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● SkyDrive! --- 第八十八話 ●

 すらすらと目の前で動いていたシャープペンが止まるのを見て、隼人は静かに嘆息していた。この後に来る言葉は、この時間が始まってから何度も繰り返されていることであり、もう耳にタコができている。だが、いちいち構っていては自分の勉強が進まない。心を鬼にして反応しない決意を固めて、目の前の問題集に広がる問題に挑む。

「隼人。隼人さーん。隼人くーん。隼人様。教えてください」

 いつもの、隼人を呼ぶ言葉にバリエーションが加わる。逆に音量は過去最小で、向かいに座った真比呂は隼人へと言葉をかけてくる。
 二人がいるのは図書室。普段は通い慣れない場所だが、同じように普段は通わない生徒たちで今はほとんどの机が埋まっている。普段は音量が大きな真比呂も場の空気を読んで静かにしていた。
 隼人は心に決めたとおり無反応を貫いてシャープペンを動かす。真比呂も隼人が反応しないことの意図を察しているのか、強引に話を聞いてもらおうとは動かずにシャープペンをちらつかせるなどして気を引こうとする。それでも反応しない隼人に、最後には問題集に掌を乗せて問題を見せないようにしていた。

「……邪魔なんだけど」
「すまん。これだけ。これだけだから」
「それ、もう十一回言ってる」
「細かいな……」

 悪くは思っているのか申し訳なさそうに呟く真比呂に、隼人は嘆息して目を向ける。

「で、今度は何に詰まってるんだ」
「これなんだよ……」

 見せてきた数学の問題はついさっき隼人も解いたものだった。確かに少し解法は難しかったと思い出し、真比呂に向けて教えつつ自分も復習する。
 三分後には真比呂は正しい答えにたどり着いていた。

「やー、サンキュ。さすがエース。頼りになる」
「勉強まで団体戦やってらんないぞ。お前も団体戦みたいに気合い入れろよ」
「俺は……個人戦だと力が発揮できないタイプなんだ」
「確かにな」

 真比呂が言っているのは、市内大会の個人戦のことだと隼人はすぐに連想できた。
 団体戦優勝を決めたその日に続いて始まった個人戦。男子は真比呂と賢斗が出場した。初心者の二人にはより多く試合経験を積んでもらおうと負けてもいいという前提で出場し、精一杯試合を楽しんでこいというくらいの気持ちで送り出した隼人だったが、心の中では賢斗ならまだしも、真比呂については、一回は勝てるかと思っていた。しかし、結果は十点くらいしか取れないまま敗北。賢斗のほうが、一ゲームを取り、ギリギリまでシングルス初勝利に手が届きそうだった。
 真比呂はその時のことを思い出しているのか、声をあげそうになるのを必死に堪えている。その様子を見つつ、隼人は再度嘆息した。

(井波の課題はテンションとかシチュエーションに左右される過ぎるのを何とかすることだな) 

 隼人が参考書を片付け始めると真比呂はその意図を理解して顔を引きつらせる。どうにかしてこの場に引き止めようと何かを言うために試行錯誤するも、結局は隼人が鞄の中に机の上のものを全てしまってから言った。

「すまん。もう少し教えてくれ」
「明日になってまだ分からないところがあれば教えてやるよ。今日は高津さんのところに行ってくる」
「まじか……俺は……」
「あくまで市内大会の結果報告だからな。世話になってるし。お前は勉強しておけ。赤点取ったら試合出れないかもしれないんだからな」
「分かったよ……高津さんによろしく言っておいてくれ」

 悲しそうに頷いて勉強を再開する真比呂の肩に手を置いてから静かに図書室を横切っていく。奇妙な緊張感をはらんだまま無事に扉にたどり着くと恨めしそうな視線を向けてくる真比呂に軽く頷いてから図書室を出た。

「ふぅ」

 安堵のため息をついた後に向かうのは教室だった。置いてあるラケットバッグを取りに行き、家には帰らずに市民体育館に直接向かって高津たちの社会人バドミントンサークルに顔を出す。ラケットを準備してはいるものの、テスト期間のためにあくまでも真比呂に語った通りのことしかしないつもりだった。

(いい小休止なんだろうけどな……少しでも打たないと鈍る)

 普段ならば他の運動系の部活が自主練に使ったり、離れた場所から吹奏楽や合唱部の音程が聞こえてくる廊下は、人の気配はほとんどせずに静かだった。テスト期間に入って下校時間も早くなり、先ほどの隼人たちのように図書館に残る生徒がせいぜいだ。
 谷口はテスト期間直前からテストが終わるまでの部活を休止させ、基本的にバドミントンをすることも禁止した。あくまで「基本的」と言ったことで隼人も、他の面々も意図は理解している。真比呂へと語った通り、赤点を取って大会に出られなくなることを防げば、別に学校以外ではシャトルを打ってもいいということ。
 それでもバドミントンをしにサークルに行くのは、隼人だけだった。仲間を誘っても勉強をするということで誘いを断られたのが少しだけ意外に思える。

(ま、本当に挨拶するくらいだもんな、俺も。疲れ残ったら勉強困るし)

