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● SkyDrive! --- 第百七話 ●

 隼人が外へと続く扉を開くと、冷たい風が体を突き抜けていった。
 さっきまで汗をかいていた体が冷えすぎないか不安だったが、気圧の変化による一時的な突風だったのか、外はそこまで寒くはない。特に、空から落ちてくる太陽の光が暖かく、長い時間いなければ問題ないと結論付ける。

(気持ちもすっきりさせたいしな)

 隼人は深呼吸をしながら体育館の外周を歩き出す。ジャージ姿で、ゆっくりと外を歩くのは隼人しかおらず、道を通って駐車場の方へと向かうと居並ぶ車を眺めながら散歩を楽しむ。
 楽しんでいる内に体中の細胞が徐々に入れ替わっていくようだった。

(ここまで……来たか……都合よくて……早すぎる気もするけれど)

 しばらく駐車場の中を回った後で入口へと戻っていく。
 考えているのはこれまでのこと。
 バドミントン部がないと諦めていたところで、真比呂と出会い、純と理貴が仲間となって、賢斗が自分からやってきた。
 最後に礼緒が、自分の中にある恐怖を克服してバドミントンに戻ってきた。
 六人がそろってこれまで順風満帆ではないと考えていたが、夢として掲げた全国制覇に向かって一年目から門の前に立っている。夢を叶えるためには、まずその舞台に上がらなければいけないということを考えれば、出来過ぎとしか思えない。
 いくつもの偶然が重なりあい、少ないチャンスをものにしたからこそ今があるのだ。

「……卑屈にならず。でも、奢らずに。今の俺には、まだ難しい」

 考えている内に足は体育館の入り口へと辿り着いていた。
 ほとんど無意識による散歩は隼人の体を適度に冷やし、気分を落ち着かせる。これ以上は寒さに凍えると判断して扉を開けて中に入ると、ちょうど靴を脱いでバドミントンシューズに履き替えている月島がいた。

「月島先輩……」
「あれ、高羽君も外にいたの?」
「……はい。逆方向に散歩してたみたいですね」

 月島の伝えようとしていたことを一瞬だけ考えて理解し、会話を止めないようにする。月島は靴を履き終えてから下がって隼人が入るスペースを確保しつつ、待っていた。離れていかないところをみると、話があるのかと考えて、隼人は心持ち早めにバドミントンシューズを履いた。

「先輩。何か、ありました?」
「うん。高羽君と話したくて」
「……次の決勝戦ですか」

 月島は微妙な顔をして首を振る。続きは違い場所でということなのか、軽く手を振って奥に行くよう促した。隼人は月島の後を歩きながら、後姿を眺める。
 隼人よりも華奢ではあるが、バランスの取れた歩き方は体格の小ささを感じさせない。女性らしい丸みを帯びたシルエットを崩さないように鍛えられた筋肉は軽快なフットワークと、フルゲームを戦える体力を身に着けている。ふと、自分が目の前の背中を目指していたのだと思い出す。

(月島さんがシャトルを打ってた姿を見て、俺はバドミントンを諦めなかったんだ)

 思い浮かべようと思えば、すぐに過去の月島の姿を脳裏に蘇らせることができる。
 綺麗なフォームは自分の理想的なもの。自分がこう打ちたいという理想が目の前に体現されることで、隼人の中にイメージが沸き起こった感覚を思い出すと自然と頬が緩む。
 男子バドミントン部が復活してから、女子部との試合で月島とシングルスをして辛勝し、白泉学園高校との団体戦で自分だけ敗れた後にアドバイスをもらったこと。互いに少しずつではあるが切磋琢磨してきたことで隼人にも分かるようになっていた。

(このタイミングで、月島さんが話しかけてくるのは。弱気になってるときだ)

