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● SkyDrive! --- 第九十七話 ●

「皆、本当によくやったわね」

 谷口は椅子に座って自分を見上げてくる男子部員たちに向けて満面の笑みを浮かべていた。
 女子のミーティングは既に終わっており、残っている男子と亜里菜の座っている場所に谷口は移動し、一声かけた。
 本来ならば全員立たせた上で今日の成績を報告させる流れだが、疲労困憊で座り込んでいる六人を見ると自分から自然と口を開いていた。

「第四シードを破っただけでも凄かったけれど、ベスト8まで一気に駆け上がったわね。おめでとう」
「……当然、っすよ。俺らの目標は……ここじゃないっすから」

 ふらつきながら立ち上がったのは真比呂だった。
 汗で体が冷えることに気をつけて、既に栄水第一のジャージを着こんでいる。周囲には六本以上のスポードリンクのペットボトルが転がっていて、体から抜けていく水分の代わりを確保しようとした努力の跡が見られた。

「そう、だ。全国大会まで、あと三回勝てばいいんだから」

 次に立ち上がったのは理貴だ。
 エースダブルスの一人として、今日の試合はすべて相手のエースダブルスとぶつかった。シングルス三人が固定オーダーの一方でダブルスだけは第一と第二のどちらに配置するかを谷口が考えて、決定した結果だ。
 運がいいのか悪いのか、理貴と純のペアが相手の強者を引き受けている間に、隼人と賢斗が第二ダブルスを辛うじて倒す。その後のシングルスで真比呂と礼緒が勝つという繰り返しで、全て3対1というカウントで栄水第一は勝ち進んでいた。

「でも、明日は、今日みたいに行かない、と思う」

 賢斗に支えられるように立ち上がって隼人は言う。全員の視線が自分に集まるのを肌で感じ取り、一呼吸置いてからゆっくりと自分の考えを口にする。

「今日で、俺たちのチームで理貴と純が穴だってことが把握された。明日はそこを突かれるはず」

 隼人は静かに言ったつもりだったが、言葉の終わりに座ったままの純の体が震えるのが視界に入ってしまう。あえて隼人は言い直すことなく、自分に注目する全員に向けて言う。

「谷口先生が上手く外してくれているけど、明日はそれも踏まえてオーダーを決めてくるかもしれない」
「……でも、もしかしたらその必要すらないかもしれないよ」

 隼人の言葉を引き継ぐような形で、亜里菜は試合のプログラムを見開いて見せくる。そこには丁寧に全ての試合の結果が書き込まれており、自分たちのブロックと連なる先を見る。

「このままいけば、第一シードの横浜学院と当たるのは間違いないと思う。さすがに、些細な細工は効かない、かな」

 第一シード。
 去年の選抜大会からインターミドルまで、全国の代表となったチーム。
 今回の大会も、下馬評では団体戦ならば確実に全国に進むだろうと考えられている。
 団体戦で全国大会に行くために必ず倒さなければいけない、最も高い壁。

「ふーん……確かに、これまでの負けをカバーするって考えだと太刀打ちできないかもしれないわね」
「それってつまり」
「それぞれが全力で勝つために試合をすること、かな」

 真比呂の問いかけに谷口はさらりと答えた。
 あまりにあっさりと、しかも当たり前のことを告げられた真比呂は開いた口が塞がらなかったが、そのまま笑いだして何度も頷く。勢いの良さはまるで荒々しいバンドが行うヘッドバンキングのよう。

「ぷっはぁ! たっしかに! てか、俺らはそれしかないっすよ、先生。俺たちには全力で立ち向かうしかないっす」

 誰もが真比呂の発言に、それ以上続きを語ることはなかった。力強く核心を貫いた言葉に谷口も笑顔で頷くとミーティングを終わらせようと口を開きかけ、違和感に動きを止めた。

「……小峰君? 大丈夫?」

 谷口の言葉に全員の視線が礼緒へと向かう。視線を集めた当人は俯いたまま浅い呼吸を繰り返して無反応。慌てた素振りで亜里菜が傍にしゃがみこんだが、すぐに表情を崩してほっと息を吐いた。

