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● SkyDrive! --- 第六十四話 ●

 亜里菜は一度理貴たちから離れて、少し先にあるコンビニエンスストアからペットボトルを袋から下げて歩いていた。立ち話は膝にも悪いだろうということで公園内のベンチに腰掛けるのを一瞥してから買いに行き、今頃は会話も進んでいるだろうと期待していたが、公園に入ると二人はベンチに座って黙って前を向いている。律儀に自分がやってくるのを待っていたらしい。亜里菜は気付かれないようにため息をついて、二人にペットボトルを渡すと理貴の右隣へと座る。右から亜里菜、理貴。そして柿沢という並び。二人の間に挟まれるようなことだけはなくてよかったとホッとする。

(でも……膝、か)

 重苦しい場から離れて一度リセットされた気持ちを再度切り替える。
 膝を痛めてバドミントンへの道が狭まった柿沢は自分と似ていた。亜里菜も中学時代に膝を痛めてしまい、バドミントンを諦めざるを得なかった。それでも、無理をしないように日々気を付けていることで日常生活にも支障はないし、心なしか体育でも動ける時間が増えている。バドミントン部でも基本はマネージャーとして皆の情報を記録する役割をしているが、賢斗や真比呂の基礎打ちの相手やノックのシャトルだしなど、たまにシャトルを打っていた。

(先生も、言ってたっけ。痛めても膝の周りの筋肉が鍛えられるとある程度は動けるようになるかもしれないって)

 痛めた膝そのものを支えるために膝周りの筋肉を成長させる。亜里菜は普段の体育や部活の中での基礎運動の他、ウォーキングや病院に通ってのメニューを少しずつこなしている。一度壊れてもけして終わりではないという最初の時のように離れようとしていた自分には見えなかった景色だろう。
 ただ、体が回復する可能性があるというのは、壊れた当時から、心が吹っ切れる間には気づきづらい。体は良くても心が折れてしまっていれば、人間は立ちあがることすらできないのだから。

「お前と一緒に藤沢東に行けなかったから。せめて練習して、レギュラー取って、お前と戦いたかったんだよな」
「ああ」

 亜里菜が考えている間に柿沢はペットボトルの中身を半分くらいまで飲んでから口を開く。口の中を潤し、勢いをつけて話さなければ覚悟が決まらなかったのだ。

「俺の同期もさ。静岡で全国大会に出たような奴はいなかったけど、ベスト4に残った奴がいてさ。他も最低県大会の上位や全国経験者とかで、俺みたいなやつはほんの一握りだった」

 一度開けば溢れ出してくる思いを、柿沢は理貴に向けて言葉を紡ぐ。
 自分と同じくらいのレベルの人々は去っていったが、自分だけは何とか喰らいついた。そのおかげで県大会上位だった相手には勝てるようになってきたと語るまでは柿沢の顔は輝いていた。
 表情が曇って、泣きそうになったのを見たのはすぐ後。亜里菜は見てはいけない気がして視線を完全に逸らすと言葉だけに耳を傾けていた。

「ほんとさ。一瞬だったんだよ。シャトルを追ってさ。飛んで、ラケット振って……着地した時に何かが折れたんだ。そっから先は頭がぐちゃぐちゃになって覚えてない」

 不幸中の幸いか、再起の道が閉ざされたわけではなかった。リハビリをしっかりすればまたスポーツが出来るまでは回復するだろう。
 ただ、医者も明確にいつまでに回復するとは言わなかった。
 更に告げられたのは、少なくとも高校の間に復帰することはないだろうということ。
 その瞬間の柿沢の心にどんな思いが生まれたか、亜里菜は想像してしまうと再び右膝に痛みが走った。現実の痛みではないことは分かっている。脳が勝手に作りだした幻の痛み。柿沢の独白に共感しているのだろうと亜里菜は深呼吸して心を落ち着かせる。

「俺さ……学校から、逃げ出してきたんだ。こっちに親戚いてさ」
「そうじゃないと、この時期にこっちにはこれないだろうしな」

 いくらスポーツ進学校とはいえ勉強を全くしないということはもちろんあり得ない。平日の夕方に静岡から神奈川までやってこれるというのは学校の存在を無視していると見ていいだろう。柿沢は学校を休んで神奈川まで来ている。理貴に会いに来るために。

「お前と……戦いたかった……俺自身のせいで無駄にして……すまん」

 柿沢の謝罪に理貴は答えない。表情に感情は浮かんでおらず、亜里菜もどう答えるつもりなのかはらはらしていた。理貴自身も柿沢との試合のために純とダブルスを組んでいたのに違いないのだから。

「彰人は……こっちにきてて学校は大丈夫なのか?」

 理貴の言葉に彰人は俯かせていた頭を起こして拳で目元を拭く。亜里菜には見えなかったが、やはり泣いていたのだろう。彰人は涙声になりつつも答える。言葉の端々に恥ずかしさを滲ませて。

