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● SkyDrive! --- 第百一話 ●

「ポイント。トゥエンティマッチポイント、ナインティーン(20対19)」
「しゃぁああああ!」

 審判の言葉に吼えたのは真比呂、ではなく古賀だった。
 先にマッチポイントを握った隼人たちだったが、そこから怒涛の四連続得点によって一気に一点差まで追い上げた。
 気合いも試合の流れも、誰が見ても古賀と佐野へと傾いている。対して隼人たちは肩で息をして呼吸を整えることもままならない状況だった。

(まずい……でも、ここで後ろ向きになったらもっとまずい)

 隼人は内心に滲み出す弱気を外に出さないように、思い切り息を吸ってから勢いよく吐き出した。肺の中の酸素をほぼ全てなくしてから再度呼吸し、自然と肺の中に入るだけ取り入れる。

「よし。切り替えよう、井波」
「おう」

 視線を向けずに声をかけた隼人は、真比呂の静かで低い声に思わず顔を見る。真比呂は瞼を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻していた。顔から滲み出た汗を右掌で拭ってユニフォームに擦り付けると、見た目上はいつもの真比呂に戻る。それでも気合いを前に押し出す真比呂が静かであることに隼人の中に大きく警鐘が鳴り響く。

(井波も想定以上に消耗してる。これだと、第二シングルスも危ないんじゃ……いや。考えるな)

 隼人は脳裏に浮かんだこれから先のことを頭の中から消す。
 今、この瞬間に集中しなければ一点のアドバンテージなど一瞬で奪い取られてしまう。そして、得点が並ばれてしまえば、今の自分たちには逆転する力は残っていない。冷静に判断して隼人は理解してしまう。

(このラリーが、最後だ)

 第一ダブルスの分水嶺。ここで21点目を取れば隼人たちの勝ち。20点目を古賀たちが得点すれば延長に入るが隼人たちの負け。
 改めて意識すると心の中から敗北への恐怖がこみあげてきて、熱が生まれた頭の中に嫌な冷たさが差し込まれていく。

(真比呂のスマッシュも限界が近い。連続で打たされたらネットにかかる。スマッシュレシーブもパターンを読まれたから確実に決まる時にしか打ってこなくなった。いいコースにシャトルを振られて、甘いシャトルを上げたところで叩き込まれる。ここにきて、ほぼ実力勝負になった。もう、策は――)

 疲労が強い中で脳をフルスピードで回転させてもマイナスの思考が広がっていく。
 建設的な判断を下せない隼人は硬直して、審判が構えるように告げる声さえも届かない。

「隼人。構えろよ」

 脳内の自分の声を貫くように、真比呂の声が届く。その声音に含まれる熱さに驚いて隼人は弾かれるように真比呂を見た。
 静かに、背筋を伸ばして自分を見てくる相手と目が合うと、疲労に丸まっていた背中が徐々に伸びていった。

「あと一点。やってやろうぜ」

 気負いのない、リラックスした声。普段の真比呂らしくはないが、普段以上に頼もしさを覚える。危うく真比呂は口で「頼もしい」と言ってしまいそうになるが、咳払いをしてから礼を言い、ラケットを掲げた。

「しゃあ! 一本!」
「絶対追いつくぞ!」

 シャトルを持った古賀を後押しするように佐野が吼える。
 ネットの穴を通って押し寄せる気迫に、隼人は両足が後方へと滑っていくのではないかと錯覚する。実際には一ミリも動いておらず、腕が下がるのは疲労のためだ。しかし、疲労自体ならば真比呂の方がより多いはずだった。隼人の作戦を理解し、終盤まで常にスマッシュを打ち続けている真比呂は精度も悪くなっていた。だが、それでもマッチポイントまで先に到達できたのは真比呂のスマッシュのおかげ。
 このラリーが最後だというならば、自分が真比呂のカバーをして最後に決めるしかない。

(あるいは、あいつに火事場の馬鹿力を出させるか……一つ、手はある、か?)

