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● SkyDrive! --- 第三十三話 ●

 口を開き、準備を整えて、声を出す。
 基本動作を流れるように続けて一つのフレーズを繋げる。一つのフレーズを緊張感を保って最後まで続けることで一つの歌が完成する。
 言葉にすればとても簡単な一連の動作は、それぞれで非常に細かい作業が必要となる。口の開き方の微細な違いで響きが異なり、横隔膜を一定に保つ。機械ではない人間の体は徐々に楽な方向へと流れていくため、常に保とうとする力が必要となる。それを、一つだいたい4分から5分。壮大なものだと7分以上も続けることになる。だから歌ったあとは全身に疲労が回っている。
 でも、それは一つの世界を表現していくために必要な辛さだ。
 土台をしっかりとした上で、五線譜が描く世界を声で彩りをつけていく。バラバラだった声音が混ざり合い、虹色に輝く。
 賢斗はそんなイメージを持ちながら歌い続けてきた。
 小学校低学年の時に昼休みだけ練習し、コンクールに出ようと誘われて、合唱部に入った。昼休みに他の生徒は友達と外で遊ぶのがメインだったが、運動にあまり興味がなかった賢斗は昼休みの時間を潰すために歌を選ぶのは特に抵抗はなかった。そこで、幼いながらも歌の世界の深さを知り、楽しさを知った。プロになれるとは全く思っていなかったが、ずっと歌を続けていくと思っていた。

(――それなのにな)

 バドミントンのラケットバッグを壁に立てかけて、ベッドに突っ伏す。部活の後に拭いていても体には汗が残っていて、着ているシャツを濡らしているが、それを脱ぐ気力を取り戻すにはしばらく時間が必要だった。下半身はここ数日間ずっと筋肉痛だ。初心者である賢斗と真比呂はフットワークを特に鍛えるために打ち合いよりもフットワーク練習に特化している。真比呂は運動で鍛えた体と反射神経からか、飲み込みも早くて基礎打ちも多く行っているが、賢斗はほとんど足運びばかりやらされている。
 その場で素振りをすると綺麗なフォームだと言われているが、基礎打ちなど動きながらとなるとまだまだフォームは荒く、崩れてしまって上手く打てない。それは静止した状態でのリズムや体勢をシャトル下に動いた後で保つことが出来ていないから。だからシャトルに追いつく技術を先に鍛える。その理屈は理解でき、ラケットを持って動きながら振っていく。更にはつまらないと感じるだろうことも考えて、シャトルを打つ時間もちゃんと取る。
 賢斗は考えられた練習内容に素直に驚いていた。内容を組んだのは隼人と亜里菜。亜里菜はマネージャーとしてサポートを主にしているため、実質隼人の作成だ。自身がプレイヤーであるだけでなく、皆の弱点等を収集してそれを補うための練習に役立てている。賢斗も歌を上手くなるために何をすべきかを一つ一つ目標を掲げて潰していくタイプであるため、こうした段階を踏む練習は好きだった。自分の力を確認しながら練習できるから。

「だから、辛いんだよな」

 思わず口に出た言葉を押し留めようと口に左手を当てる。
 部屋に一人で誰にも聞かれるわけではないのに、そう思ってしまう。合唱をやっていた影響からか他の原因か、賢斗の声は大きく、良く通った。家でも自分では普通の声でしゃべっている気なのに家族にはうるさいと言われる。デリケートな会話、ひそひそ話が出来ないタイプ。自分でそう納得して何度か体を揺さぶってからベッドから起き上がる。そして着ているものを一度全部脱いで部屋着に着替えた。黒の上下のジャージ。いつもの格好をすると自然に心が落ち着いた。

「賢斗ー、ご飯よ!」
「はーい」

 母親の声に反応して声を出す。それからラケットバッグを一度見たがすぐに部屋から出た。廊下を進んで居間に行き、テーブルの椅子に着く。

「あれ、賢治(けんじ)は?」
「今日は友達の家でごちそうになるんですって。さっき、あちらのお母さんに謝っておいたわ。もう、あの子も人の家に行くんだから前々から言っておいてくれればいいのに」
「賢治は母さんが思ってるよりよっぽどいいやつだって。大丈夫。気もきくしね」

 二つ下の弟に対する賢斗の感情は尊敬に近い。
 昔から友達作りが苦手な賢斗には、合唱であったりバドミントンであったり、何か共通した趣味がなければ人とかかわるのに抵抗がある。だが、弟の賢治は特に好きだという趣味もなく、帰宅部で過ごしているのに友人関係は広かった。中学時代、自分の卒業前の定期演奏会開催の時に集客を頼んで一番同級生を連れてきたほどだ。特に容姿が秀でているわけでも、部活にいるわけでもない。友達として一緒に過ごしやすいのだろう。
 そんな弟を見ていると嫉妬しないかと以前聞かれたことがあったが、それについては否定した。嫉妬する前に諦めの境地に入っていた。