「寝てる、だけですね。疲れたんだと思います」
「確かに、礼緒は一番全力で頑張ってたもんな」

 礼緒は第二シングルスとして相手のエース級を相手にしていた。
 一度だけ、真比呂にその役が当たったが、相手高校の実力者と対戦相手となるのは必然であり、他のメンバーよりも激闘を繰り広げていた。
 この場にいる全員よりも、気力と体力を消費していてもおかしくはない。
 試合がある間は気持ちを張り詰めていても、終わった後に緊張の糸が緩んだのだろう。
 全員が同じ思いでほっとしている中、礼緒はびくりと体を震わせてから顔を上げた。口元から垂れそうになった涎を右腕で拭いてから周りを見る。全員が自分を見ている状況に何を言ったらいいか分からなくなったのか、魚のように口を開け閉めしていた。

「えーっと。ミーティング、終わった?」
「終わった終わった。今日はお疲れさん。明日も頑張ろうぜ!」

 真比呂の差し出した手をおずおずと取ってから立ち上がる礼緒。その礼緒の後ろに隠れるようにして、純が立ち上がるのを隼人は見逃さなかった。

「じゃあ、今日はもう帰りましょう。明日が勝負の一日なんだから、ゆっくり休みなさい」
『はい!』

 谷口の言葉に全員が呼応する。傍に置いてあったラケットバッグを肩に背負って歩き出したところで谷口はおもむろに純の後ろへと回ると肩に手を乗せて言った。

「外山君は私が送っていくわ。井上さんは他の男子の引率お願いね」
「え……引率って子供じゃないんですから……」
「そうだぜ先生! 家に帰るまでが試合ですって」
「それこそ子供じゃないのか、井波」

 亜里菜の言葉に矢継ぎ早に真比呂と理貴が口を挟むことで、場の雰囲気は和やかに過ぎていく。だが、他の男子よりも近くにいた隼人は谷口と純から発せられる微妙な気配を感じ取っていた。

(いや、井上も井波も、多分、中島も。俺が感じてる雰囲気を受け取ったから冗談めかしたんだろうな)

 亜里菜と真比呂が男子の重たくなりそうな空気を引っ張っていく。それを察知した理貴と賢斗が後に続き、礼緒は一人疲労感に眠そうにしながら歩いている。その後ろを気遣って歩いている隼人は、どうしても谷口と純の気配に押されてしまう。

(ここで黙ってるのもちょっと無理だな)

 隼人は意を決して振りむいて、谷口に向けて呟いた。

「先生。外山を送るのお願いします」
「任せておいて。高羽君」
「……先生?」

 隼人は谷口の笑みに別の感覚が込み上げるも、それが何なのか自分の中で上手く言葉に表せなかった。

 ◆ ◇ ◆

 前を歩く谷口の背中に、純は何も声をかけることは出来なかった。
 自分の今日の成績がどれだけ不本意なものだったかは理解している。
 それでも、どの試合も楽をしていたわけではなく、十分に強い相手で負けても仕方がないと思える相手なのは間違いない。むしろ、全国を目指すと再結成したバドミントン部が初めて全国に繋がる大会に出ているのだから、格下なのは当たり前。
 だからこそ、部員たちは何も言ってこないのだろうと思いつつも、心の片隅にはしこりが残っていた。
 それが何なのか分かっていても言葉にはしたくない。完全に逃げていることを自覚してしまい、谷口の背中からも目を背けた。
 だが、視線を逸らしたためにすぐに立ち止った谷口の背中にぶつかってしまった。

「痛っ!?」
「あ、すみません!」

 純は多少後方へとよろめいただけだが、谷口は前にあった自分の車に手を突いて倒れないように自分を支えていた。慌てた純の謝罪にも谷口はため息一つついただけで「いいわよ」とだけ言うと、鍵を開けて純を車の中へと誘う。