 いろいろと考えている間にも教室へとたどり着き、ラケットバッグを取って自転車乗り場まで一気に向かう。置いていた自転車にまたがって、目指す先は行きつけになっている市民体育館の一つ。社会人バドミントンサークル『鱈』の練習場所だ。
 市内大会の前にも何度か練習に参加させてもらって団体戦の相手もしてもらった手前、結果を報告するのは当然と思える。そのことに理貴までも都合が悪いと断ったのはどこか引っかかるがすぐに消える。自転車を走らせて体育館に向かっていくと、心が徐々に軽くなっていくように思えた。ラケットでシャトルを打っている時には感じなかった淀みが、これから打てるというだけで晴れていく。
 特に障害もなく練習場所にたどり着いた隼人は自転車置き場に向かい、空いている場所に駐輪する。鍵をかけて顔を上げるとちょうど視線の先に見覚えのある自転車が見えた。

(あれは……井上の?)

 少なくとも亜里菜が乗っている自転車と同系統のものだということは覚えている。更に、自転車の後部につけるシールが自分の高校の生徒である証明になっていて、少なくとも栄水第一高校の誰かということは分かった。それなら、まず思い浮かぶのは亜里菜の存在。

(でも、俺らがいないのに井上だけっていうの……これまであったっけ)

 入口に向かいつつも考えて、亜里菜単独の行動の前例はないという結論を導き出す。なら、自分と同じように報告だけしにきているのかもしれないと隼人は納得して体育館の中に入る。念のため先に更衣室に向かってからラケットバッグの中に押し込めていたジャージに着替えた。
 ラケットを持ってジャージに身を包むだけで体の内側からやる気が漲ってくる。

(せっかく来たんだから、全力で打ってスカッとして気分が晴れてから勉強するのもありだよな、うん)

 誰に弁明をしているのか隼人は自分でも分からなかった。もしかしたら言い訳の練習かもしれない。そう考えてから更衣室を出てフロアへと入ると、いつも通りの『鱈』の面々が見えた。
 正確には、いつも通りとは微妙に異なっている。それは、隼人にとっては多少なりとも衝撃があって、自然と口が開いていた。

(井上……か……)

 コートの中に亜里菜が立っている。立っているだけではなく、フットワークを用いて移動して、右足を踏み込み、ラケットを振り切っている。サイドストロークから放たれたドロップは綺麗にネット前に落ちていき、相手のペアの片方がラケットでヘアピンを打つ。すると前に詰めていた亜里菜のパートナーがプッシュでシャトルを相手コートに叩きつけていた。

「ポイント。トゥエンティワンセブンティーン(21対17)で、俺らの勝ち」
「……やりましたぁ!!」

 亜里菜はパートナーである高津とハイタッチして絶叫気味に歓声を上げる。よほど嬉しかったのか周囲の熱量とは異なるはしゃぎように周りも苦笑いしていた。だが、それらの視線も亜里菜に対して優しさを十分に含んでいる。全員が、亜里菜の喜びを望んでいたように。

「お、隼人ぉ。来たのか」
「え、隼人君!?」

 高津はフロアの入口にいる隼人に視線を向けて告げる。高津の言葉で初めて気付いたように亜里菜は隼人の方を一度見てから、顔を真っ赤にしてコートから出ていた。試合も終わり、亜里菜が発した熱も収まったために次のペアがコートに入って練習が再開される。流れの中で隼人は邪魔にならないように高津の傍へと寄って言った。

「高津さん。井上、打てるようになったんですね」
「それは本人から聞け。で、お前は試合どうだったんだ?」
「井上から聞いていないんですか?」
「隼人から聞いてほしいって言われてな。そういう義理を果たすって信頼されてるのはいいよな」

 当の亜里菜はそそくさとその場から離れてフロアから出ていた。ラケットバッグごと持って行ったために、もしかしたら着替えにいったのかもしれない。そう思ってひとまず横に置き、言われた通りに試合の結果を告げる。
 初めての公式の団体戦。初めての優勝。その中で、礼緒と隼人は特に成長できたと言葉にしていくと改めて嬉しさが込み上げる。高津もいつもの気難しい顔を引っ込めて笑顔になって隼人の背中を何度も叩く。

「そうかそうか。俺らができる協力はできるだけするからよ。理貴も真比呂も、純も賢斗も礼緒もな」
「ありがとうございます。本当に助かっています」

 隼人の飾らない言葉に高津は照れたのか、腕を組んで隼人から少し視線をそらす。春に出会ってからこれまで何度もサークルに参加させてもらった中で、高津の一見怖い雰囲気の中でも世話好きの一面を垣間見てから親近感が持てるようになっていた。高津は咳払いを一つしてから会話を続ける。

「お前らにもちゃんとした顧問がいれば、まだ楽できるんだけどな」
「いますけど、女の先生で男女兼任なんでどうしても女子の方に行きますね」
「へーいるんだ。美人なのか」
「谷口静香って名前知ってます? インカレでも二位になったことがあって」

 隼人は言葉を止めて高津の顔を見た。高津は谷口静香の名前が出た瞬間に一瞬顔をこわばらせて、隼人に鋭い視線を向ける。その自分を観察されていると気付いて、顔を緩ませた。

