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● SkyDrive! --- 第二十九話 ●

「私ね、インターミドルの最後に膝を壊しちゃったんだ」

 井上と共に体育館の壁に寄りかかって座った隼人は、隣から聞こえてくる声だけを聞く。真正面から話を聞かれると話しづらい、と井上から言われたからだが、隼人も顔が見えないというのは気が楽だった。

(泣いてる女の子と接するのは……流石にどうしたらいいか分からないし)

 井上の声はまだ涙で濡れているが、それでも言葉が途切れるほどではない。ほんの少し前の状況ではいつまでも話せなかっただろう。

「ちょうど最後の試合が終わった時にね、左膝がね。手術までしたんだよ。おかげで日常生活にも支障はないし、ある程度運動もできるようにはなったんだ。だから、体育とかでもよっぽど激しくなければ参加していいって言われたんだ」
「なるほどな。だから体育の授業は参加してたんだ」
「うん。でも、マラソンとか……長い間ずっと負担がかかるようなのは無理なんだ」

 布地の上を掌が走るような音。恐らくスカートに包まれた膝を撫でたのだろう。
 隼人は井上の言いたいことがなんとなくではあるが分かってきた。しかし、それを先んじて言うのは止めておく。この場はつまり、井上が全てを告白し、その上で隼人がどうするか。そういう場なのだろう。

「高校でも、やっぱりバドミントンはしたかったんだ。ただ、お医者さんからは……激しくはできないって。部活に入れたとしても、試合に出られるようには、多分ならないって。その先生もね、バドミントンを学生時代やってたんだって。だから、どれだけ激しいかも知ってるって」

 また井上の声に含まれる涙が多くなり、言葉が止まった。隼人は自分に置き換えて考えてみる。自分が膝を壊して、今まで通りのプレイは出来ないと告げられたらどうなるか。
 ショックを受けるかもしれない。
 しかし、何かしら別の目標を見つけるかもしれない。
 絶望してばかりはいられず、今の状況から自分が楽しめることを探すのかもしれない。
 そう考えるのも、今、こうしてバドミントンが出来ているからかもしれない。
 いくつも考えは浮かぶが、最終的には推測の域を出ず、考えること自体が無駄だと思って霧散させた。

(駄目だ。井上の気持ちを分かろうとしても、今の俺には分からないし、分かろうとするのも……駄目な気がする)

 井上が求めている優しさを、隼人は与えられないのかもしれない。ならば、自分がこうして聞いている役割はなんだろうか。

「……それでもね、バドミントンから離れたくなかったんだよ」

 井上の話が再開される。その言葉からは、シンプルな思いだけが伝わってくる。
『バドミントンが大好き』という気持ちだけ。シンプルだからこそ、自分がバドミントンが出来なくなるということに耐えられないのだ。

「だからね。私、頑張ったんだ。それで、あの日も、団体戦に出てみたいって谷口先生にお願いしたんだよ。そしたら、OK出してくれた。先生も一年は出してみたいって言ってたから。空いてた枠にわざわざ出してもらったんだ。井波君との試合、楽しかった」
「その試合で、膝が痛くなったのか?」

 隼人の言葉に井上は首を振った。
 それは隼人にも予想外のこと。今までの話の流れならば、膝の痛みを再発してやっぱりバドミントンは無理だと諦めたのではないかと思ったからだ。井上はくすりと笑って隼人の方へと少し顔を向けて言う。

「バドミントンをしている途中で膝が痛くなったのは、さっきが初めてだよ。井波君との試合は、まだ痛くなかった」
「そうなのか?」
「うん……痛くなかったんだよ」

 その言葉を聞くと同時に、隼人は井上の顔を見てしまった。隼人の顔を見ながら泣いている井上に、隼人は心臓が早鐘を打ち始めて顔をそむける。痛くないのならば、一体何が原因なのか。

「痛みのせいにできたなら、きっと楽だった。でも、逃げられない。私は痛くなくても、あれくらいのショットしか打てなかったんだ」

 ぼやけていた井上の思いが、初めて隼人の前に顔を表す。
 隼人の隣に現れているのは井上だ。自分の理想に届かないとして絶望した、井上。

「井波君と試合をした次の日から、ちょっと膝が痛い日が増えたの。だから一週間は安静にしてただけなんだよ。痛みも収まって、やりたいなーって体育館に足を運んだら見覚えあるラケットバッグが置かれてたから、思わず手に取っちゃった」
「で、やっぱり痛んだってことか」
「うん。やっぱり、痛んだ」