 脳裏に思い浮かべたことに隼人は一筋の光を見出す。だが、心理的にその手を取るのは気が引けた。

「一本!」

 隼人が迷っている間に、古賀はショートサーブでシャトルをネットの上ギリギリを越えさせてくる。前に出るタイミングを逸した隼人はせめて鋭くシャトルを叩きつけられないようにと、前に出た古賀のラケットから逃れるようにしてシャトルを力いっぱい高く飛ばした。綺麗な弧を描いて相手コート奥へと進んでいくシャトルを見ながら、隼人はサイドバイサイドの陣形を取って真比呂と並ぶ。

「らあ!」

 シャトルに追いついた佐野が打ったのはスマッシュではなくハイクリアだった。
 第二ゲームの終盤から多用しているクロスのハイクリア。放たれたシャトルを真比呂が追っていき、スマッシュを打ちこむと古賀が鉄壁の守りで跳ね返す。
 じっくりと構えて真比呂のスマッシュを耐えきり、隙が出来れば逆にコートへシャトルを沈めるという横綱相撲をするようになった分、隼人たちには攻めづらくなっている。

「どらあああああ!」

 初撃は激しい音を立てて打ちこまれるシャトル。だが、古賀はしっかりとロブを逆サイドにあげ、真比呂が全力で追いついてストレートスマッシュを放つ。今度は佐野が逆サイドにロブを上げて、三度真比呂が追いついてスマッシュを打つ。
 ラリーは同じショットの繰り返しとなり、徐々にスマッシュの球速が下がるがフォローをすればローテーションの隙を突かれて二十点目が入る。何の策も打てないままに隼人たちは負ける流れに入ってしまった。

(このまま何もしなければ……負ける……なら……!)

 隼人は意を決して後ろを振り向く。高く上がったシャトルを、息を切らせた真比呂が追っていく様子が見える。
 自分の力を全て声に乗せて、真比呂に伝わるようにと願いを込めながら隼人は叫んでいた。

「決めろ! 真比呂ぉおおおお!」

 隼人の咆哮に反応したかのように真比呂の動きが一段階速くなる。
 コートを踏み込む右足の力で跳ね上がり、後方にジャンプをしてシャトルに追いつくとそのまま振り被る。

「おぉおああああああああああああああああ!」

 表情は笑みの形。体の奥底から力が漲っているように、体勢は整っていた。
 左腕は背中から前へと鋭く振り切られ、シャトルにラケットヘッドが当たる。隼人にはその瞬間がスローモーションに見えていた。
 そして、前へと視線を戻して進み出る。
 自分の中に生まれた直感を信じてラケットを掲げて前に出ると、後方から金属音が届く。何度も聞いたことがある、シャトルがラケットのフレームに当たる音。勢いよく振り被ってスマッシュを打とうとした真比呂が、力を入れたばっかりにタイミングを外してしまった。
 隼人はネットを挟んで前にいる佐野の表情が笑みの形に緩むのを見た。
 それでも集中力を切らさずに、次の展開を頭の中でシミュレートする。一瞬で十数パターンを思い浮かべて、佐野がどう打って来ようとも全て封殺するように次手を考えた。

「――っ!?」

 佐野の表情が笑みから驚愕に変わるのを見て、隼人は自分の読みの良い方に事態が転がったと理解する。
 慌てた佐野は明らかに動き出しが遅く、ネットを越えてきたシャトルに対してラケットを伸ばした。苦しまぎれに振ったラケットはギリギリの位置でシャトルを捕えて跳ね返すが、隼人たちのコートへと飛ぶシャトルの軌道は低く、ラケットを差し出すには十分な高さ。

「おあああああ!」

 脳内に思い描いた位置へとラケットを差し出すと、軽い衝撃があってシャトルが跳ね返る。打ち返してバランスを崩していた佐野の背後へと落ちていくシャトルに、後方から古賀が飛び込んできたが隼人の目にはシャトルが返ってくる軌道は読めなかった。
 ドンッ! と大きな音を立てて古賀は佐野の体の傍で止まる。ラケットは差し出したままで、コートに転がったシャトルにあと半歩というところまで迫っていた。

