Powder Snow 03


 いつものように眼が覚める。
 しかし暗いままだ。何故か目蓋を開けるのを体が拒否している。
 何か、触れているわけではないが何かの圧迫感があった。

(なんだ? 誰か……いる?)

 俺は意を決して眼を開けた。ほぼゼロ距離に少女の顔がある。

「うわあぁあ!!?」
「きゃ!?」

 俺が叫ぶと同時に少女も驚いて顔を離した。一瞬後に俺も反動で顔を上げてしまったので、もし少女がとどまったままなら顔同士が激突していただろう。
 あまりいい結果が待っているようには思えなかった。

「んもう、驚かさないでよ」
「あんたが驚かしたんだろうが!」

 俺は上体を起こしてから少女を見た。少女は悪びれずに言ってくる。

「だって、ご飯できたから呼びにきたんだけど、可愛かったんだもん寝顔」
「あんたなぁ……」

 と、ここで少女は顔を少ししかめる。意味が分からず見ていると今度は口を少し突き出して、不満そうな口調で言ってきた。

「あんた、じゃなくて望って呼んでよ! 折角名前覚えたんだから」
「自分と同じ名前を言うのは嫌なんだよ! 違和感ありまくりだ!」
「それくらいいいでしょ――っとそうだ。ご飯できたから呼びに来たんだった」

 少女――のぞむはいきなり話題を変えて俺の手を引っ張ってきた。
 俺は引っ張られるままにベッドから出る。

「分かったって。着替えてから行くから、先に下りてろよ」
「うん、了解!」

 のぞむはそう言って俺の部屋から出て行こうとした。でも、入り口で立ち止まる。俺が不審な目で見ていると振り返って頭を掻いた。

「忘れてた。おはよう、望」
「……おはよう」

 俺の返事に満足したのか、のぞむは階下に降りていった。足音は軽快で、気分がいいんだろう。
 俺も久しぶりに安堵する自分がいる事を否定できなかった。
「おはよう、か」

 最後はいつだったか。
 ちゃんと「おはよう」と挨拶をしたのは。




 目の前に並べられた食事の数々を見て、俺は思わずうめきを洩らした。
 テーブルの向かいには目を輝かせて感想を待っているのぞむ。
 俺は――耐え切れずに言ってしまった。

「朝からこんなに食べられるか!」
「えー、でも朝しっかり食べないと一日持たないよ〜」
「だから昼食があるんだろうが!」

 そうなのだ。いつもはパン二きれに牛乳しか飲まない俺なのに、今はサラダやらなんやら四品ほど置いてある。
 多分、俺が買い置きしておいた二日分の食料を使っているだろう。
 俺の怒りが通じてないのか、のぞむはきょとんとした顔をしている。本当に、もどかしい。
 自分の思いが伝わらないのは。

「……もういい」

 俺はさらに言い募ろうとして、止めた。
 のぞむは更に困惑した表情を浮かべて俺を見ている。俺は構わずにパンにジャムを塗り、食べ始める。

「もしかして、気に入らなかった?」
「別に。朝ってほとんど食べないから驚いただけ」

 怒るのも疲れた。本当は今日の夕飯をどうするのかと怒りたかったが、俺が疲れるだけだろう。でも、ここでのぞむは俺の予想外な表情をしていた。
 彼女は寂しげに俺を見つめてきた。
 その視線を見ないようにしていたが、それは動かされない。俺はしょうがなく真正面から彼女を見た。