 言葉を繰り返す。そして体育座りで膝を抱えて小さくなる井上。隼人は逆に足を伸ばして更に楽にする。

「私は、ずっとこの膝が痛くて、頑張って練習しようとしても痛みに休まないといけない。今の私は今くらいの実力で。練習しないと上手くならないのに。もう、私は私が目指したいことには届かないって、思ったら。泣けてきたんだ」

 井上はまた涙を抑えるために膝に顔をうずめる。隼人は天井を見上げながら次の言葉を探す。結局は、真比呂のせいではなく井上が抱える問題が原因だった。
 休んだこと自体は取り立てて特別な理由でもないし、真比呂が原因でもない。古傷が開いただけというところだろう。
 井上が涙を流しているのは、見えてしまったからなのだ。自分がもう、自分の思い描く理想のスタイルに届くことがないのだと。

「井上ってさ。俺とプレイスタイル似てるよな」

 隼人の言葉に頷く気配がする。隣は見ていないため、あくまで気配。隼人は頷いていると決めつけて、先を続ける。今はただ、自分が伝えたい言葉を伝えるために。

「俺らのスタイルってさ。めっちゃしんどいよな。基本、自分で一発決める力がないから、コントロール頑張って磨いてさ。相手のスマッシュやドロップをしっかり取ってさ。隙を探すのに常に考えてさ。試合中にたくさん考えてたら最後の方とか頭ぼーっとしてくるよな」
「……そうだよね。疲れて、たまらなくなる」

 井上も回復したのか、隼人の言葉に同意してくる。自分と同じスタイルだからこそ通じあう会話。試合の中でどれだけ考えてどれだけ実践しているのか。それはおそらくそうじゃないプレイスタイルの選手も分かりはするだろう。しかし、その難度がどれだけのものかは同じことをしている者同士でしか認識できない。

「だから俺たちに一番必要なのは、実は体力なんだよな」
「……そうだね」

 隼人の言いたいことが分かったのか、また井上は声を暗くする。
 体力。それは単純にスタミナの意味だけではない。
 運動をする中ではどうしても怪我をする可能性はある。それをどう回避するか。更には、怪我しそうな時でも耐えられるか。更には、怪我を、治せるか。
 あらゆる意味での『体力』が必要だと隼人は言っている。
 試合中にスタミナがなくなればそれだけ怪我をする可能性は増えていく。そうでなくても怪我をしそうなシチュエーションになっても、怪我をしない耐久力があれば、なんとかなる。怪我をしてしまっても、治癒力が高ければ次に繋げられる。

「その意味で井上は、足りなかったんだ、ろうな」
「そうだね。だから、私はもう自分がやりたいプレイをすることは、できない。試合も、一ゲームしかやってないのに次の日に痛みだすんだもの。公式戦には、出られない。練習試合みたいな状況じゃないと」
「井上……」

 隼人の言葉を遮って、井上は思い切り叫んでいた。

「私は、バドミントンをやるために部活に入ったのに! もう、自分のやりたいバドミントンが出来ないの!!」

 隼人は谷口の言葉を思い出していた。

『納得しないまま周りに流されるだけだと、後から大切なものを無くすわよ』

 井上は自分のやりたいバドミントンの理想が見えている。隼人自身と同じように、自分の理想形が。
 それだけに怪我のせいで、もうそこに到達できない自分。更に、公式戦も出られないような自分に対して絶望している。それでも、バドミントンを続けたい気持ちはあって、その間で板挟みになっている。
 ここで隼人が、続けて行けば何か変わるかもしれない、と言えばきっと井上はバドミントンを続けるだろう。しかしそれは、問題を先送りにしただけで何の解決にもならない。井上の中で矛盾は育っていき、彼女の大切な物が壊れてしまうだろう。
 隼人はこの場で出来ること――言葉を伝える。

「俺にはさ、今の井上をバドミントン出来るようにしてやることは、どう考えてもできないんだよな」
「……分かってる。それは、無理だよ」
「うん。無理だ。もしかしたら思い切って数年膝を休ませたら完治するかもしれない。でも、それは、今を乗り切る理由には弱すぎるよな」

 隼人は一度言葉を切って、言う。これからの言葉は井上にとって分かりきった現実を伝える。井上は自分の現状が分かっていないわけではない。分かりきっているからこそ。自分の思いと現実の釣り合いが取れていないだけ。それをどうにかできるとは、隼人も思っていない。ただ、自分が今、伝えられる言葉を伝えるだけ。