「そうだ。賢斗。バドミントンはどう? 楽しい?」
「ん? 楽しいけど、どうしたのそんな心配そうな顔して」

 母親が唐突に聞いてきて、意図が読めずに賢斗からも問い返す。母親は口ごもりながらも「高校でも合唱部続けるんだろうなって思ったのに、辞めたから」とそこまで言って口をつぐんだ。賢斗はようやく分かり、そのおかしさに笑ってしまった。

「あーごめん! 心配しなくていいよ。合唱部もいじめとかで辞めたわけじゃないし」
「じゃあ、楽しいのね」
「ああ。文科系とは全く違うし……まあ、合唱部は体育会系なんだけど」

 自分の腹筋をさすりながら言うと母親も「そうね」と笑った。賢斗は話を収束させるために自分が思っていることを告げた。

「慣れないからやっぱり大変だよ。足の筋肉痛がずっと取れない」
「ちゃんと水分取ったり、怪我する前に休みなさいよ」
「分かったよ」

 そこからは沈黙して夕飯を食べるのに集中する。たまに学校のことやテレビのニュースのことなどで話すが、賢斗は別のことを考えている。気になっていたのは部活のこと。怪我をする前に休むというのは確かに必要だろう。しかし、自分にそんな余裕があるのかと思ってしまう。

(皆、本気で全国大会目指してるんだよな)

 誰も中学時代に全国大会への道に続く階段に乗ることさえできなかったのに、高校から行こうと本気で思っている。真比呂は言わずもがなだが、純や理貴。礼緒、隼人も、口に出さないが、本気で目指している。それが賢斗には眩しかった。

「やっぱり元気ないわね。疲れてるなら無理して食べない方がいいわよ」

 母親の言葉で我に返る。ふと壁にかけた時計を見ると五分過ぎていた。その間、ずっとお椀を手にしたままで固まっていたらしい。

「大丈夫。確かに疲れてるからさっさと食べて風呂入る」

 そこから一気にご飯を口の中にかきこんで飲み込む。母親の作った料理は体の中から疲れを癒してくれるような気がした。ごちそうさま、と言って立つ。食器を片づけてからそのまま風呂に入ろうと浴室へと移動した。
 そこで背中に声がかかる。

「賢斗のこと信頼してるから。無理しないでね。あと、困った時は友達に相談するといいと思うわよ。親には言えないこともあるでしょう?」
「……そうかな」
「そうよ。あなたは人に迷惑かけたくないって自分が疲れてても言わないで溜め込んじゃうところがあるから。もっと自分を見せていいわよ」
「考えてみる」

 浴室へと続くドアを閉めて、洗濯籠に服を入れながら母親の言葉を脳内で繰り返す。中学時代に合唱部にいた時。そして、今。ほとんど変わっていない自分を見る。

(苦手なんだよなあ、そういうの)

 小学生の時から、友達に心を開くのは下手だった。けして嫌いなわけでもなく、嫌われているわけでもなく。ただ一緒にいて楽しい反面、息苦しかった。友達との距離感がいまいち掴みづらく、近寄ろうとして躊躇し、近づいてこられたら少し離れた。そうしてきた結果、一緒にいるのが疲れて休んでしまう。
 高校から合唱部に入らず、バドミントン部に入った理由の一つがそれだ。自分の中学から多く入っている栄水第一の合唱部には同級生も、中学時代に他校の部員に見かけた顔もいる。彼らがこぞって自分に話しかけてきて、スペースを侵していくのだ。
 中学時代に合唱部で過ごした日々の煌めきの裏で賢斗は徐々に息苦しくなっていった。その辛さから逃れるために、歌にのめりこもうとした。
 しかし、仲間たちと友に歌うことが合唱であり、声を出して声を重ねるたびに、仲良くなりきれない自分に心が苦しくなっていく。そして、中学最後のコンクールが終わって引退した時に賢斗は合唱から離れることを決めた。
 やりたいことをやるたびに、自分を傷つけていくことに疲れて。
 風呂場へと入り、軽くシャワーで汗を流してから湯船に浸かる。賢斗は自分がバドミントン部に入るきっかけを思い出していた。

(確か……何か他の部に入ろうって思ってたらビラ見つけたんだっけ)

