない。 でも実際、のぞみの体力は急速に失われた。 「よい……しょっと!」 「馬鹿! 何、無理してんだよ」 俺は自分の体を何とかして立たせようとしているのぞみの横に立って支えた。 しかしのぞみは嫌がって俺を押しのけた。その力もそんなに強い力ではなかったが。 「トイレだよ……。このH!」 のぞみはいーっと俺を牽制してから部屋を出て行った。しょうがないなとため息をつく。 だが、そうするだけでどれだけ今ののぞみに負担がかかっているのか俺には分かった。 のぞみが夜に同じように起きて、廊下の途中で息を切らせながらも歩いているのを俺は見ている。 医者に行こうと何度言おうとかと思った。 だが、のぞみの目は語っている。 『誰にも言わないで』 と。 どうしてそこまで俺以外の他者との交わりを拒絶するのか俺には分からなかった。 何か、俺の昔と同じ感覚がする。しかし違う気もする。 (いつまで経ってものぞみの捜索願が出ない事も気になる。テレビでも新聞でも、街角でもそんな記事は見ない) のぞみが俺の家に来たのは十一月二十四日。 二週間が過ぎた。 にもかかわらずのぞみの捜索に関する情報が全く入ってこない。 まるで、誰ものぞみの事を探していないようだ。 「まさか」 俺は頭を振って部屋を出た。 自分の部屋に行ってのぞみが読んでいた小説の続きを持っていくためだ。 「望? どこ行くの?」 その声はのぞみの物だったが、全く別の人の声に聞こえた。 振り返ると泣きそうな顔で俺を見るのぞみ。 こんなのぞみは見るのは初めて―― (いや、一度だけ見た) そう。一度だけこんなのぞみを見ていた。 のぞみが来て何日か経って、俺が帰って来た時にのぞみが震えていた時があった。 あの時は何がなんだか分からずに、ただのぞみをなだめていて、すぐに立ち直っていた。 今ののぞみは、正にあの時と被っている。 「どこにも、行っちゃやだよ」 「どこにも行かないよ」 俺は小説の続きをのぞみに渡して、言った。 「少し出てくる。何、すぐ戻るから心配するな」 俺は不安そうなのぞみの視線に見送られて外に出た。何となく俺が今出来るのはこんな事だけなんだと思いながら。 「のぞみ。外行くぞ」 「え……」 息を切らせて帰ってきた俺を見て唖然としていたのぞみが、更に目を丸くする。 俺はそんなのぞみを無理やり立たせてゆっくりと階下に降りていく。 「ねえ、どうしたの? 望……?」 「少し早いけど、クリスマスプレゼントだ」 「えっ!?」 のぞみは驚いて玄関に置いてある靴を見た。のぞみの靴は夏用の靴で、冬の道を歩くには少し不憫だった。だから俺は、俺の心を救ってくれたのぞみにクリスマスプレゼントとして何かをあげたかった。 「靴、履いてくれよ。辛いのは分かってるけど……」 のぞみは頷いた。どうしてか、その瞳には光が戻っていた。 俺が買ってきた靴を履く。そして、のぞみは――その場で飛び跳ねた。 「な、んで……?」 「望! 雪合戦しよ!!」 急に生気が戻ったかのようにのぞみは俺を引っ張って外に出た。 走るスピードも速く、俺は引っ張られているために転びそうになりながらのぞみに後を追った。 何がなんだか分からない。でも、今ののぞみがとても生気に満ち溢れ、幸せなんだという事は理解できた。 (大丈夫だ。これから、のぞみは大丈夫なんだ……) そう思うと、嬉しくなった。 俺は心の中にあった感情が素直に表面に出てくるのを理解する。 俺は、のぞみが好きなんだ。 多分、本当に。 「さあやろうよ!!」 のぞみが俺を連れてきたのは公園だった。 初めてのぞみと会った公園。 のぞみは無邪気にいくつも雪玉を作って自分の前に置いていく。 俺もつい昔に戻ったような感覚に包まれて、雪玉を作っていった。 「行くよ〜」 お互いに戦闘態勢が整って、いざ戦闘開始。 高校生にもなる俺達が、いつの間にか日が暮れた公園内で、雪合戦に興じている。 はたから見るとなんとも滑稽な風景だろう。 だが、今の俺達にはそんな事はどうでもよかった。 俺達にとって、今この時は最も大事な時なんだから。 《ねぇ……》 何個目かの雪玉が俺に当たった時だった。 頭の中で声がする。 《つめたぁい》 幼い少女の声。 言葉とは裏腹にとても楽しそうな声。 《おなかすいた》 少女はそうして、俺に笑顔を向けた。 その笑顔は――目の前で雪玉を投げつけてくる少女の物だった。 「のぞみ!」 俺は手を止めてのぞみに叫ぶ。のぞみは先ほどまでの笑顔を押し込めて、無表情で俺を見返していた。 「のぞみ、俺は……お前に会った事があるのか? お前は、一体誰なんだ?」 俺はそう訊ねたが、甦ってくる記憶が確信させている。 記憶の洪水。 