「ああ。部活は顧問がしばらく休むのは許してくれたし。学校も事情を考慮してくれて、今はリハビリ期間になってるんだ」
「いい仲間じゃんか」

 理貴の言葉に柿沢は答えない。それからしばらくは無言の時が続く。誰もが、何を次に言ったらいいか分からなくなっていた。今日のこの邂逅は柿沢の現在を理貴が面と向き合って聞くということ。今となっては目的は達成している。柿沢の事情を理解し、現状も理解したならば、あとは理貴と亜里菜に何が出来るのか。

「お前は、どうなんだよ、理貴。教えてくれよ」
「俺か? そうだなぁ」

 亜里菜が手元のペットボトルを弄んでいる間に理貴も四月からの自分を振り返った。
 柿沢と同様にバドミントン部で四月から活動し、全国大会を目指そうとしていたが、男子部は休部となりメンバーが誰もいなかった。
 部のない高校に意味はなく、一度は高校でのは諦めて大学から柿沢と同じ大学に行ってバドミントン部に入る。流れを頭の中に描いて、あとは実力をつけるだけと視野を狭めた。
 そんな折に、理貴は隼人たちに出会った。
 自分のことを語る理貴は優しい声音で、ゆっくりと柿沢の中に言葉を浸透させるようにしている。亜里菜はそこに、彼の優しさを見た。絶望に落とされた後にも、聞かずにはいられない元相棒のことをある程度理解して、素直に話す。柿沢の語ることは亜里菜にも理貴にもどうしようもないこと。だからこそ、ただ聞くことしかできないし、相手が臨むことを伝えるしかない。
 男子バドミントン部に入る顛末を全て語り終えた理貴は、一息ついてから告げる。

「彰人。俺はお前に何もしてやれない。悔しいけど、な」
「ああ。俺も、何もしてもらうことはできない」

 それが二人の最後の会話になった。またしばらくの間、無言の時が流れていき、ゆっくりとベンチから立ち上がった柿沢が去っていく。一歩一歩を踏みしめるように。歩き方を見ても右足に負担がかからないように左に寄っていた。亜里菜から見れば、かばいすぎて左足を怪我してしまうかもしれない危険な歩き方だ。しかし、自分も怪我をした当初はそうだったと思い返す。

(怪我した直後って、誰の言うことも聞けないんだよね、きっと)

 少なくとも自分はそうだった。そして、折り合いがついたところで高校に入学し、細々とでも女子バドミントン部の中で続けていくつもりだった。しかし、頑張っている隼人たちを見て、少しだけ火がついた。練習試合に志願して、真比呂と試合をして成長速度に驚き、自分は試合に勝つ喜びを得た。同時に、自分の足の限界と、実力の伸び代の限界に気づいてしまった。
 足は少しずつダメージを蓄積して行く。試合をしている間は痛くなくても次の日以降に痛みがぶり返す。とてもではないが、連続した試合に耐えることはできないだろう。おそらくは趣味として続けていくことはできるかもしれない。それでも、一試合で無理なプレイをすれば痛める危険はある。爆弾を抱えていないプレイヤーでもそうなのに、自分ならばなおさらだ。
 そうして自分の選手生命の終わりを突きつけられて落ち込んだ時に、隼人が手を差し伸べてくれた。亜里菜が持つ思いを自分たちに繋いでくれと言うように、力を貸してほしいと。辛かった時に手を差し伸べてくれた男子と、女子部を辞めても支えてくれた女子の同期や先輩たちのおかげで自分は立っていられる。

「井上はさ、左膝が駄目だって言われた時、どんな気持ちだった? どうやって立ち直った?」

 亜里菜の回想が終わるのを待っていたかのように、理貴は尋ねてくる。実際に待っていたのかもしれない。経験者に話を聞くために。
 大切な元パートナーを助けるためには、少しでも自分の知らない知識がいる。似た境遇になってしまった亜里菜ならば繋がるものを与えてくれるかもしれない。理貴の視線はそう言っている気がして亜里菜はこれまでの自分を振り返った。
 おおむね、聞かれる前に過去を回想した通りの内容を話す。理貴は真剣に聞いていたが聞き終えた時にはため息をついた。理貴の望む回答は得られなかったということだろう。そもそも、亜里菜も何が正解なのか分からないし、理貴にしても「こういうことが聞ければよい」ということはないはずだ。

「理貴君は、どうしたい? 柿沢君とまたダブルス組みたいの?」
「……実は分からない。これ、皆には内緒な」

 一度断ってから理貴は口にする。亜里菜は内緒にすることに同意したわけではないが、信頼されているのだろうと考えて何も言わないことにした。

「最初は、全国で彰人と戦うために部活に入ってた。もちろん、こいつらと全国に挑みたい。行きたいって思いがあったんだけど。でも、純と一緒にダブルスであいつと対戦したいって思いのほうが強かった」
「うん」

 会話の間に相槌を打つ。適度に話を区切って相手のテンポを整えるように。理貴は一度ペットボトルを口にして口の中を潤してから続けた。

「でも、少しずつ純とのダブルスも慣れてきて、白泉学園との試合でも勝って。このチームは最高だって、心の底から思うようになった……そうしたら、いつの間にか彰人のことはあまり思い出さなくなってたんだ」