 まだ四月のある時期だった。入学した直後で、合唱部から背を向けたことで急に心にぽっかりと穴が開いたままだった。その時、掲示板に貼られているバドミントン部のビラを見つけた。自分が全くやったことがない分野。最近では美人ダブルスと呼ばれた二人がよくテレビに出ていて、オリンピックでも地上波で試合の様子が流れていた。サッカーやバスケ、バレーなどスポーツだと有名なものは自分には無理だと分かっている。もし合唱から離れるならば全く違う分野。文科系だったところから運動系への転身。
 真逆に進めば、自分の心に空いた穴に何かが埋まるのではないかと思っていた。

「そうなんだよな。俺って」

 賢斗は肩まで浸かっていた体を更に沈めて、目元まで沈む。あえてぶくぶくと息を吐いて気泡を出しながら自分の中にある考えをまとめる。

(バドミントンなら、運動もできるし、スカッとできるって思ってたんだ)

 マイナー競技で更に休部したてでメンバー募集中。ここならば、練習についていけなくてもあまり怒られることもなく、練習次第で試合にも出られるだろうと賢斗は考えた。地道にコツコツ頑張って、三年間で体を引き締めつつ合唱から離れていれば、もしかしたらまた合唱や歌を好きになれるかもしれない。あくまでも、合唱から逃げこんだ先であって、ずっと続けるつもりもない。
 だが、入部すると賢斗の想像以上に本気で全国大会を目指している面子ばかりだった。初心者の賢斗でさえ、全国など夢のまた夢だと思えるのに、隼人たちは信じている。特に真比呂は賢斗と同じくバドミントンは初心者だというのに一番全国大会を目指しているようだった。バスケ部で鍛えた体ならばバドミントンもすぐに慣れるのかもしれない。
 賢斗は真剣になるということ自体は好きだ。
 楽しむためには辛いことを受け入れて、淡々と努力していくことが楽しさに繋がると思っている。その気質上、基礎練習をこなしていくというのは問題ない。
 だが、他の五人のように全国を目指せるかと言われると、黄色信号だった。

(こうやってきつい思いをするくらいなら……辞めた方がいいのかも。そのほうが、皆に迷惑もかけないし)

 女子と初めて試合をした時のことを思い出す。隼人とダブルスを組んで女子のエースペアと対戦をし、隼人にフォローしてもらいながらも負けた。まだバドミントンに触れてひと月くらいしか経っていなかったのだから勝つ可能性のほうが低い。それでも、試合の間に自分が急激に上手くなっていくことを実感できて、もっと上手くなりたいと思えた。
 そう感じたことが力となってこうして夏休みまで続けてきたが、今、賢斗が考えていることはその衝動が切れてきたからかもしれない。

(だんだん上手くなってくると分かる……まだまだ上はたくさんあって、いくら頑張っても今の自分じゃ届かないんじゃないかって。時間が足りないんじゃないかって思う)

 元々、高校から始めるということでスタート地点が違うのだ。全国大会という場所はおそらく、中学までずっと鍛えてきたプレイヤーか、よほど才能に恵まれた高校から始めたプレイヤーしか届かない場所だ。自分にそこまでの才能があるなどと賢斗は思っていない。だからこそ、自分は最後まで足を引っ張り続けるだろう。

「辞めるなら、今かな」

 湯船から立ち上がる。自分の体を見下ろしつつ、腕や足を手で触っていく。
 筋肉痛と切っても切り離せない体になっているが、以前とは明らかに違う。中学まで鍛えてきた腹筋や背筋などの腹回りと同じくらいに右手と両足の筋肉が鍛えられてきている。ランニングや素振り、試合形式の練習で隼人はとにかく使っていなかった箇所の強化に尽くした。その成果がまざまざとあらわれている。それを楽しいと思っても、彼らが目指す領域には楽しいだけじゃいけない。

「やっぱり、辞めるって言うか」

 そう伝える自分を想像して賢斗は胸が痛む。高校で合唱部には入らないとかつての仲間に告げた時と同じくらいの痛み。感覚的にはそれ以上に思える。それだけ、自分の中でバドミントンは既に大きくなっているということだろう。

(それでも、伝えないと)

 もう一度湯船に勢いよく漬かる。衝撃にお湯がバスタブの外に溢れるが構わずに賢斗は頭までうずめた。自分の決意が鈍らないように。自分の心に決意を定着させるように息を止めた。
 たった数か月の間だったが、十分楽しめた。上を目指すためには付いていけない者は淘汰されるべきだ。そうしなければ、全国なんて夢のステージでしかない。

(伝える……伝える……)

 自分に何度も言い聞かせながら、賢斗は息が続く限り息を止め続けた。
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