十二月八日 月曜日 俺はいち早く学校に来ていた。 干場が登校してきたらすぐに謝ろうと決めていた。何もかも遅いかもしれないけど、謝るだけはしようと思っていた。 (明日になれば、何とかなるよ。絶対、大丈夫だよ) のぞみは起きてきた俺にいつも通りに接して、朝食を出してくれた。 昨日のぞみが言った事を、俺は信じてみようという気持ちになり始めている。 今まで、真島と別れてから信じる事が出来なかった他人との繋がりを、久しぶりに信じる気になっている。 (のぞみの、おかげだよな……) 本当に不思議な少女だ。 のぞみと出会ってもう二週間が過ぎている。その間に自分が徐々に変わっていくのを感じた。そして、それを素直に受け入れようとしている。 俺は自分の机について授業の予習をしながら干場が来るのを待った。 徐々に登校してくるクラスメイト。 誰もがいつもぎりぎりに来る俺がいる事に驚いているらしい。 (遅いな……) いつの間にか時刻は八時半になっていた。もうすぐホームルームの時間。 それでも、干場は来ていない。 そして赤峰も。 (……まさかな) 俺は一つの想像が頭に浮かんだ。しかしあまりに突拍子過ぎて振り払う。 その直後だった。 担任が前の扉から。そして赤峰と干場が後ろの扉からほぼ同時に教室へと入ってきた。 「「おはようございます!!」」 「おー、赤峰と干場はぎりぎりだが、まあいいだろう」 加賀先生はそう言って生徒名簿を開き出席を取り出した。 赤峰と干場も自分の席に着く。 「おはよう」 俺は何とか普通に干場に接しようと言葉をかける。だがどこかぎこちなくなってしまった。 しかしそれよりも干場は全く反応しなかった。 聞こえていなかったのではなく、明らかな無視。 それも仕方が無い事だ。俺が招いた事なんだから。 (仕方が無い、か) やはりもう干場と仲を戻すのは無理なんだろうか? と、加賀先生が俺の名前を呼び俺が応えた時だった。 さっ、と俺の机の上に紙片が滑る。干場が後ろ向きに投げた物だった。 俺は意味が分からず紙を開いてみる。そこにはこう書かれていた。 『放課後に、いつもの場所で待つ』 いつもの場所、屋上か? どうやら昨日の事について俺に何かを言う気なんだろう。何かとは間違いなく……。 (まあ、覚悟は出来ているさ) 二、三発は殴られるか。絶縁宣言されるか。 どっちにしても俺が招いた事だ。甘んじて受けようじゃないか。 俺は次の時間の用意をしながらずっと干場を見ていた。干場と一瞬、目線があったような気がした。 放課後。 俺は屋上へと向かっていた。先生に呼び出されて少し遅れてしまったが、その様子は干場も見ているはずだから許してはくれるだろう。 そして折り返し地点を曲がろうとしたその時だった。 「ごめんなさい」 上のほうから声が聞こえた。 俺は咄嗟に足を止めてしゃがみこむ。そして折り返し地点から顔を覗かせて屋上を見た。 そこには赤峰と干場がいた。 俺に背を向けるように立っている赤峰。赤峰を寂しそうに見つめる干場。 これは……間違いなく、告白の場だ。 「どうしてか、理由を聞かせてくれないかな」 「わたし。どうしても思えないんだ」 赤峰は顔を少し伏せたが、すぐに上げて干場を真正面に見つめた。 「あなたが、どれだけ本気なのか見えない。言葉にも、行動にも」 「見えない……か……」 「ごめん。ひどい事言ってるとは思ってる。でも、これがわたしの正直な気持ちだから」 赤峰が一歩階段を下りる。俺はそれを見て静かに素早く階下に逃げた。 すぐ下の教室に逃げ込んで赤峰をやりすごす。すぐに赤峰は俺が隠れている教室を過ぎていった。 赤峰の姿が見えなくなった後、屋上へと昇る。 そこには立ったままの干場。 「覗き見はよくないな」 「気付いてたのか」 「当たり前だろ。俺が下を見下ろしているんだからな」 なら、干場はどうしてここまで落ち着いていられるのだろうか? 自分が見られたくない現場を見られたはずなのに。 昨日、赤峰が俺に告白した事を聞いて、そして今日は赤峰にフラれたというのに。どうしてここまで落ち着いていられるんだ? 「赤峰さ、俺に真剣さが足りないってさ」 干場は特に悲しそうな顔をせずに言葉を紡ぐ。その顔を見ているのがとても辛くて、俺は顔を逸らす。 「顔を逸らすなよ」 干場は俺へと近づいて胸を掴んだ。俺に怒りをぶつけるというわけでもなく、本当に俺を自分のほうへと向かせるためだけに。 俺は手を外して干場を見た。真正面から、逃げずに。 ここで逃げたら、ここに来た意味が無い。 「俺さ、分かってた。赤峰がそう言うだろうって事」 「……真剣みが見えないって?」 「ああ」 干場は頷き、階段を上がる。今の俺達の位置だと下を通る誰かに会話を聞き取られかねない。 俺も干場に続いて一番上へと上がった。 「俺、昔から女の子と仲良くなるのって得意だったんだよな。感性が女に近いって言うか、男のダチよりも女と遊ぶほうが多かった。流石に中学辺りだとそんな事はなかったがな」 「お前の性格ならそれっぽいな」 俺がそう言った時だった。急に干場の眼光が厳しくなり、俺はたじろぐ。 怒りか、それとも悲しみかよく分からない眼光。 「昨日、お前言ったよな。『何も知らないのに……』って。お前も、俺の事を何も知らないだろ?」 的を得た言葉に俺は何も言えない。