 月島は自動販売機の傍にあるベンチに腰掛けると、隼人を隣に座るよう促す。素直に従って座ると月島は聞こえるか否かという音量でため息を吐いた。

「疲れてますか?」
「体力的なところはそんなに、ね。問題は心かな」
「……有宮さん、ですか」

 隼人の問いかけに一回で頷く月島。俯いたことで隼人のほうが少し高い位置から月島の頭を見下ろすことになる。せっかく外で体内の空気を入れ替えてきたのに、既に隣の先輩は落ち込み始めていた。隼人はそれも仕方がないと思える。月島が相手にしなければいけないのは、自分が直面する問題よりも険しい山かもしれないから。

「団体戦は……アベック優勝できるよ。私達も、高羽君たちも勝てる。でも、私の個人戦、シングルスは……自信がないかな」
「自分の実力をちゃんと見て、そうやって言えるだけでも先輩は強いです」

 月島に足りなかったこと。自分の感情をコントロールしきれず、相手が粘れば粘るほど攻撃が単調になった。自分と相手の今の状態を比較して、理想的な攻撃を仕掛けることができれば、月島は今の成績よりももっと上に行けるはずだと隼人は確信している。だからこそ、隼人は心を制御するための理論を与えて、月島は隼人がチームの柱として立つための実力をそれぞれ身につけさせようとしていた。
 本来の部活や、社会人サークルに世話になりながら練習をしていた合間であり、十分にできたかは分からない。だが、少なくとも隼人は自分の中に月島との練習が生きていると思える。

「先輩は強くなりました。そして、俺も……強くなれた。先輩の、おかげです」
「高羽君」

 顔が赤くなるのが分かっていても止められない。隼人は頭に血が上って顔から汗を滲ませながらも月島に対して言葉を続ける。自分が抱いている思いをちゃんと伝えるために。純も申し訳なさを堪えて、謝り、自分の気持ちを告げたのだから。

「先輩がいなければ、俺はここまでこれませんでした。ありがとうございます。俺は、絶対に勝ちます。だから、先輩も勝つって約束してください」
「……もし負けたら」
「また一緒に特訓しましょう」
「じゃあ、私が勝ったら……なんでもない」

 月島は顔を赤くして、急に立ち上がると去っていこうとする。数歩進んだところで止まり、かすかに顔を隼人へと向けてから言った。

「ありがと。だいぶ落ち着いたよ。お互い、頑張ろう」

 一つ笑顔を向けてから去っていく月島を見ながら、隼人はこれまで自分の周りに浮かんでいたぼんやりとした気持ちが心臓に集まっていくように思えた。かかっていた霧が一つになり、形となる。
 見えた思いに頬を赤くしながらも、しっかりと頷いた。

 ◆ ◇ ◆

「ふぅ……」

 深呼吸を何度も繰り返した後で、谷口静香はゆっくりと目を開けた。ついさっきまでずっとしゃべり続けた影響で喉も乾いている。それぞれの休み時間を持っている部員たちとは数歩だけ距離を置いて、客席のある体育館内部から出ると自動販売機に一直線に向かった。

(伝えられることは……全部伝えた。あとは、亜里菜に任せる。高羽君と二人ならきっと、上手く使えるはず)

 静香の中には、久しぶりに達成感があった。
 女子の団体戦も決勝に進み、油断しなければ全国大会出場を決められる。
 男子も、隼人を中心にしてシード校をギリギリではあるものの倒して決勝に進んだ。相手は一度練習試合で勝っている白泉学園高校。だからと言って油断してはいけないが、一度試合をしたことがある相手ならば、緊張も少しは和らぐはず。

「……あった」

 自動販売機の前で立ち止まり、目当ての飲み物を見つけると財布から硬貨を取り出す。だが、手から滑り落ちて転がっていってしまった。 
 取りに行っている間に人が並ぶのを避けたいと、静香は転がった硬貨は諦めて新しいものを財布から取り出す。今度は滑らせないようにして投入口に入れ、スイッチに光が灯ったと同時に押していた。
 狙った飲み物を取り出し口から引っ張り出して、次に硬貨の行方を追う。
 すると、ちょうど拾い上げた男が静香に向かって歩いてきた。