「へー、そうなんだ。確かに大学の頃、聞いたことある名前だ」
「……やっぱり。その人が顧問なんですけど、やっぱり女子の方が忙しいのか『自分たちで決めなさい』が多くて。でも自分の力が鍛えられていくなって思います」

 淡白な反応だけではないと分かっても、隼人はこれ以上聞くつもりはない。真比呂がいたら追及するのだろうが、誰しも語らない過去はある。しかし高津はほんの少しだけ、語ったらしい。

「お前らが鍛えられてるならいいさ。だけど、まあ、もしできれば、その顧問も助けてやれよ」
「……助ける?」
「たぶん、何かしら迷ってるんだろうさ」

 思わせぶりな言動に隼人は少しむっとするが、高津はこれ以上の会話は終わりだというサインに練習する仲間たちのほうに視線を向けた。隼人は高津の言葉を内心で繰り返す。

『何かしら迷ってるんだろうさ』

 谷口が迷っているものとは何か。
 そもそも谷口が迷っているであろうと予測できる高津と谷口の関係は何か。
 考えることのうち、後半だけを削る。今回の問題は高津と谷口の関係ではない。本当に谷口が迷っているかどうか。

(確かに。線を引いて踏み込んでいない感はあるんだけどな)

 顧問となって自分たちに尽力してくれていることは分かる。だが、どうしても最後の一線は越えずに遠慮しているように見える。問題が起こっても隼人たちに解決させるというスタンスを変えない。それは、男子部のことは男子で解決しろという思いからだと思っていたが、消極的な策の結果だったのかもしれない。

「隼人君?」

 少ない情報をまとめ上げる中で集中していた隼人は、亜里菜が隣に来たことに気付かなかった。声をかけられて慌てて視線を向けた隼人を見て亜里菜はくすりと笑い、背中を壁につける。隼人は膝へと視線を向けると、両方の足をを綺麗にそろえて立っている。

「足、だいぶ治ったのか」

 さっきまで考えていたことはまた意識の奥へとしまい込んで、亜里菜との会話に集中する。亜里菜は照れくさそうに笑ってから話し始めた。

「うん。何とか、一ゲームなら、ダブルスなら長引いても大丈夫になってきたよ。もちろん、終わった後のストレッチは大事なんだけどね」

 膝に視線を向けて一度会話の呼吸を置いた後、再び話し始める亜里菜の口調に熱がこもっているのを、隼人は心地よく感じつつ聞く。

「理貴君の友達の、柿沢君が来た時にね。私、諦めないって言ったんだ。リハビリ続けて、いつかまたバドミントンをちゃんとできるようになりたいって」

 柿沢彰人の名前を思い出すのに、隼人は少しだけ時間がかかった。白泉学園高校との練習試合の後に『鱈』の練習場所で出会った、理貴の中学時代のダブルスパートナー。隼人にはそれくらいしか柿沢の知識はない。柿沢が助けを求めてきたのは理貴であり、傍にいたのは亜里菜だった。そこで亜里菜なりに柿沢を勇気づける中で決めたことがある。

「その成果が、さっきの喜びようなわけだ」
「そうなんだ。高津さんがパートナーだったけど、今日、初めて試合形式の練習で勝てたんだよ」

 亜里菜が痛めた膝を抱えて徐々に動かしていく。いくらサークルで最も強い高津でも怪我人をフォローしながら勝てるほど甘くはないということ。亜里菜自身も無理をして痛めてしまってはまた一からやり直しになる。できる限り全力を出さないように。しかし、シャトルに対して一つ一つ丁寧に追いついて、打つということを繰り返す。どれだけの自制心の下で試合をしているのか隼人には想像もできなかった。ただ、それだけ亜里菜がバドミントンをしたかったことだけは分かった。

「医者もね。思ったより回復ペースが速いって。膝の周りの筋肉鍛えて、それでも適度な負荷をかけて少し壊して、また鍛えてっていいペースらしいよ」
「そっか。よかったな」
「うん」

 亜里菜の笑顔に少し心臓が跳ねる。飛び切りの笑顔とはこういうことかと思いながら視線を練習光景に向けると体がうずうずしてくる。隼人はジャージの上を脱いで自分も入れてくれるように高津に頼もうとした。だが、高津の声が隼人よりも速かった。

「おい、隼人。お前は井上を送って行ってやれ」
「……え」
「女子を送るのは男の使命だ。それにお前はテストしてろ」
「……井上も試合したんですし、俺も……」
「だめだ。メリハリは大事にしろ。どうせ今日は報告がメインだろ。ゆっくり休め」

 高津の表情を見る限り、主張を崩せないと悟ると亜里菜のほうに視線を向ける。亜里菜は申し訳なさそうに隼人を見返していて、嘆息交じりに考える。

(そんな顔されたら、それでも打ちたいとか言えないな)

 隼人はジャージの前を締めてからフロアの外に歩き出す。

「更衣室で着替えたら玄関で落ち合おう」
「……うん。ありがとう」

 ありがとう、という言葉の響きは、隼人の耳には心地よかった。
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