しかし干場はため息をひとつ吐くとすぐに鋭い眼光を内に閉まった。 少し白けた間を取り戻すように咳を二、三度してから再び話し出す。 「俺さ、誰とでも多分、上手くいかせることはできると思うんだ。今までだってそうだったし。だから、俺は最高の一人を見つけたい。赤峰は、今まで接してきた女の中でも、かなり違ったんだ。あんなに好きになった娘は……初めてだったんだ」 干場は顔を赤らめて虚空を見上げた。 俺は初めて、干場の心の中を見た気がした。当たり前だ、俺自身が他人を見ようとしなかったんだから。 こいつは軽く女と遊んだり出来る表面とは違って、内面は凄く綺麗だった。 たった一人を探すために、干場は生きている。 そしてその思いはこんな俺にでも本気なんだと思わせるほどの物だった。 言葉で、ここまで干場の心が伝わってくるなんて、俺には理解できない。でも、一つ確かな事。 それは……。 干場は、本当に赤峰が好きだったんだ。 「まあでも、伝わらなかったら意味ないしな。フラれちまったもんは仕方がないか」 「干場……」 俺は自分がどれだけ嫌な、駄目な人間かがこの男の前ではっきりと分かった。だから、このまま干場の前に立っているのは申し訳なかった。 「俺を、殴れ」 「高階?」 考えもしないことを言われたかのように干場は唖然として俺を見る。 「俺、昨日お前にした事、本当に悪いと思ってる。許してくれなんて虫のいいことは言えない。でも……言わないと後悔すると思う。だから、言わせてくれ。……ごめん」 俺はじっと干場を見詰めた。俺は本気だった。 たとえ許されなくとも、殴られるのは当然だと考えていた。だから、じっと干場を見た。 干場は意を決したように拳に息を吹きかけ、振りかぶる。 次の瞬間、俺の頬に衝撃が走った。 「……平手、打ち?」 「しかも手加減してやったぞ」 俺は唖然となって干場を見るしかない。一方、奴は俺のその様子を見てクスクスと笑い出した。 「お前さぁ、今時殴り合って友情を深めるなんての、流行らんぜ。熱血青春ドラマじゃないんだからよ〜」 干場は呆然としている俺の横を通って降りていく。俺はまだ動けなかった。 そんな俺へと顔を向けて干場はうんざりとしたような口調で言う。 「ほら、さっさと帰ろうぜ。桃華堂でパフェ奢ってもらわなきゃいけないからなぁ」 「な……なんでだよ!」 俺はようやく干場の後を追った。 いつもの、俺達の空気だった。 なくしてしまったのかと思っていた物が、再び俺の下に返ってきたんだ。 前までの俺なら、諦めて捨ててしまった友人。 でも……。 「昨日殴られたんだからそんくらい払え。しばらく貸し、な」 「了解」 俺と干場は笑いながら階段を降りていった。これで全てを許されるなんて思ってはいないし、思ってはいけないと思う。 でも、干場はチャンスをくれた。やり直すチャンスを。 なら俺はそのチャンスに賭けて、また友人として干場に接していくしかない。 今度は、本当に《友達》になれるように。 でも心のどこかで声がしていた。 (あの時、真島ともやり直しがきけば良かったな……) それはあまりにも空しい願いだと思う。 その時、干場が小さく呟いた事を、俺は聞き逃さなかった。 「どうして思ってる事が伝わらないのかな……」 その答えは、俺自身が探している物と同じだった。 「ただいま」 もう慣れたこの言葉。 俺は自分でも恥ずかしいくらい気分が高揚している事が声に出てしまっていた。 「お帰り〜」 俺のそんな所を分かっているのか、のぞみも弾んだ声で応えてくれる。 「干場君と、仲直りできたみたいだね」 「ああ」 居間で俺を迎えてくれたのぞみを、俺は見返すことができなかった。 気恥ずかしさと、何かが俺の中に生まれてくる。 (何、動揺してるんだよ……二週間ずっと暮らしてるだろ? 今更恥ずかしがる事は……) 何とか動揺を押さえようとしている俺の努力が通じたのか、のぞみは夕食の準備に戻っていく。その途中で振り返って一言、言った。 「望、変わってきたよね」 「……そうだな」 素直に。いや、素直と言うわけでもないが、俺はのぞみの言葉を肯定した。 真島の事を振り返り、のぞみに言った事。そして干場を失いたくないと思った事。 俺はようやく自分の閉じ篭った殻から出られそうな気がしていた。 自分はもう人と心から向き合える事は無いんだと分かったように諦めて、抗う事を止めていた俺。 空しいと思っていてもまた裏切られる事が怖くて自分から人との交わりを避けた。 そこに来たのが、のぞみだったんだ。 (のぞみが俺の心に入ってきて、俺は嫌だと思っていた。でも心のどこかでは、触れて欲しかった……) なんにせよ、俺は変われる。 変われるはずだ。 ゴトン、という音が鳴って俺は思考から戻った。 自然と視線はのぞみが立つキッチンに向かい、姿が無い事に違和感を覚える。 「のぞみ……?」 俺は震えていた。 立ち上がってキッチンへと入る。 そこには、倒れたのぞみがいた。 「のぞみ!!」 俺の叫び声はのぞみには聞こえてはいないようだった。のぞみは青白い顔をして、荒い息を吐いている。 無意識に俺はのぞみを抱き寄せて、揺さぶっていた。 「のぞみ! のぞみ!!」 「……のぞ、む」 のぞみの手が力無く下がる。 俺は急激な脱力感が体を襲い、しばらくの間動けなかった。 |