「ポイント。トゥエンティワンナインティーン(21対19)。マッチウォンバイ、高羽。井波。栄水第一」

 審判が試合の終わりを告げる言葉を発したことで、隼人は張りつめていた精神の糸を一気に緩めた。すると足が震えてきて、その場に座り込んでしまう。真比呂も同様だったのか、あるいはフレームショットをした段階で力尽きていたのか、座ったままで振り向いた時には膝をついて俯いている。
 再度、前を向くと負けた古賀と佐野が二人してネット前に立っていた。

「……どっちが勝ったのか分からねぇよ」
「でも、俺らが負けたよ」

 古賀は憮然とした表情で隼人を見下ろしている。佐野は苦笑しつつも悔しさをにじませた声を出して、わざと視線を外しているように隼人には思えた。ふらつきつつ立ち上がると真比呂も同時に立ち上がり、ゆっくりとネット前に近づいてくる。どこか痛めたかと隼人は心配したが、近づいてきた途端に笑顔になって手を相手に向けて差し出した。

「ありがとうございました! めっちゃ楽しかったっす!」
「あ、ああ。ありがとう、ございました」

 唖然としつつも古賀は軽く握手を交わす。隼人も目の前の佐野と握手した後、流れで古賀とも手を握り合う。

「負けたよ。ほんと、ノーマークだった。でも、団体戦は俺らが勝つ」

 それだけ言うと古賀は隼人の手を離して去っていく。後姿を追うように歩き出す隼人はふらついて倒れそうになった。
 その体を受け止めたのは純だった。

「……お疲れさん」
「ああ。凄く、疲れた」

 震える足をしっかりと床につけて隼人は立ち上がる。純はばつが悪そうに視線を背けつつも、タオルを差し出してくる。受け取ってから純の肩に手を置いて何とかコートの外に出るとすぐにパイプ椅子へと座りこんだ。

「中島と、鈴風はどうなってる?」
「あいつらも頑張ってるよ、本当に」

 俯いて顔を上げられない隼人にもスコアを言わないのは、勝敗が決しているからか。確かめようにも隼人は鉛が肩に重くのしかかっているかのように、上半身を起こすことができない。展開を知りたいという気持ちも疲労感の強さに沈み込んでいく。

(想像以上に悪いな……シングルススリーまでにどれだけ回復できるんだ)

 第一ダブルスを勝ったことで隼人の中に次以降の展開が思い浮かぶ。
 相手の第一ダブルスを下したことで、全員に精神的にダメージを与えられたかと思えばそうでもない。負けたことに対して素直に受け止め、団体戦に勝つと告げた古賀と佐野の姿を見ていると、逆に気合いを漲らせてこちらに襲い掛かってくるとしか思えなかった。

(中島と鈴風が勝てばもう少し楽になるけど、実際には厳しいはず。なら小峰には勝ってもらうしかない。そして、今の井波なら勝機は十分あるはずだけど……)

 真比呂のことで気にかかるのは自分と同様に体力の消耗だった。
 終盤には口数も少なく、明らかに動きも気迫も鈍っていた真比呂。
 これから第一シングルスの試合が始まるだろうが、それから先の展開によっては三十分休めるかどうか分からない。ダブルス以上にコートを動き回るシングルスで体力を減らした真比呂に勝機があるかと考えて、どうしても低い方に転がってしまう。
 ならば、最後は自分の出番。

「今は18対14で相手ダブルスのリードだよ、隼人君」

 俯いたまま思考を深めていた隼人の耳に届いたのは亜里菜の声だった。隣に座って隼人を覗き込むようにして告げる亜里菜は、隼人がしてほしいことを行っている。
 今の隼人が、疲れていても脳を回転させて次以降の作戦を練っていて、そのために今の情報が必要だということを理解していた。
 試合中の理貴を除けば、最も隼人に近い存在だ。

「サンキュ。ファーストゲームは、やっぱり向こうが?」
「うん。それでも22対24で延長に入ったんだから。大分接戦だよ」
「……いい意味で想定外だよ」

 第二シングルス、第三シングルスにもつれ込むのは仕方がないとして、必要なのは時間だった。
 隼人と真比呂が回復する時間を稼ぐにはできる限り、ダブルスの勝敗決定を遅らせる必要がある。重複して出場している選手の回復を図るのはある程度審判によって考慮されるが、三勝でストレート勝ち抜けという可能性が感じられる限り、第二シングルスの開始は遅れる。可能であれば、第二ダブルスには逆転して第二ゲームを取ってほしい。
 隼人の思考を読むかのように、亜里菜は声を潜めて隼人に囁く。

