耳に入ってくる雑音が全部消えたみたいだった。

 コートの、服の下からは汗が出始めていて、心臓は鼓動を早めている。

 額に滲む汗が中村に伝わらないか焦った。でも中村は俺の胸に顔をうずめている形にな

っていて、上を見上げてこなければ気づかないだろう。

 そこで、中村が言葉を発した。



「高瀬君……どうしてこんなことしてるの?」



 くぐもった声で聞こえにくかったけれど、確かにそう聞こえた。

 応えようと思ったけれど……俺にも良く分からない。

 そこで蘇ってきたのはふられた時の中村の言葉だ。



『ごめん。今は、高瀬君と一緒にいたくないんだ』



 あれから……四ヶ月くらい。

 中村の今の思いはどうなんだろうか。好きだった人が死んでから、人を本気で愛せなく

なった中村。その傷が癒えているとは思えない。俺には理解出来ない痛みだけれど……少

なくとも、あの時にあれだけのことを言えるってことは、まだまだ足りないはずだ。

 その沈黙が意外と長かったのか、中村は更に言葉を重ねてくる。



「まだ……私のこと……」



 まさか中村のほうから言うつもりか!?

 とっさに身体を離して中村の顔を見る。

 中村はいつもののほほんとした顔はなくて、無表情で俺を見ていた。本当に何の感情も

見分けられない。これから先に俺が言う言葉によっていくらでも変わる余地があるとでも

言わんばかりに。



「あ――」



 言葉が上手く出てこない。

 とうとう汗が滴り落ちた。このままだと湯気が出てきてしまいそうなくらいに。

 だから、一度深呼吸をして息を整える。



「俺は――」



 と、次の瞬間、中村は一瞬で俺の手から離れて距離をとっていた。

 嫌われた? 俺が言おうとしていることを悟って?

 やっぱりまだ――



「お姉ちゃん」



 唐突にその言葉が聞こえて、後ろを振り向くと犬の巨体が迫ってきていた。

 飛びついてきた犬をとっさに足を踏ん張って受け止める。



「うぉんうぉん!」

「……ごーちゃん?」



 視線を犬から少し前に移すと、一紗ちゃんが立っていた。

 一紗ちゃんの登場で、中村との間にある空気は霧散した。俺はごーちゃんにまとわりつ

かれ、中村は走ってきた妹と話している。一紗ちゃんも俺に任せて置けば安心とでも言わ

んばかりに俺には意識を配ってないらしい。

 何故か信頼されているんだろうけれど……どうしてだろう?



(それにしても……一紗ちゃんと中村は似てるよな)



 夏に中村三姉妹と花火をした時、もう一人みなほと同い年の妹がいたっけ。たしか梓だ

ったか……その娘は少なくとも表面的には中村とは違った。内面はどうかは分からないけ

ど。でも一紗ちゃんは中村と雰囲気的に同じ。

 二人を見ていると……何やら妙な気分になる。

 話が終わったのか二人して俺に近づいてきた。何やら意味深な表情で俺を見てくる。



「何?」

「あー、ごめん高瀬君。ちょっと妹と帰るからここでお別れね」



 俺の手に下げられた袋を取って中村は言った。

 断る理由も特にない。

 仲間外れにされたようで少し寂しい気もするけど、姉妹の間には入れないだろう。



「高瀬さん。どんなチョコが好きなんですか?」



 もう一つ、ごーちゃんを繋ぎとめてる紐を一紗ちゃんに渡した時に尋ねられる。

 もしかしてチョコをくれるんだろうか?