「助手席乗っていきなさい」
「はい……」

 純の返事に谷口は運転席へと向かって車の周囲にそって歩き出す。助手席の乗ってシートベルトをつけたところで谷口も運転席へと入り、手慣れた様子でシートベルトを着けるとエンジンをかけた。

「安全運転で行くわね。話したいこともあるし」
「それは……話したいことがなくてもお願いします」
「言うじゃない。あまり疲れてなさそうね」
「そんなことは――」

 谷口の言葉に返そうとしても、口からは何も言葉は出なかった。
 疲れているのは間違いない。手を抜かずに全力で試合に臨んでいた自信がある。
 しかし、純の脳裏によぎったのは疲労困憊の礼緒の姿だった。
 ミーティングの最中に居眠りをしていた礼緒は、間違いなく男子の中で最も疲れていた、と純は思っていた。体力は最もあるはずの真比呂でさえよろけていた。
 理貴も賢斗も隼人も。誰もが体力も精神力も削られた様子を見せて、憔悴と言ってもいいくらいだ。
 だが、自分はまだ余裕があると分かっていた。気付いていた。
 返答が途中で止まったことに谷口は言及せずに、車を発進させる。駐車場から道路に出て進んでいく車内はしばらくの間、走行音だけが通り過ぎる。
 その内、谷口は備え付けの音楽プレイヤーの電源を入れて、入っていたらしきピアノ曲が流れ出した。聴いているだけで穏やかな気持ちになる静かな旋律に乗せるようにして、谷口は言う。

「皆と外山君が違うのは、心の差よね。自分でも分かってるでしょうけど」
「……はい」

 頭の中全てを勝利への執念で染め上げて、シャトルをコートへと打ちこみ続ける。
 少しでも相手の隙を探して、叩き込むために戦略を練る。相当以上の実力差がなければ、バドミントンは知略のスポーツ。そしてその知略は燃えるような勝利への執念から生まれる。そのための心が足りないと純は既に理解していた。同じように強敵と試合をして疲れているはずなのに他の男子と違うのは、心の底まで勝利を求めているかの差だった。

「……俺は、皆の……いや、理貴の足を引っ張ってるんです」

 俯きながら外山は思いを口にする。谷口のほうは見ずに助手席側のドアの窓から次々と変わっていく景色を見つめて、外に言葉を送るように。それでも狭い車内では言葉は跳ね返り、谷口に届いた。

「四月に、高羽たちに誘われて入った時はまだ違ってた。このままじゃ終わりたくないって思って。こいつらとなら全国優勝を目指して競っていけるって思ってたんです。でもいつの間にか、俺の中から強い気持ちが消えてしまっていて。理由は分かっていても、どうしてそうなったのかは理解できないんです」

 谷口が言葉を挟む間もなく思いを吐露した純は、窓の外から自分の両腕に視線を向ける。
 エースダブルスとして女子たちとの試合や対外試合で次々と勝利を収めていくと、達成感と共に大事な何かが抜けていくような感覚があった。誰にも相談できない間に徐々に自分から消えていく感覚は、市内大会が終わった後に遂に枯渇していた。
 今の自分に残っているのは、皆と共に試合に臨むことだけ。
 それも、強い思いというよりは惰性で体が動いているというだけに過ぎない。

「外山君は、あの六人の中では誰よりもバドミントンをやる理由が薄いってことね」

 谷口の言葉に純は素直には頷けない。自分でもじっくりと考えて、その答えは想定していた。しかし、本当にそうなのかは自信が持てない。

「今の自分で信じられるところが、全然ないんです。だから……」
「若い頃はなんでも悩むものよ。私だって悩みなんてたくさんあったしね」

 谷口は速度を保ちつつ運転していく。流れるような動きから信号で止まると純の方を見て微笑みかける。

「迷った時は最初に戻ってみるっていうのは大事だと思うわよ」
「最初……高校入って、高羽たちに誘われた時ですか?」
「違うわよ。もっと前。バドミントンを始めた頃とかね」