 口にして顔をしかめる理貴。中学時代にダブルスのパートナーとして本当に大事にしていたことが言葉の端々から分かるだけに、思い出さなくなっていたという自分に罪の意識を感じているのだろう。彰人は二人で目指していた高校に入ったことで無理をして、潰れてしまった。逆に理貴は、罪悪感を覚えているのかもしれないが、潰れることはないだろう。既に、彼には仲間たちがいる。
 隼人をはじめとした、栄水第一高校男子バドミントン部が。

「いいことじゃない。理貴君が本当に栄水第一高校バドミントン部だってことだよ」
「そう、なんだろうな」

 気恥ずかしそうに言う理貴に亜里菜はもう一度「そうだよ」と言って背中を軽く叩く。中学生だったのはまだ半年ほど前。それまでは前の中学校で、前の仲間たちと一緒にバドミントンをしていた。と言っても、中学生の最後は受験勉強が主だし、亜里菜自身は手術をしてリハビリを並行していたのでバドミントンを最後にちゃんとしたのはインターミドルの時。
 ただ、亜里菜も中学時代の友達とはほとんど合わなくなっていた。同じ学校に進んだ友達なら勿論、廊下ですれ違う時も挨拶を交わすし、たまに遊んだりもする。しかし、そうした時でも他の学校に進んだ友達と関わることはほとんどない。
 生活のスタイルが異なり、周りにいる人間が異なれば話題も異なっていく。過去は、大切にしまっておくべきなんだろう。

(大事なのは、未来、か)

 浮かんだのはタイトルは忘れたが歌詞のワンフレーズ。そして唐突に柿沢が過去に囚われているのだと思いつく。

「彰人は、今が見えてないんだ。未来ばっかり見ようとしてる。いや……未来じゃなくて過去か」

 理貴はそこまで言うとペットボトルを真上に掲げて中身を全て飲み切った。止めていた息を吐き出して再度深く吸う。急激な変化をつけて落ち着かせることで溜まっていた黒い思いを吐きだしたのだろう。

「俺は、もう彰人との試合にこだわってない。出来れば最高だけど、それよりももっと目指したいことがある」
「でも、柿沢君は見えてない、か」

 最後まで理貴中心で話していた柿沢の様子を思い出す。バドミントンが出来なくなったという絶望に押し潰されて、それでも理貴に会いに来た。彼にとって理貴は過去ではなく現在なのだろう。それは未来を目指そうとしていた二人の決定的な差だ。未来の再会をお互いに思ってそれぞれ進んだのだろうが、理貴は今の仲間たちに心を開き、過去の約束を現在に昇華した。しかし、柿沢はできなかった。

「あいつもさ。今が見えてないだけで、助けられてるはずなんだよ。俺みたいにさ」

 携帯電話を取り出して握りしめる。変わってしまった大切な友達をどうにかして立ち直らせたい。でも、自分には救えるだけの力がない。理貴は頭がいいため、先が見えているのだ。
 亜里菜も何が正解かは分からないが、一つ思いついたことを提案してみた。

「じゃあ、さ。明後日、練習に呼んでみたら?」
「彰人をか?」
「うん。部活だと学校の生徒じゃない人がいるのは怒られるかもしれないけど、サークルならさ。今の仲間を見てもらったら?」

 理貴が躊躇する気持ちは亜里菜も分かる。バドミントンが出来ないと落ち込んでいる相手にバドミントンをしている自分たちを見せるのだから、柿沢の胸の痛みはそうとうなものになるだろう。
 しかし、亜里菜は別のことを考えていた。胸が痛む一方で、どうしようもなくバドミントンに触れたくなるのだ。嫌だと思って離れているよりも、荒療治でも触れさせたほうが先が見えるかもしれない。

「ずいぶん荒療治、だな」
「うん。でも、柿沢君が本当にバドミントンが好きなら、いい効果があるかもよ」
「体験談か?」

 理貴の言葉によって亜里菜の脳裏に浮かんだのは、夜の体育館で隼人に向けて流した涙だった。
 あの時も隼人は亜里菜のバドミントンをしたいという気持ちより、それでも仲間として支えてほしいということを伝えてきた。理解できないことを理解しようとして、変な解釈と同情をされるよりはずっといい。
 亜里菜は過去の自分にしがみつかずに新しい自分へと向かったことで、今、とても充実している自分になっている。柿沢が同じように別の道を進むかどうかは分からない。それでも、今の逃げている状態から前を向かなくてはいけないだろう。
 黙り込んだ亜里菜を見て、肯定と受け取った理貴は「そっか」と呟いて立ちあがった。亜里菜も遅れて立ちあがり、公園から出るように進んでいく。

「サンキュな。約束通り、さっきのことは誰にも言うなよ?」
「うん。約束してないけどね」
「送ってくから許してくれよ。高羽には内緒にするから」
「なんで隼人君が出てくるのよ」

 亜里菜の答えに苦笑いしながら理貴は歩いていく。最初は距離を取っていた理貴もここまで自分たちに寄り添ってくれていることに嬉しく思いながら、亜里菜も後を追っていった。
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