「相変わらず満足した時はミルクティーなんだな。まだ試合残ってるだろ?」
「……高津、君」

 目の前に現れた知人を前に、静香は体を硬直させる。数年ぶりに自分を見つめてくる視線に緊張してしまったが、何度か深呼吸をしながら近づいて手から硬貨を取った。その頃には息も落ち着いていて、真正面から見返していた。

「久しぶりね。何? 高羽君たちを見にきたの?」
「ああ。一応、あいつらのコーチっぽいことしてたからな。全国くらい行ってもらわないと困る」
「相変わらずビックマウスよね……社会人サークル、楽しめてるみたい」
「おかげさまでな。お前も、もう良さそうだな」

 高津の言葉を聞いて、静香は口を噤む。何が「もう良さそう」なのかは問われた自分が知っている。実際に良いかと言われればいいし、まだ引きずっているといえば引きずっている。

「どう……だろ。まだ、本気になるのは怖いよ」
「だから、男子からは身を引いてたんだろ。高羽たちがいるから自分たちでも考えられるし、不要そうに見えるけどな」

 過去にあった出来事は自分の熱さを注ぐ相手を選別する。
 教師としては各人のやる気にあった方法で勉強も部活も薦めていくというのは間違っていない。だが、バドミントンだけは情熱をかけすぎてしまうきらいがあった。教師になりたての頃の静香はその分別がついておらず、最終的に思い出すのも苦い思い出にしてしまった。

「ま、男子は男子の。女子は女子の接し方もあるだろうし。お前は顧問として声くらいかけてやれよ」
「それは……さすがにしてるわよ」

 心外という雰囲気を前面に出して静香は言い返したが、高津は軽く笑って頭を振った。分かっているようで分かっていないと言外に伝えられた気がして、静香も面白くない。しかし、これ以上強くも言えないことが、高津が思いを肯定している気がしていた。

「あいつらは強くなったよ。俺のところに初めて来たのは、中島だったが……高羽と、井波。それに外山か。あいつらが中島を仲間に誘いに来てな」
「それ……どこかで聞いたわね」
「その頃から自分たちで動こうとしてたんだ。そこから、あいつらは自分たちでチームになる道を見つけた。全国制覇なんて夢を思い切り言えるのは学生の時だけだからな。応援したくなるんだよ、そういうやつらを」
「そうね」

 静香は隼人たちのことを思い浮かべて心が穏やかになっていくのを感じていた。月島や数人の女子にだけ感じていた「自発的な行動」を男子たちは六人とも身に着けている。何もなかったところから復活するという状態がプラスに働いたのかもしれない。

「少しずつでいいから、あのマネージャーの口越しにじゃなくてさ。お前の口から直接伝えてやりな。女子部の方も大変だろうけどな」

 話は終わりと言わんばかりに打ち切って、高津は歩き出す。去っていく後姿を見ていた静香は何か声をかけようと思っていたが、結局、背中が見えなくなるまで何も言えなかった。過去の友人と言っていい高津と何を話せばいいのか分からない。

(いえ……話すことが分からないじゃなくて。もう答えは出てるから話さなくてもいいってことよね)

 手に持ったミルクティーをしばし弄びつつ自動販売機の傍から移動して、近くにあった椅子に腰かける。プルを開けて口をつけると、静香にとってちょうどいい温度で液体が口内から喉の奥まで潤していく。会話の間に少しだけ温くなったミルクティーは、昔から好きな口当たりと温度になっている。

(まさか、会話を切り上げたのもミルクティーのため……? まさかね)

 互いに知っている仲だからといって、好みの飲み物が適温になる時間まで正確に知っているわけがない。もし本当だとしたらそれこそストーカーじみている、と静香は体を震わせて、次には自分の妄想に笑いが込み上げていた。