 信号が青になって再び車が走り出す。谷口は走行に集中するためか、純に思考の時間を与えるためか口を閉ざした。車内に残るのはプレイヤーから流れるピアノの旋律。純は自然と口ずさみながら谷口に言われた通りに思い出す過去を深めていく。

(高校に入るもっと前。バドミントンを始めた、頃)

 頭の中でゆっくりと過去に遡ろうとしたが、形になる前に自分の家が見えて車は速度を落としていた。

「あ」
「もうすぐ着くわね」

 谷口はそう言うと道路の端に車を寄せて止めた。純の家まであとわずかという位置で車を止めて、改めて顔を向けてくる谷口の気配がそれまでとは違っていることに純は気付いた。

「明日のオーダーなんだけど。こうしようと思うの」

 谷口の言葉に純は息を呑んで顔を見つめるしかなかった。

「もしも。明日の第一試合を勝ち抜いて、横浜学院に当たったらなんだけど」
「はぁ……」

 笑顔で語りだす谷口を見ても純は明確に返事をすることができない。一体どういうつもりで言っているのか理解できないまま、話を聞くしかない。

「相手の意表を突いてかつ、勝率が高いオーダーを考えてみたのよね」
「それは……俺が外されるオーダーですか?」
「そうね。でも、戦力にならないからってわけじゃないわ」

 谷口の言葉が理解できずに純は首を傾げる。ただ、彼女もあえて遠回しに説明をしているのだということは分かっていた。もったいぶって話している谷口の様子がいつもの印象と全く違っていて、純はそちらのほうに混乱した。

「先生……いったいどうしたんです? いつもと、感じが違いますけど」
「そう? そうかもしれないわね」

 谷口は純の言葉を否定せずに受け入れて、先を続けた。

「心境の変化っていうのが少しあったっていうかね。私も、いつまでも逃げていられないなって。あなたと同じよ」
「俺と……?」
「そう。現状に満たされて、先に待っているものから逃げてるのよ。外山君は」
「俺が……逃げてる?」

 逃げているのは皆との未来からか。それとも他の何かか。
 さっき投げかけられた言葉を思い出す。高校に入る前。バドミントンを始めた頃まで遡って迷いの原因を探ること。考えている間に谷口は本来言おうとしていたことを紡いでいく。

「第一ダブルスは、高羽君と井波君。第二ダブルスを中島君と鈴風君。第一シングルスを小峰君。第二ダブルスを井波君。第三シングルスを、高羽君ね。高羽君と井波君のダブルスは前から見てみたかったのよね。どう思う?」

 聞こえてきたオーダーに自分の名前がないことにもあっさりと納得する。
 今日の成績なら理貴と賢斗というペアのほうが良い勝負ができるに違いない。それでも頭の片隅にひっかかった言葉を気にして問う。

「さっき、戦力にならないからじゃないって言っていたのは、なんなんですか?」
「ん? だって決勝に進んだ時に外山君と中島君のペアの力は必要でしょう。だから、外山君を休ませるつもりのオーダーでもあるの」

 谷口の言葉に純は喉が詰まって口を開くのが遅れた。第一シードという、最も全力を注がないといけない相手に対して役立てないのに、その後では出るというのは意味が分からない。

「そんな……だって俺は……」
「黙って見ておくのね。試合を」

 更に言葉を発しようとする純を谷口はシャットアウトして出るように車から出るように促した。まだ聞きたいことはあっても、谷口はもう会話を止めたと気配で告げてくる。仕方がなくシートベルトを外して出ようとした純に向けて、谷口は言った。

「もっともっと、考えなさい。そして、明日はちゃんと試合を見てなさい。そうしたら、分かると思うわ。中途半端だったのよ、多分」
「中途半端……分かりました」

 中途半端という単語が頭に引っかかりつつも、純は車から降りる。ドアを閉めると谷口は車の中から手を振って、すぐ去って行った。車が見えなくなるまでその場に立っていた純は空を見上げる。寒空には雲一つなく、月が丸く光っている。

「最初から考えろ。明日は試合を見てろ、か」

 呟きは寒空へと消えていき、誰も聴く者はいなかった。
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