「俺には無責任にバドミントンを続けろなんて言えない。でも、バドミントンに関わりたいなら、選手じゃなくても手段はある」

 そう伝えただけで井上は隼人の言いたいことが分かっただろう。息をのみ、ゆっくりと吐いてから呟く。

「マネージャーをやれっていうの?」
「そうだな。女子のじゃなくて、男子のだけど」
「……男子、の?」

 隼人は井上に視線を向ける。さっきまでは反らしていた視線。しかし、今はしっかりと固定して井上に向けて伝える。自分の、そしておそらくは男子バドミントン部全員の気持ちをはっきりと見せるために。

「俺も、井波も。他の皆も、井上に感謝してるんだよ。お前がいたおかげで、男子バドミントン部を復活させることが出来た。外山のことを教えてくれたし、部員募集のビラも作ってくれたし。俺らのために動いてくれただろ?」
「うん……ああいうの、嫌いじゃないし」
「そうなんだよ。俺も、ああいうの好きなんだ。いろいろ考えていくのな。試合とはまた別の達成感あるよな」

 隼人は笑顔を作る。それは心からの笑顔だ。笑顔を作ろうと思ったとしても、楽しいのは、充実感、達成感があるのは事実なのだ。だからこそ、井上に届くと隼人は信じる。

「井上の力を、これからも貸してほしいんだ。男子バドミントン部に」

 手を差し出す。自分の提案を受け入れた場合に、しっかりと握り返してほしいという願いを込めて。
 だが、その手を握ろうとするならば、隼人は一言だけ言うつもりだった。それは杞憂に終わり、井上を首を振る。次の言葉は隼人の予想通り。

「駄目だよ……私、バドミントンをしたいんだよ。バドミントンが出来ないのに、マネージャーとしてなんて、関われない」
「皆が、妬ましいか?」

 隼人の言葉にはっとして体を少し離す井上。だが、隼人は視線を外さない。その瞳に宿る意志の強さに井上も頷く。

「うん。私がもうできないことを、皆がしていることを見るのが、辛い」

 井上は胸元に両手を持って行き、ぎゅっと握る。何かを握り潰そうとするかのように。

「でも、私は……私は……っ それでも、離れたく、ないの」

 既に体育館の壁からは離れて、井上は体を隼人の方へと向けている。そのままお辞儀をするようにうつ伏せになり、嗚咽を漏らす。自分の中にある思いを口に出そうとしてつまってしまう井上に変わり、隼人が口にする。

「バドミントンが出来ないなら離れたい。でもバドミントンから離れたくない。そうだよな。俺も多分楽しいって言えるのは、バドミントンが出来るからなんだ。だから、俺はやってほしいって頼むことはするけど、強制はしない。できない」

 俯く井上の頭に手が伸びる。隼人も何をするか考えず、感覚的に差し出しただけ。そして、井上の頭を軽くなでる。

「もう、今までの自分のままじゃ、これから先、バドミントンに関わることはできないんだよ、井上。だから、考え方を変えないと駄目なんだ。俺も同じ状況になれば同じように苦しんで、答えなんて出せないかもしれない。俺は多分、口だけかもしれない。でも、言うぞ。俺は今の俺で言えることを。だから、あとは井上が決めてほしい」

 泣いている途中のしゃくりあげなのか、頷きなのか。井上の頭が縦に動いた気がして、隼人は先を続ける。

「俺たちと一緒に男子バドミントン部を支えて欲しい。井上が、俺たちや、女子がバドミントンをしているところを見て苦しむとしても、やってほしいって頼んでる。俺らの自分勝手なお願いさ。その辛さを一緒に支えてやるなんて言えない。ただ、一緒に」

 隼人はそこで井上の顔を両手で掴み、自分の所へと上げさせた。
 涙で真っ赤に濡れた目が隼人へと向かう。目の周りも赤く腫れている。

「一緒に、それ以上に喜べるように、やっていきたい」

 井上の濡れた瞳が隼人を見つめる。そこで隼人は自分が井上に接近しすぎていることに気づく。慌てて顔から手を放して座ったままで距離を取ると、その様子を見ていた井上がくすくすと笑いだす。

「高羽君……かなり熱いね」
「ほっとけ」

 そして隼人は立ち上がり、ラケットバッグを持つと体育館の入り口に向けて歩き出す。

「高羽君?」
「俺はもう帰る。言いたいことは言ったし。井上もいつまでもここにいると守衛さんに見つかるぞ?」
「え、ちょ――」

 井上の戸惑いの声を背に隼人は扉を開けて一瞬で閉めた。そこから下駄箱まで一直線に進んでいった。
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