「ふふふ……ははは……ふぅー」

 なんとか笑い声を抑えていたが、堪えられずに微かに外に出る。笑いの衝動が収まってから息を深く吐き、眼を閉じる。
 脳裏に浮かぶのは女子団体戦の様子。そして、男子の団体戦での激闘ぶり。
 最初にトーナメント表を見た時、静香はすでに来年のことを考えていた。第四シードに万が一勝てたとしても、準決勝での第一シードには負けるだろう。今回、爪痕を残して二年次以降のインターハイに照準を合わせようと、女子に集中することにした。
 しかし、結果として男子も女子と同じく決勝に進み、そうそうに諦めていたことが恥ずかしくなった。

(覚悟……ね……)

 バドミントンをして、勝利を求めること。スポーツにとって大事な思いは、道が険しいだけに途中で折れることも多い。
 静香には、相手を倒して勝利を掴むことというやる気を持たない生徒への接し方が未熟な時期があった。そこで刻まれた傷が、静香を臆病にしていたのだ。

(ありがとう。士郎君)

 かつての呼び名はもう恥ずかしさを覚えないほど過去のものとなっていたが、それでも口に出すのははばかられた。それは静香の中にある意地がそうさせていたのかもしれないし、隼人たちの応援と一緒に自分にまで激励をしにきてくれたことへの礼でもあった。
 もう過去には囚われていないということを示すのに、一番分かりやすいものだろう。

「よし」

 静香は残っていたミルクティーを一息に飲みほしてからゴミ箱に捨てると、自分たちの待機場所へと歩き出した。
 スムーズに進む両足は停滞することなくアリーナの中へと入り、客席の陣地へとたどり着く。
 女子部員は口々に雑談交じりにコートで練習をしている他校の選手たちを見ていた。団体戦で試合に出る面々は気晴らしに席を外していたり、長椅子に横になってタオルを顔に被せて休んでいる者もいる。
 一方で男子は、席にいるものは全員眠っていた。時間が経ち過ぎれば休息は逆に体を動けなくさせるため、頃合いを見て起こさなければいけないほどに寝ている。隼人だけはおらず、気晴らしに歩いているのかもしれない。

(月島もいないのね)

 女子部員たちをもう一度見て、月島がいないことに気付く。二人でいないということは、互いにプレッシャーを緩和しているのかもしれなかった。四月に出会ってから影響を与え合っている二人を外から見ていただけに、静香には行動がある程度予測できた。そのことで心を痛める少女がいることを知っていてもどうにもならない。

「先生。どうしたんですか? ぼーっとして」
「え? あ、ああ……ごめんね亜里菜」
「はい……」

 不思議そうに首を傾げる亜里菜に平静を装って答える。だが、変わりないことを知ったからか逆に亜里菜がそわそわとして質問をしていた。

「先生。どうしていきなり名前呼びなんですか?」
「……あ。そういえばそうだったわね」

 亜里菜の口調には怒りのような負の感情は読み取れない。あくまで、静香が苗字ではなくて名前で呼び始めたことを不思議に思っているということらしい。
 神奈川地区の予選決勝という場所で唐突に訪れた変化に戸惑っているようだった。静香は笑みを浮かべて亜里菜の頭を優しくなでた。

「せ、先生?」
「ごめんね、亜里菜。不安にさせちゃって。でも、私は、もう、大丈夫だから」

 区切ってはっきりと告げる。口にした瞬間にこれまで体の奥に淀んでいた黒い霧がすうっと外へ流れていくように静香は思えた。
 目の前にいる、バドミントンに真剣な生徒たちが思う存分実力を振るえるように。辛いときは支えられるように。もう自分は逃げないと誓う。

「男子たちは勝てる。今までも、嘘は言ったつもりはないけど、決勝も勝てるはず。困った時は、あなたにあげたアドバイスを参考にしてね。男子たちが優勝する最後のひと押しをしてあげて」
「……先生。やっと、こっちに来てくれた気がします」

 亜里菜の言葉に力強く頷いて、自分に言い聞かせるように呟いた。

「さあ、勝ちに行こう」

 全国バドミントン選抜大会神奈川県予選。
 団体戦決勝の幕が、遂に上がる。
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