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● SkyDrive! --- 第百十六話 ●

 礼緒の告げた棄権宣言はあまりにも自然だった。
 まるで空気に溶け込んで消えるような発言は、告げられた審判も含めで誰もがすぐには理解できなかった。
 ネットの向かいで構えようとしていた龍田が、ラケットを取り落としたことで甲高い音が響く。その音がきっかけとなったかのように、審判は礼緒へと聞き返した。

「小峰選手……棄権、ということですね」
「はい」

 審判の動揺も、改めて小峰から告げられた言葉によって落ち着く。
 次に審判は隼人のほうへと視線を向けていた。選手自身が棄権すると言えば止める権利はないが、栄水第一の誰かに聞いておきたかったのかもしれない。

「小峰君が棄権を申し出ていますが、よろしいですか?」

 顧問である谷口がいない今、言葉の矛先は隼人へと向かっていた。
 礼緒と審判を交互に見た隼人は、もう一度礼緒へと視線を強く向けてくる。
 言葉は発しなかったが、隼人が聞きたい事は礼緒も理解していて、深く頷いた。

「小峰の言う通りです。棄権します」
「分かりました」

 審判はコートに入って龍田と礼緒を交互に見てから二人に向けて告げた。

「第二シングルスは、栄水第一高校・小峰選手棄権のため、白泉学園高校。龍田選手の勝利となります」
「あ……りがとうございました」
「ありがとうございました」

 握手を交わし、その手を離すまで龍田の顔はこの結果を理解できないという表情を崩さないままだった。礼緒は終始笑顔を浮かべていて、龍田との握手の時も力強く握ってから軽く揺らし、あっさりと離すとコートの外へと歩いていく。龍田は何かを言いかけて口を開いたが、結局は何も言えないまま見送った。

「小峰。大丈夫か?」
「礼緒君!」

 礼緒を出迎えたのは隼人と亜里菜。足を痛めている真比呂は応急処置を受けてひとまずは安心と判断されたのか、パイプ椅子に座ったままで礼緒を見ている。賢斗は真比呂を心配そうに眺め、純と理貴は神妙な顔つきで立っていた。

「これで良かっただろ、高羽」
「……お前は、いつから痛くなってたんだ?」
「全力で振り切り始めた時だな。多分、セカンドゲームをやってたらあいつと同じになってたよ」

 軽く顎を振って真比呂を指し示す。隼人は複雑な表情を浮かべていたが、強く入っていた肩の力が抜けてため息を吐いた。

「確かに。井波と同じになってたら……俺は試合どころじゃなかったな。腕が痛くて」
「どうして腕が痛くなるのかは聞かない……ごめん。勝てなくて」

 礼緒は素直な気持ちを告げる。一度隼人の隣を通ってパイプ椅子に腰を掛けると全体重を乗せたからか、椅子が軋んだ。続きを言おうと口を開くのとほぼ同時に、会場にアナウンスが響いた。

『現在、男子団体決勝が行われておりますが、次の試合まで十五分の休憩とさせていただきます。繰り返します。現在――』

 十五分後にする理由も告げず、淡々と隼人の試合が十五分後だと流れていく。礼緒はその意図に気付いて苦笑いをしてしまった。

(井波が足攣って。俺が自分から進んで棄権したから神経質になってるかもな……時間も稼げるから俺らにはいいことだ)

 礼緒は内心ほっとする。本当ならば、試合途中で棄権になるだろうと理解したなら第三シングルスのためにできるだけ時間をかけることが最善だった。
 隼人は最初のダブルスで体力を消耗しており、回復の時間は多くて損はない。
 だが、礼緒はファーストゲームの勝利に全力を注いだ。結果としてセカンドゲームが速まり、即座に棄権したことで第三シングルスの開始が前倒しになるはずだったのだ。

「小峰。どうして勝負を急いだんだ?」

 聞こえてきた理貴の声に顔を上げると、真比呂を除いた仲間たちが立って礼緒を見下ろしていた。真比呂も数個離れた椅子に座って目線は向けてきている。全員の視線が集まる中、礼緒はため息を一つ吐いてタイミングを計ってから告げた。