「理貴君と賢斗君は追い上げてる。まさかってことが、起こるかもしれないよ。真比呂君を信じたように、信じてみたら?」

 真比呂のことを、と持ち出されて隼人はただでさえ熱い頭に血が上っていくのを感じた。
 咄嗟に当人へと視線を向けると、椅子に深く腰掛けて前方に頭を倒していた。頭部にはタオルを被せていて、呼吸による浮き沈み以外は動かない。隼人と亜里菜のやり取りを全く聞いている様子もなく、全力で疲労回復をはかっているのが良く分かった。隼人は二重の意味でほっとしつつ、亜里菜に告げる。

「あいつらの応援。任せていいか。外山と小峰と井上に。俺も……こいつのように休む」
「うん。頑張ったもんね。さすが隼人君」
「……ああ」

 純の返答の歯切れが悪いことに気付いても隼人は何も言わずに、パイプ椅子に座って真比呂と同じような体勢になって頭にタオルを被った。

 ◇ ◆ ◇

(凄い……こいつら。こんなに上手かったんだ)

 純は理貴と賢斗のダブルスを見て素直に認めていた。相手の第二ダブルスは自分と理貴が試合をすると考えても格上で、勝てるか分からない。ファーストゲームで見せた限界ギリギリの試合を、自分と理貴ならば可能かと考えて否定する自分がいる。

(何が足りないのか、分かってる。上手くなってるのもそうだけど……それだけじゃない)

 純の視線の先で、前衛で素早くラケットを掲げたのは賢斗だった。本来なら前衛で力を発揮する理貴は後衛に回ってスマッシュやドライブを使って、できる限りシャトルを浮かせないように打ちまわしていた。
 賢斗はほとんど前衛に張りついて、相手から放たれるシャトルを受け止めることだけに終始する。下手に動いてラケットを振るえば速度に対応できずにチャンス球を打ち上げると理解しているため、あくまでも差し出すだけ。それは外から見れば不格好ではあるかもしれない。しかし、賢斗が自分のできる範囲をはっきりと自覚している証拠だった。
 賢斗が役割をこなしている間に、理貴がカバーすべき部分を広げて対応する。お互いのできることを信頼してシャトルを打ち続ける姿は、周囲の想像以上に相手ダブルスに喰らいついていた。

「ナイスショット! いいぞ鈴風! 中島!」

 同時に試合をしていたために今は沈黙している隼人と真比呂の分まで声を張り上げているのは礼緒だった。第二ダブルスがどう転んでももうすぐ出番であり、既にジャージを脱いでユニフォームを着て準備を整えている。それでも肩を暖めることもせずに応援していた。
 純は大事な時に試合に出られない気おくれから、どうしても声を張り上げることは出来なかった。

「ポイント。トゥエンティオール(20対20)」

 離されていた点差を徐々に詰めて、遂に同点に追いついた理貴と賢斗に客席から拍手が沸き起こる。リードしていたはずの横浜学院側も脅威を感じているのか改めて気合いを込めなおしてラケットを構えた。

「一本!」
「っし! 一本だ!」

 賢斗のショートサーブで運ばれたシャトルがプッシュで叩き込まれても、理貴が拾ってロブを上げる。必死に追いかける姿を見て、純は座っていられずに立ち上がろうとした。その動作を、手を抑えて留めたのは亜里菜だ。

「よく見てて。純君。全部、見てて」

 静かな言葉は反論を許さない。純は逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて、歯を食いしばりながら目の前の試合を見続ける。

(理貴……鈴風……)

 握りしめる掌に滲む汗は、試合を見ることの辛さの他の熱さを持っていた。
 そして、試合は――。

「ポイント。トゥエンティファイブトゥエンティスリー(25対23)。マッチウォンバイ、菅・戸塚。横浜学院」

 二連続のセティングの末に試合を終えた四人には惜しみない拍手が降り注いでいた。
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