「望。言いたい事があったら言って」
「別に。何もないよ」

 俺は取り合わずに食べ続ける。彼女はそれからしばらく俺を見ていたが、腹の虫の音に顔を赤くして食べ始める。しばらく沈黙が空間を支配した。

「ごちそうさま」

 俺は皿を重ねて言う。見ると彼女が目をぱちくりさせている。どうやら俺の食器を見ているらしい。

「ほとんど食べないけど、食べれない事はないんだ」

 俺は全てのおかずに手をつけていた。一品一品自分の皿に取って食べる形式だったので俺の皿は四つ。ちょうど並べられた朝食の数。

「あ……お粗末さまでした」

 俺の態度が余程以外だったのか彼女は一瞬遅れて返事を返した。

「おいしかった?」
「ああ。美味かったよ。俺より美味いじゃん」

 俺はソファに置いておいた鞄を取った。今からなら歩いても充分間に合う。

「あ、学校だよね。行ってらっしゃい」
「……あのな」

 俺は提案を考えていた。彼女が了解するかは分からないが。彼女は不思議そうに俺を見る。よく変わる顔だな、なんて思いながらも本題を口にする。

「お前さ、のぞむじゃなくて《のぞみ》って呼ぶから」

 俺の言葉の意味が分からなかったのか、首をかしげている彼女。しばらく経ってから意味が分かったのか口を尖らせて言ってくる。

「えー、どうしてー?」
「だって同じ名前だとやっぱり紛らわしいだろ。《のぞむ》も《のぞみ》も読み方としたら変わらないし、それに俺の家に居候しているんだから優先権は俺にある」
「うー。でもでも、自分の名前って大事なんだよ? そう簡単に変えちゃいけないよ!」

 確かに正論だったが、やはり同じ名前は何か嫌だ。こんなことで変に気を使う思いはしたくない。その時、彼女の反論に俺は代案を考えついた。ふと思いついたものをつらつらと並べる。

「じゃあ、あだ名で呼ぶぞ。ノーミンとノーとノゾとどれがいい?」

 彼女はしばらく唸っていたが、やがて観念したのかため息をついた。

「……分かったよ。わたしは《のぞみ》。君が《のぞむ》ね」
「そうそう」

 俺は彼女――のぞみが首を縦に振るのを確認すると玄関に向かった。その背に声がかけられる。

「行ってらっしゃい」

 懐かしい響き。
 俺は気恥ずかしさに逆らおうとしたが、やはり受け入れた。

「行ってきます」

 多少の気恥ずかしさ。そして久しぶりの充足感に心を躍らせて、俺は学校へと歩き出した。




 時間はあった。このまま何もなければ三十分は登校限界時間まで時間がある。だから、俺は公園に寄ってみた。
 のぞみと出会ったあの公園だ。
 公園は朝のこの時間帯だけあって誰もいない。微かに霜が降りていて、おそらく今日にでも雪が積もるのではないかと予想できた。
 とりあえず、のぞみがいたベンチへと近づく。もうぼろぼろのベンチ。
 思えばのぞみはよくこんなベンチに座っていたと思う。俺が座ったら、おそらく崩れてしまうような脆さが見える。

「あいつ……ここで、何してたんだ?」

 思えば第一声が「お腹空いた」だった。
 昨日の事なのにやけに遠く感じる。まるでもっと昔に言われたような……。

(やっぱり、なんか頭に引っ掛かってるんだよなぁ)

 のぞみとは初めて会ったような気がしない。初対面のはずだ。全く出会った記憶は……ない。

 既視感。

 そんな単語が頭を過ぎる。
 それが一番違和感が無い解答かと思う。

「学校行くか」

 意外と長い時間考えていたんだろう。時計を見ると、今から歩けばちょうどいい時間だった。そもそも早く家を出てしまったのものぞみが居たからだ。
 女の子と二人きりで時間を潰すのは恥ずかしくて耐え切れなかった。

(早めに家出て遅刻は嫌だしな)

 公園を抜けると他の生徒達が登校していく。どうやらうちの学校に行く正式な登校ルートはここらしい。俺の家は確かに少し離れているから納得するが。

「あれ? 今日はこっちなの?」

 聞き覚えのある声に振り向くと赤嶺が立っていた。幻の珍獣でも見たかのような視線を向けている。

「新たな登校ルートを開拓したんだよ。というか珍獣を見るかのような視線は止めてくれ」
「あー、ごめんごめん。珍しかったからさ」

 赤嶺はそのまま歩き出した。俺を通り過ぎて。
 何となく足を踏み出しそこねてその場でじっとしていると、赤嶺が振り向いた。

「そのまま立ってると遅刻するよ?」
「……分かってる」

 俺は歩き出す。
 赤嶺の横を通ると彼女はそのまま俺の横につくように歩き出す。
 結局、一緒に登校している形になる。
 女子と登校なんてかなり久しぶりだし、どことなく視線がイタイ。
 少し視線を飛ばすと何人かの男子生徒がこちらを見ていた。こちらというよりは赤嶺を見ているんだろうけど。