今まで何かによって堰き止められていたかのように記憶の奥底に封印されていた物があふれ出てくる。 俺とのぞみは会った事があるんだ。 しかも、この公園で。 「どうして忘れてたのか分からない。でも、俺とお前は確かにここで会った。教えて欲しい。のぞみ……お前は一体――」 「思い出しちゃったんだ」 のぞみは無表情のまま俺に近づいてきた。 ゆっくりと俺達の間にあった雪を踏みしめて。それが俺には忘れていた記憶が埋められていくように見えた。 「多分、望が人を信じる事を止めた時、それまでの記憶を自分の中に押し込めちゃったんだよ。望が味わった絶望はそれだけ辛い物だったんだね」 のぞみは歩きながら自分の考えを語っていく。 しかし俺にはのぞみの考えを聞く余裕は無かった。 「のぞみ……お前……」 俺に近づいてくるのぞみの体が、少しずつ薄らいでいく。 体がまるで粒子に分解されていくように。 俺はわけが分からず、しかしそれが尋常じゃない物なんだと気付いた。 「のぞみ!」 俺は目の前に辿り着いたのぞみの体を抱いた。 こうする事で消えそうになるのぞみをこの場に留めようとしたのかもしれない。 しかし全く理解できない状況に頭は混乱するばかりだ。 だが、のぞみははっきりと言葉を続けてくる。 「幼い頃の一番楽しい記憶。それを望は押し込めた。自画自賛だろうけど、多分わたしを信頼してくれたんだろうね」 何も起こっていないかのようにのぞみは語り続ける。俺は何もできずにただ、抱きしめていた。 「覚えていなかったかもしれないけど、望、昔は雪が大嫌いだったみたいだよ。だって私と始めてあった時に泣いていたんだもん」 そうだった。 確かあの時は冬は寒くて苦手だった。 そして雪合戦でボロ負けして悔しかったんだ。 雪なんてなければいい、と思っていた。そして公園のベンチで泣いていた。 そこへ声をかけられたんだ―― 《おなかすいた》 その少女は俺の前に突然現れた。 幼い俺はわけが分からず周りを見回す。この公園に入ってベンチで泣き始めてから雪がちらほらと降っている。 しかし少女が来たらしき足跡はどこにも見えない。 《どこから来たの?》 《分からない》 幼い俺が問い掛けても少女は首を傾げるだけ。 だが子供なんてものはそんな事を長く気にする事はない。 何しろ少女のほうが泣いていた俺を引っ張って起こしたのだ。 《何するんだよ〜》 《ねぇ、あそぼ! わたし、雪だいすきなの!》 《ぼくはきらい!》 俺は少女の手を振り払ってその場にうずくまった。少女は覗き込むように俺を見ている。 何も言わない俺を、何も言わないで見ている少女。 根負けしたのは俺のほうだった。 《なんだよ〜》 《どうして雪がきらいなの?》 少女が本当に分からないと言った様子で訊ねてくる。俺はふて腐れながらも言った。 《だってさむいし。みんなと遊ぶにも、ぼく雪遊びがにがてなんだもん》 そして俺は公園から出ようと歩いて行く。しかし少女は俺の手を引っ張ってその場にとどまらせた。 《いっしょにあそぼ》 《……いいよ》 少女に合意したのは、その娘が見た事もない娘だったからだ。俺はこの辺では子供達の中では外で遊ぶほうだったから、知らない子供が増えるとすぐに把握できた。 その少女は確かに見た事はない。 しかし心惹かれるものはあった。何か自分に似ているような気がして。 そして俺達は日が暮れるまで遊んだんだ―― 「次の日も会えるかと聞いたら、お前は口を濁した。そして結局、ずっと現われる事はなかった。一体今までどこにいて、どうして今になって俺の前に姿を現した?」 「……それは、ね……」 のぞみは言いにくそうに言葉を濁らせる。 いや、これは…… 「のぞみ!?」 のぞみの体の異変は止まっていたが、俺の体に寄りかかって息を荒げていた。 やはり無理をしてここまで来たと言うのか? でもあまりにも容態が変化しすぎる。 これではまるで…… 「最後の元気、使っちゃったみたいだよ」 のぞみは笑っていた。 苦しそうに顔をゆがめていても、なお笑おうとしていた。 そんなのぞみがあまりにも痛々しい。 「のぞみ! 病院に連れて行く! 大丈夫だから――」 「むり、だよ」 のぞみは俺の手を掴んだ。その手の冷たさに俺は短く叫び声を上げてしまう。 「わたしは、もう、死んでるんだから」 のぞみの手から力が抜ける。 そしてまたのぞみは意識を失った。 俺にはのぞみの言った言葉の意味が理解できなかった。 いつの間にか雪が俺達二人を包んでいた。 一気に激しくなる雪。吹き荒れる雪に少ししか先が見えない。 まるでこれから先ののぞみの運命のように感じた。 それから一週間、のぞみの意識が戻る事はなかった。 |