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● SkyDrive! --- 第八十九話 ●

 体育館から出たのは午後六時を過ぎたところだった。もうほとんど冬といっていい時期になって、思っていたよりも肌寒いことで隼人は一つ大きなくしゃみをした。手で口元を覆って亜里菜から離れるようにしたことで被害は広がらなかったが、亜里菜はポケットティッシュとウェットティッシュの組を差し出してくる。

「使う?」
「ああ。ありがと」

 隼人は鼻水は出なかったものの、唾液がついた掌をウェットティッシュで拭ってゴミはラケットバッグの中にあるゴミ袋へと入れた。
 借りた二つを返しつつ自転車に乗ろうとして、止める。亜里菜も自転車を隼人の側から押しているのを考えると、しばらくは歩きながらのほうがいいのかもしれない。せっかくだからと隼人は日頃考えていたことを口にした。

「井上。いつもありがとうな」
「……え、なに? いきなり」

 亜里菜の表情は寒さか別の理由か、ほんのりと赤く染まっている。制服はそのままに首元にはマフラーを巻いていて、手は手袋で覆われている。隼人としてはスカートの長さは短いままで寒くないのかと思うが、それを指摘するつもりはなかった。それよりも、一気に言いたいことを言ってしまわないと恥ずかしさに言葉を止めてしまいそうだった。

「こうやってゆっくり話す機会ってなかっただろ。いつも練習メニューとかの打ち合わせでさ。いくらマネージャーだからって働かせすぎだなって思ったこともあるんだ。それをずっとリハビリ続けてたんだろ? それ知ったらもう少し……」
「そこで遠慮されたくなかったから、黙ってたんだ」

 返ってきた言葉に隼人は言葉を止めて亜里菜を見る。亜里菜は前方を向きつつ笑顔を作っていた。

「隼人君。優しいからさ。もし私のリハビリ知ったら、自分でやりたがるでしょ。もっと周り頼っていいと思うんだけどね。でも……そういうところ、隼人君らしいって思う」
「俺らしい、か」

 亜里菜の口から紡がれる「自分らしさ」は、これまで過ごした月日で得たものだろう。四月から十一月の終わり。まだ出会って一年も経っていないというのに濃密な期間を過ごせた自負はある。
 特に亜里菜と真比呂は最初から隼人と一緒にいた。
 他の仲間たちとほんの数日の差ではあるが、高校での最初の友達と言ってもいい。部活を一から立ち上げ直すということも真比呂の熱さによって引っ張られることで進んで、おぼつかない足元は亜里菜と共に固めてきた。
 栄水第一男子バドミントン部が作られるには、間違いなく亜里菜の力が必要だった。
 いつかちゃんと礼をしたいと考えていたが、試合のための練習に追われて暇がなかった。ちょうど大会もなく練習もひと段落しているこの期間はタイミングが良かった。

「俺らしさや井波らしさ。男子のらしさは分かるけど、井上らしさは……俺は分からないかも」
「そう? 分かってるけど自信がないだけじゃない?」
「そうかも、な。例えば……陰で頑張るところとか」
「うん」
「あとは、みんなの緩衝材っぽいとか」
「うん……ってそれ、全部隼人君らしさだよ」

 そう返されて異論はない。女子と話すのは苦手とまではいかないものの、あまり経験はない。それでも亜里菜と普通に話せるのは最初はプレイスタイルが似ているからだと思っていた。しかし、プレイスタイルは当人の気質に繋がっている。結局、二人は似た者同士だからこそ、話しやすいのだろう。
 速すぎることも遅すぎることもない歩み。二人が自転車を押していく間に多くの人々が通り過ぎていく。まるで時が緩やかに流れているようで隼人はこれまで感じたことのない落ち着きを覚えていた。

(これまで、走りっぱなしだったもんな)

 春から夏。そして秋とバドミントンにずっとかかりきりだった一年。それも半年以上が過ぎている。たった半年しか流れていないと感じてしまう。もう数年単位の濃密な時を過ごしているようだ。

「早いよね。もう十二月になっちゃうよ」

 隼人の心の中を読んだかのように亜里菜が言って、隼人も素直に頷く。

「テストが終わったら残り期間も部活。冬休み入って二十九日まで練習。年が明けてもすぐ練習。そして、選抜の予選、だよね」
「ほんと、俺の頭の中読んでるのかよ。井上」
「分かるよ。隼人君が考えていることくらい」

 亜里菜の言葉と、含まれる柔らかさに隼人は心臓が高鳴った。高まる動悸を抑えようと、亜里菜に気付かれないように深呼吸を静かに繰り返して落ち着かせる間、少しだけ亜里菜よりも前に出て歩く。亜里菜はそんな隼人のことを分かっているのかいないのか、黙って斜め後ろをついていった。

「あ、せっかくだから公園、寄っていこうよ」

 進行方向に現れたのは道路と道路の間に挟まれた小さな公園で、遊具はなくベンチがあるだけ。あくまで立ち寄って休息をするためにあるような場所だった。
 隼人は特に異論はなく、亜里菜よりも先に公園に入って自転車を止めるとすぐ傍にあったベンチに座る。亜里菜も遅れて隼人の自転車の隣に止めると、ベンチに座った。ちょうど一人分のスペースを開けて。