「どうせ負けるなら、一回くらいは勝ちたかったんだ」
「……ファーストゲームだけでもってこと?」

 賢斗の質問に頷いた礼緒は、理貴に視線を固定して続ける。

「足を怪我しそうだって思った時に、続けるか止めるかって悩んだ。でも先に井波が倒れて、隼人や谷口先生の言っていたことを思い出した。棄権しようって決めてからは、せめてファーストゲームだけでも取ろうって思ってさ」
「……高羽のシングルスまでの時間を稼ぐってところは考えなかったか? お前なら無理せずに打ち合えば、二ゲーム目が終わるまで足を攣らせないまま負けることもできたと思うけど」

 理貴が不機嫌に問いかけてくるのは、やはり隼人の第三シングルスを気にしてのことだと悟り、礼緒は頬を緩めてしまう。
 経験者として、打ち合わせていなくても礼緒の状況となれば時間を稼ぐだろうと理貴は考えているのかもしれない。
 そして、礼緒もまた自分がコートの外にいたならば時間を稼ぐほうが正しいと思っていたと考える。

「考えなかったな。だって」

 一度言葉を区切ってから、礼緒ははっきりと言った。自信を持って、何一つ間違っていないと胸を張って。

「やっぱり、勝ちたかったしな」
「……なら仕方がないな」

 理貴ではなく隼人が後を引き継いでその場を収める。理貴もまた、肩をすくめてため息を吐き、純が宥めた。
 礼緒を責めるような場になったが、誰もが理解していたのだ。一ゲームでも取ろうとした礼緒の行動は間違ってはいないと。

「結局、お前に回すことになったな」
「体力はどうだ?」

 礼緒と理貴に尋ねられて、隼人は屈伸をしてからその場で軽く飛ぶ。体の状態をゆっくりと確認してから、二人だけではなく賢斗と純。そしてパイプ椅子に座って視線を逸らしている真比呂にと一人一人見てから言った。

「大丈夫。むしろ休みすぎると緊張の糸が切れるから、今くらいの休みで十分だ」

 隼人はラケットバッグからラケットを取り出し、コートに少しだけ足を踏み入れる。そこで前後に軽くフットワークを始めた。第一ダブルスから二度目の試合。時間が空いたことで体の中に淀んだ怠さを、輩出していくように動いて汗を出す。

「……ふぅ。問題ないよ」

 フットワークを終えて皆のもとに戻った隼人に、六人の視線が向く。
 隼人は視線を全て受け止めた上でしっかりと言葉を口にした。

「中島。外山。鈴風。小峰。井上。そして、井波」

 最後に名前を呼ばれた真比呂は身をすくませて視線を逸らす。あえて真比呂に視線を向けたままで隼人は口にする。
 決意の言葉を。

「俺は、必ず勝つ。皆で、全国に行こう」

 自信を持った言葉に礼緒は言葉には出さずに心の中で呟いた。

(やっぱり、俺たちのエースはお前だよ、高羽)

 現実として、実力は自分よりも下だと礼緒は分かっている。
 しかし、この場で第三シングルスに立つべきなのは、隼人なのだと誰もが疑わないだろう。
 純の復活。賢斗の全力を込めたプレイ。そして決勝進出の原動力となった真比呂と礼緒の急ブレーキ。
 全ての要素がまるで予定調和のように隼人を最後の舞台へと立たせているかのようだ。
 もちろん、それは礼緒の勝手な想像ではあるが、そうした人の想いが繋いだかのような偶然があってもいいのではないかと考える。

(練習試合で勝った、相手。でも、高羽だけは負けたんだよな)

 相手のコートにもすでに対戦相手が立っている。
 三鷹守。隼人の中学時代のバドミントン仲間であり、今は白泉学園高校の最後の砦。
 夏に行われた練習試合は、まだ栄水第一も白泉学園高校も団体戦のメンバーを決めたばかりで、互いに未熟な状態で行われた。結果は、未熟の差を跳ね返すように、まだ結成して数ヶ月しか経っていない栄水第一が勝った。
 4勝1敗。唯一、第三シングルスの隼人だけが敗北を喫していた。

「練習試合の時、俺だけが負けた」

 礼緒が考えていたことを見透かすかのように、隼人は皆の前で語りだす。表情に力は入っておらず、背伸びをすることも気負うこともなく、自然体で言葉を紡ぐ。

「あれから、俺が最後の砦として残っていいのか、何度も自問自答したよ。小峰がエースでいいとも思った。実際に、小峰が一番強いからな。でも……市内大会や昨日と今日の試合も通して、俺にも覚悟がようやくできた気がするよ」

 隼人は力強い言葉を口にした後で照れくさくなったのか、少し視線を迷わせてから勢いに任せて思いを発した。静かではあったが確かな力のこもった言葉は、聞く六人の胸に突き刺さる。