「さすが、凄い人気だな」

 俺の呟きを聞いて赤嶺は苦笑した。その意味が分からないから視線で問い掛けてみると、赤嶺は言ってくる。

「わたしじゃなくて、高階君を見てるんでしょ?」
「まあ、そうなんだろうけど。でもそれは赤嶺が人気だからだろ」

 赤嶺は更に苦笑している。なんだか馬鹿にされている気がした。

「なんで笑ってるんだ?」
「あ……ごめん。だって、気付いてないんだもの」

 赤嶺は一度頭を下げてから言った。

「高階君、自分がかっこいい事知らないみたいね」
「俺が?」

 それは確かに分からない。
 というか、冷やかしだと思って聞き流していたような言葉だ。
 女子から言われたのは初めて――いや、二度目か。

「高階君。クラスの女子に人気なんだよ? 他の男子よりもどこかクールでさ。しかもたまに面白い事言うから、更に好感度が高いし」
「……物好きだな」

 それを照れと取ったのか赤嶺はまた笑った。そして遠くに友達を見つけたんだろう、俺に一言声をかけてから走っていった。
 俺はペースを落とさずに歩くだけ。そのうち学校が見えてくる。

(本当に、物好きだな)

 本当に。
 俺がクール?
 それは違う。誰も俺の本心を、正体を見ている奴はいない。
 当たり前だ。
 俺が見せていないものを、誰も見る事は出来ない。

(そうなんだ。俺がのぞみに対して不快感を持ってしまうのはそのためだ)

 のぞみは俺の中に触れてくる。
 何故かは分からないが、他の奴よりも俺の心に触れてくる。それは本人が意識してやっていることではないんだろうが。
 実際に、彼女は俺の事は何も訊いてこない。それに安堵感を感じたのは確かだ。
 だが後々になって不快感のほうが勝ってきている。
 触れてくると言うよりも、あいつの一挙一動に俺が過敏に反応してしまう。
 変な出会い方をしたから、一度飯を食べさせて家に泊めたからか?
 兎に角、彼女と一緒に居たら俺は心を曝け出してしまいそうになる。

(嫌だ……それだけは。誰にも理解されないのに)

 不意に恐怖が甦ってきた。
 常に足は前に歩き出して体は動いていると言うのに体が震えている。
 冬の寒さの為にくる外側からの冷気ではない。
 内から来る、真の冷気。
 体中を血管に乗って流れていくようだ。

(大丈夫だ。大丈夫。もう……恐れる事は無い)

 静かに、自分を落ち着かせる。
 ともすれば止まってしまう足を強引に進めている事も幸いして、すぐに寒気は立ち去った。
 気付くと校門の中に入っている。

(大丈夫だ。俺の心はもう弱くない。一度壊れた物は、もう壊れない)

 息を吐いて、心を落ち着かせる。
 思い出すことの無かった記憶が甦ったのも、久しぶりだ。
 何から何まで久しぶりの感覚。
 それもこれも、のぞみに会ってから。

(……のぞみ、か)

 のぞみが悪くないだけに責められない。
 誰かに責任転嫁するほど人間腐ってはいない。
 これは――俺の問題だ。

 キーンコーン、カーンコーン

「あ!?」

 時計を見ると八時二十五分。
 リミットまで後五分だった。

「なんでまた遅刻になりそうなんだよ!?」

 俺は急いで玄関に向かった。
 暗い感情はすでに吹き飛んでいた。皆勤賞の記録の前には邪魔でしかなかった。




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