「はー、休む暇ないよね。でも頑張らないと」
「本当なら今年は基礎を固めて、来年以降から本番、でも遅くはないはずなんだけどな」
「やっぱり上を見て行った方がいいよ。三年間なんてすぐだよ」

 亜里菜の言葉に反論するところはない。隼人も言っただけで、時間はいくらあっても足りないために一年から全力で頂を目指さなければいけないのだ。その意味で、順調にレベルアップしているように思える。
 市内大会で優勝できたことでチームとしての経験値を得ることができた。隼人たちに負けたチームも選抜大会までにはもっと仕上がりを良くしてくるに違いない。
 今回のように勝てるとは考えていないからこそ、いつでもバドミントンのことを考える。勉強もしなければいけない。

「勉強もするし部活もする。学生って忙しいよな」
「大人ほどじゃないでしょ……ねえ、隼人君」

 亜里菜は隼人の目線に自分の顔を被せるように身を乗り出した。

「お願いがあるんだけど」

 亜里菜の表情は自然に切り出したというには緊張で少し強張っていた。これから言うことは亜里菜にとっては勇気がいることかもしれないと考えて、隼人は一瞬言葉に詰まる。だが、どういう内容かを思い浮かべようとしてすぐに止めた。

(そんなの聞けば分かるじゃないか……聞かない方がいいと思ったか?)

 心の中で独りごちる内容はあながち間違いではないかもしれない。そう思っても、隼人は停滞せずに亜里菜に答える。

「なんだよ。俺ができることなら聞くよ。感謝のお返し」
「……ありがと。あのね」

 亜里菜は二度、深呼吸をした後で意を決して告げる。隼人は迫力に気圧されて仰け反った。

「部活引退したら……市内のミックスダブルスの大会に出てほしいの」
「……ミックス、ダブルス」
「うん。ミックスダブルス」

 男女混合で行われるダブルスではあるが、インターハイなど部活動が絡む大会に種目はない。だが、市内大会だと採用している大会はいくつかある。隼人は先ほど見た高津とのダブルスを思い出していた。亜里菜が打ち、高津が打ち込むというのは本来、女子が前衛で男子が後衛というミックスダブルスの陣形とは異なっている。それでも、足を痛めているとは思えない良い動きをしているように見えた。

「井上が後ろで俺が前か?」
「あ、あれはたまたまだよ。私が前衛で隼人君が後衛なら、私も足の負担が少なくて済むし、十分戦力になるし」
「本来の陣形をできるだけ保つのに頭を使う必要ありそうだけど……俺と井上ならいいかもしれないな」
「でしょ?」

 隼人は自然と亜里菜とのダブルスを想像する。お互い、戦略を十分に練ってそれを実行するコントロールで勝負するスタイル。ダブルスとして意思疎通できれば、互いに打つ場所を連携して試合をコントロールできるかもしれない。賢斗とダブルスをしていて、どうしても自分の動いてほしい方向に動かない時があるが、それは仕方がないこと。そう割り切っている一方で、完全に自分の思い通りにパートナーも自分も動くというダブルスもしてみたい。そのパートナーとして、亜里菜は適任だと思えた。

「面白いダブルスになるな、きっと」
「うん! 隼人君と練習メニュー考えたり対戦相手の情報収集して作戦考えたりしてって、とても楽しかったんだ。だから、怪我がなんとか治ったら……隼人君とダブルスがしたいって思ったんだよ」
「そうだな。俺も、やってみた――」

 隼人は頭の中で亜里菜とのダブルスを思い描き終えて視線を隣へと戻す。
 そこで、息を呑んだ。
 眼前に亜里菜の顔があり、目が近距離で合う。亜里菜も自分が近づきすぎていることを悟って慌てて距離を取った。人ひとり分も空いていた距離がいつしかゼロになっている。亜里菜が隼人の視界に入るために近づいたのは分かっていたが、熱を持って語ることで距離を忘れたらしかった。

「あの……隼人、君」

 亜里菜の声のトーンが一段階低くなる。隼人は視線を合わせることができず、徐々に鼓動を早めていく心臓に痛みを覚えて胸を抑えた。実際に痛いわけではないが、痛いと錯覚するほど激しく脈打っている。亜里菜の顔があまりに可愛く見えて、直視できる自信がなかった。

(なんだ……いつもの井上じゃないか……別に、照れなくても……)

 頭で考えたことが実行に移せない。頭で否定していても、心はこれから亜里菜の口から出ることは、自分にとっても相手にとっても大変なことだと分かってしまう。ちょうど公園には人の波もなく、静かに二人を包み込む。一つ深呼吸をした音がした後で、亜里菜は一言一言大事に紡いだ。

「隼人君。私、隼人君が、好きです。付き合って、くれませんか」

 隼人は顔を見ることができなかった。頬が焼けるように熱く、急速に喉が渇いていく。唾を飲み込む程度では渇きは収まらず、緊張に委縮していることを自覚してしまった。

(井波たちが言ってたのは……こういう、ことか)