「俺が、栄水第一バドミントン部のエースになるよ」

 言葉の後で突き出されたのは右腕。
 ラケットを左手に持ち変えてから突き出された右手の上に、まずは賢斗の手が乗せられる。
 続けて純と理貴。その上に礼緒と亜里菜。最後に残ったのは、真比呂。

「おい。井波。お前がいないと始まらないだろ」
「……でも、な……」
「お前が暴走するなんていつものことだろ。でも、今度やったらマジで殴るからな」

 隼人はきつい言葉を軽く口にする。迫力はなかったものの真比呂も観念して、ゆっくりと立ち上がると円陣に近づき、亜里菜の手の上に掌を乗せた。

「せっかく強いシングルスのやつらが。無理して足を怪我しないように。俺が強くならないとな」
「そん――」
「まずは、ここで勝ってくる」

 データを集めて、相手のことを分析した上でコントロールを駆使して戦う。
 それが隼人のプレイスタイルであり、なかなか強者には対抗できなかった。
 データを集めても試合の中でどう転ぶか分からず、勝つことを断言することはない。
 そう考えていた隼人が、全国がかかった大一番で勝つと明言する。その心の変化は礼緒たちにとっては意外なことだったが、すぐに納得した。

「頼むぜ、部長」
「ここまで来たら行くしかないだろ」
「全力で、応援するから」
「お前なら勝てるさ。絶対」
「隼人君なら、ね」

 理貴。純。賢斗。礼緒。亜里菜。
 五人の言葉一つ一つが隼人の腕を通って力を与えるように礼緒は思える。最後に残った真比呂は、思い切り息を吸うと全力で吼えた。

「栄水第一ぃいいいいい!」
『ファイトォオオオオオ!』

 最後の気合いが隼人の中へと注ぎ込まれたところで休憩時間は終わりを告げる。
 円陣から離れた隼人はコート中央を目指し、他のメンバーはコート外の椅子へと腰かけた。
 礼緒がパイプ椅子にゆっくりと座ると、真比呂の足を見ていた医者が診るかどうか尋ねてきたが、礼緒は横に振った。最後の試合を悔いなく見るために。これ以上、隼人の重荷にならないようにと先に棄権したのだから。
 他に行われている試合もなく、団体戦は最後の試合に向けて進んでいく。
 コートはモップがかけられ、これまでの試合がリセットされたように綺麗になる。
 審判はコートの中央へと近づき、向かい合っている隼人と三鷹の傍に立つ。

「握手を、お願いします」
「よろしく」
「お願いします」

 互いに一言ずつ話して手を合わせてから、掌が離れる。すぐにじゃんけんが開始されて、隼人がサーブ権を取った。無駄な言葉はなく、サーブ位置とレシーブ位置に戻っていく二人。同じタイミングで振り返ってそれぞれの体勢を取ると、審判が所定の位置に着いて告げた。

「オンマイライト。三鷹。白泉学園高校。オンマイレフト。高羽。栄水第一。トゥエンティワンポイントスリーゲームマッチ、ラブオールプレイ!」
『お願いします!』

 互いと審判。そしてラインズマンにも挨拶をして、二人はまたしても同時に視線を交わす。
 間に横たわるネットを燃やすかのように熱い闘志がぶつかり合い、空間を歪ませるかのよう。無論、錯覚ではあるが、その場にいた礼緒や、栄水第一のメンバー。そして、おそらくは白泉学園高校の選手たちも同じように感じたと思えた。

「一本!」

 隼人が空間を取り巻く熱を斬り裂くようにラケットを振り、シャトルを高く打ち上げた――ように礼緒は錯覚した。
 シャトルは隼人のラケットの勢いが正確に伝わり、ネット前にきわどい軌道で浮かび、越えていく。コートの奥ギリギリまでシャトルが飛ぶと思い込まされていた三鷹は後方へと足を運んでおり、前へと落ちていくシャトルに向かうことすらできずに見送るだけだった。

「ポイント。ワンラブ(1対0)」

 隼人はゆっくりと息を吐き、サーブ位置を移動する。三鷹は一度天井を見て息を勢いよく吐いた後でシャトルを取りに行き、拾い上げてから静かに打った。
 綺麗な軌道を描いて隼人の目の前へと落ちたシャトルを、隼人はラケットで絡めとる。