 時折、隼人に対しての亜里菜の行動は、根底に恋愛感情があると言われていた。隼人はそうは思わず、あくまでバドミントン部のためだと思っていた。冗談ではなく本気で。女子との付き合う時間が短いことで女子の気持ちを考えられていないということはあるが、好意の気配まで気付かなかったのかと隼人は情けなさに嘆息する。そのため息をどう思ったのか、亜里菜は慌てて両手を振ってまた隼人から遠ざかった。

「あわわ、あの……あの……えっと……あ、今、今の……ウソ。嘘。嘘。今に無しにして……?」
「さすがにそれは無理だろ」

 隼人は額に右手をあてつつ亜里菜の方を見る。頬だけではなく額まで熱い。いっそ風邪を引いた上での幻覚であってほしいと思ってしまう。だが、目の前の亜里菜は消えず、発せられてしまった言葉も空気には溶けても消えはしない。
 意を決して隼人は亜里菜をしっかりと見る。亜里菜も顔を真っ赤にして、しかし隼人を震えながらも見ていた。唇を真一文字に結び、唇を噛んだまま。自分が告げた言葉によってこの場から逃げ出したい思いを耐えているのだろう。そう考えると、隼人は少しだけ余裕が出た。相手をいつまでも待たせるわけにはいかないという使命感が硬直し、停止していた脳を動かす。

「ありがとう。そう言ってもらえるとは思ってなかった……それに、そう言われるような奴とも自分のこと、思ってないから。嬉しかった」
「……隼人君は過小評価しすぎだよ?」
「そう、かもな」

 自然と頬が緩む。自分を肯定的にとらえてくれる存在の傍は心地よい。恥ずかしさを堪えて、自分の発した言葉の結末を受け止めるために隼人を見つめてくる亜里菜を、素直に可愛いと思う。

(俺は……井上が好きか? 多分、好きだろう。彼氏彼女として付き合うって想像できないけど……多分、いい感じにいくんじゃないか)

 亜里菜と一緒にいる時を冷静に思い出していると、どの時間も過ごしやすく心地よかった記憶が多い。自分の考えと近いためにバドミントンのことで何かを話していても先を読んでサポートしてくれる亜里菜が一番印象に残っていた。それは今のところバドミントン限定だが、もしも部活以外でも繋がりが増えたなら、関係はどう変わっていくのかを見てみたい衝動に隼人は駆られた。

(……井上と、付き合っても、いいかもしれないな)

 亜里菜は隼人と視線を合わさないが、逃げ出そうとするのを必死でこらえている。答えを待っていることは明白。ならばもう答えは出ているのではないか。
 自分の中の考えをまとめて、亜里菜にOKの返事を出そうと口を開いたその時、隼人の脳裏にシャトルを打つ月島の姿が浮かんでいた。

「――っっ」

 喉元まで出そうになった言葉が息を呑んだことでぶつかり合い、喉が鳴る。亜里菜はその音に気付いて真っ赤な顔を隼人へと向けた。瞳には涙がたまっており、これから告げられる言葉に対して不安と期待を抱いているのが隼人にも分かる。
 そして、その瞳に映る感情が揺らめいて、消えていくのも分かった。

「……あのね、私。元々、言うつもり、なかったんだ」

 亜里菜は隼人から一人分だけ体を離して呟く。それからゆっくりと立ち上がるとまた一歩離れて座っている隼人を見下ろした。赤かった頬の赤みが徐々に消えていく。隼人は亜里菜の様子の変わりように自分の失策を悟った。

「でも……言っちゃったし……返事は聞きたいけど。少し考えて欲しい」
「井上……」
「ちゃんと、会ってから、今日までのこと、考えて、返事を聞かせて。そうじゃないと、隼人君を好きになってからずっと考えてた私が悔しい」

 これ以上ない、終わりの言葉。この場で答えを出すには何もかもが手遅れ。実際に、今の自分に冷静に考えることは無理だろうと隼人自身が分かっている。

「分かったよ。ちょっと、考えてみる。すまないけど、待っててくれ」
「うん」

 亜里菜は「じゃあね」と小さく呟いてから、隼人を避けるように回り込んで自転車のところに向かう。鍵を外してから自転車にまたがり、また手を振って公園の外に自転車を走らせると、隼人の視界からあっという間に消えていった。

(気を……使わせた、か)

 今の会話のどこまでが亜里菜の演技なのか、隼人はいまいち自信がない。ただ、隼人が答えを出そうとして何かがそれを遮ったことは分かったのだろう。
 考えて欲しい、ということも本音も含んだ上で隼人がこの場で気に病まないように気を使ったと考えられた。
 もしかしたら、隼人の口を噤ませた存在が月島だということも亜里菜は気付いたかもしれない。

(いや……そこまでは……でも……な……)

 考えてもこの場では結論は出ない。隼人は嘆息して空を見上げる。
 先ほどまで雲一つなかった星空に、ほんの少しだけ雲が出てきていた。
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