「ストップ」
「一本」

 三鷹が紡いだ言葉は、激しくはなかったが滲み出る闘気を隠しきれていない。隼人は当てられる圧力を受け流すように呟いて、サーブ体勢を取った。

(高羽のやつ。円陣で気合いを入れたのを生かして、ファーストサーブを外したのか)

 礼緒は背筋に悪寒が走るのを止められなかった。隼人が全員での円陣を組んだことは、その場の流れによるものだったはず。真比呂の気合いも手伝って、その場で熱を最大限に高めた。
 そうして試合開始まで繋いだ気合いを、全て使ったフェイント。
 全員の思いをしっかりと心の中に秘めて、隼人は渾身の力を込めて、シャトルを撃つ瞬間に右腕を止めていたのだった。

「ナイスフェイント! 高羽!」

 思わず声に出して、礼緒は言葉をかける。隼人は一瞬だけ礼緒を見てから頬を緩めた。
 次に隼人が放ったのはロングサーブ。
 シャトルはコートの奥までしっかりと飛んで、ライン際を目指して落ちていく。
 一点目の影響で出足が鈍った三鷹は、かろうじて落下点に入ってハイクリアを打って体勢を立て直す。ストレートに飛んだシャトルを追いかけた隼人は十分な時間を取って真下で構えると、ネット前へとクロスドロップでシャトルを落とした。三鷹はコート中央で体を硬直させてしまってから前へと取りに行くも、ギリギリで届かずに打ったシャトルはネットに当たっていた。

「ポイント。ツーラブ(2対0)」

 あっさりと二点を取られた三鷹に白泉学園側からドンマイと声がかかる。
 三鷹も声援に頷いてから、シャトルを取りに行って拾い上げた。タイミングが同時だったために隼人もすぐ傍まで来ていて、シャトルを手で渡す。礼緒には聞こえなかったが、三鷹が何かを言ったように見えた。それに対して隼人も頷き、笑顔を向けていた。
 サーブ位置へと戻った隼人の表情は既に厳しくなっており、シャトルを持って身構える。

「ストップ!」

 気合いを込めて吼える三鷹へと、今度はぶつかっていくようにシャトルを思い切り高く上げた。綺麗な弧を描いて落ちていくシャトル。コントロールは疑う余地もなく、ライン際へと向かう。
 三鷹も今度は迷わずにシャトルの斜め後ろについて、渾身の力でスマッシュを放っていた。
 コートの右サイドギリギリに放たれたシャトルは隼人がラケット伸ばすよりも一瞬だけ早くライン上へと跳ねあがる。一度浮かんでから落ちると、白泉学園側から一気に歓声が沸き起こった。

「ポイント。ワンツー(1対2)」

 隼人はシャトルに近づいて拾い上げる。シャトルの羽を指の腹で撫でつけて整えていると、真比呂がまるで自分の試合のように声を出す。

「ドンマイだぞ、隼人! まだまだいける!」
「……お前はテンション高過ぎだ。まだファーストゲームの序盤だろ」

 羽を整えたシャトルを乱さないように軽く打ってからレシーブ位置に着く前に、隼人は真比呂に向けて笑いながら言った。

「お前の元気はもっと後に取っておけよ」
「……お、おおう! 分かったぞ!」

 真比呂を一言で封じてから、改めて隼人はレシーブ位置に向かう。
 その後ろ姿はこれまで以上に頼りがいがあり、礼緒は唾を飲み込む。市内大会の団体戦決勝の時とシチュエーションは似ているが、全く異なる。
 当時はまだ背負うことに対して力みがあったが、今はもう完全に真比呂も礼緒も、順も理貴も賢斗も、亜里菜さえも背負っていると理解できた。
 言葉だけではなく心も身体も。
 隼人はエースとして重荷を背負っているに相応しい佇まいと動きを見せていた。

「一本!」
「ストップ!」

 三鷹のロングサーブで運ばれたシャトルの後方へと勢いをつけて移動すると、隼人は前方へ飛ぶようにしてラケットを振りきる。シャトルはスマッシュで鋭く切り込んでいき、シングルスのサイドライン上へと落ちていた。
 隼人はコントロールがよくてもスマッシュはそこまで速くはない。しかし、今はハイクリアを打つようなタイミングでスマッシュを打ったために三鷹は反応できなかった。

「ポイント。スリーワン(3対1)」

 全国選抜バドミントン大会神奈川地区予選。団体戦決勝。
 第三シングルスは隼人のリードで進んでいく。
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