「いや、チョコだったら何でも良い感じだけど」



 実はチョコはあまり食べないからどれがいいとかは分からない。一紗ちゃんは少し不安

そうに俺を見てきた。もう少し気の聞いたことを言えればいいのだけれど。

 ふと思いついて、言葉を付け加える。



「あ……別にチョコ嫌いってことじゃないよ。一紗ちゃんの作ってくれたものならどんな

のでも嬉しいよ」

「え――」



 突然、一紗ちゃんの顔が赤くなる。その変化に俺も動揺して次の言葉を出せない。

 結果として二人で向き合ったまま変な空気が流れる。



「さーて、いこうよ、一紗」



 横から伸びてきた中村の手が一紗ちゃんの腕を掴み、ごーちゃんと共に少し引きずって

いく。



「じゃーねー、高瀬君」



 その声に少しトゲがあったのは気のせいじゃないだろう。



「なんだったんだ? いったい……」



 呟く自分の声に疲れがあったのも、気のせいじゃないだろう。



* * * * *
 あっという間にバレンタインデーの朝が来た。  気分的なことでバスを使わずに歩いて学校に行ったから、ついた頃には少し汗が流れて いた。校門の前で息を整えていると、後ろから声をかけられる。 「おっす、高瀬! 今日も気合入ってるか?」 「俺はいつも気合は普通だ」  いつも通りイベントごとに気合を入れている支倉を尻目に、俺は歩き出す。  慌てて支倉も後を追ってきたけれど……何を期待しているんだろう?  やけに目を輝かせて俺を見ていた。 「……なに?」 「んーや、なんでもない」  なんでもない割には意味深な笑みを浮かべて、俺の後をついてくる。それがやけに気に 障って、思わず大きな声を上げていた。 「お前なぁ、ちょっと気持ち悪いんだけれ――」  そう言って振り返った時……つまり、玄関に背を向けた時、いくつかの気配を背中に感 じた。支倉はにやにやと笑いを浮かべたまま。  俺は冷や汗をかきながらゆっくりと玄関に視線を戻した。  そこには、五人くらい女の子が立っていた。  一瞬の間。  そして、一斉に俺へと押しかけてきた。  クラスに入った俺を見た中村が、目を見開いているのが印象的だった。他にもクラスの 男女が向けてくる視線を気にしない振りをして、俺は自分の席へと向かう。  机の上に俺の手を埋めていたチョコレートを下ろして、ようやく一息ついた。 「おはよう高瀬君」 「朝から収穫凄いわね」  中村と青島。順番にかけらえる声。その後ろで息を飲んだのは支倉だろう。  俺が振り向くのと同時に女子二人も支倉を見たらしい。俺達三人の視線に支倉は一歩後 ろに下がった。何を言われるのか分かっているんだろう。そのまま自分の席へ逃げようと した支倉に中村が禁断の言葉をかけた。 「支倉君は収穫なし?」 「――いいのです! 僕は中村さんからもらえれば!!」  支倉は半ば泣きそうになりながら俺を睨んできた。  朝から絡んできたのは、俺といることで義理チョコの一つでももらおうという戦略だっ たらしい。  結果は大失敗だったようだ。  というか、俺もどうしてここまでもらえるのか分からない。全部義理のようだけど…… 「あ、手紙入ってる」  中村に言われてチョコの山の中を捜すと三枚の便箋があった。  感じからして……やっぱり告白の手紙なんだろうか。  席に座って封筒を開こうとすると、傍に立っている中村に気づいた。青島はすでに席に 戻った支倉と話している。ちょっと視線を移すと、チョコを手渡していた。 「青島! お前のことを誤解していた!!」 「いや、義理だから」  感動する支倉を尻目に青島は他の男子にもチョコを配り歩いた。俺達のように仲がいい 男子も何人かいるらしい。  それよりも隣にいる中村だ。 「どした?」 「ん……それって多分告白の手紙だよね」  中村の視線は俺の手元に注がれていた。流石に中村がいる前でもクラスメイトが居る場 所でも見れないから、今見る気はない。でもどうして中村がそこを気にするのかが分から なかった。 「……中村、見たいの? まさか」 「流石にそれはないけど……」  少し不安そうに呟く中村。何故か俺の態度を伺っているらしい。  どうしたんだろうか?  何か違和感がぬぐえない。今までの中村じゃない。 「なあ、何かあったの?」  俺が言っても中村はどこかそわそわしていて、結局何も言わないまま自分の席に戻った。  何だったんだろうか。  朝のチョコ攻勢のあとは比較的平和だった。昼休みに中村達の目を盗んで読んだ手紙の 相手にも、指定された場所に行って断った。ちょうど昼休みに呼び出しされていたから、 もう少し後で見たとしたら間違いなく会って断ることは出来なかっただろう。それはさす がに失礼だ。  そのまま支倉が泣き叫んだこと以外は穏やかに時間が流れる。あっという間に放課後に なり、掃除も終わった。 「高瀬君」  帰ろうと鞄を取り上げたとき、中村が声をかけてきた。背中を向けていた状態から声だ け聞くと、いつもと変わらない。でも、朝から少しずつ感じていた違和感があるからその まま受け取れない。  どうしてこうも不安になるんだろう?  顔に出さないように気をつけて、中村へと顔を向けた。  そこには普通に笑っている中村がいた。 「あのさ、今日、あそこに来てくれないかな?」 「あそこ?」 「陸上競技場」  その単語は、俺にとって特別なものだった。  中村にふられた場所。  青島に中村の過去を聞いた場所。  俺が何かあったときに、空を見上げた場所。  結局、そこに還るのか。 「雪降ってたら?」 「それはその時考えよう。部活後だから……八時、いいかな?」  俺は言葉じゃなくて頷きで肯定した。  言葉にしたら、現実感がなくなってしまいそうだったから。  中村は何を求めているんだろう?  あの場所に呼び出して、チョコを渡してくれるのか?  その後に俺が望む展開が待ってるのか?  あるいは……俺の思いに「鬱陶しいからやめて」とでも?  考えるとどんどん暗い方向へと進んでいく。今までほとんど『そんな素振り』を見せて なかったじゃないか。確かに新学期からもう少し中村は変わった気もするけれど。  気づくと中村はいなかった。もう合唱部に向かったんだろう。 「ふぅ」  自然とため息がこぼれていた。  時計を見ると、時刻は五時。  残り三時間で何かが終わる。何かが変わる……ような気がした。
* * * * *
 夜が来るのは意外と早い。俺は家に帰る気も起きなかったから、家には遅くなると連絡 をいれて信と外食をしていた。  テニス部の練習も休みらしく、俺の頼みを快く聞いてくれた。  持つべきものは友達だな……。 「ところで、これはおごりだよな?」  ……前言撤回。  でも俺が言ったから信もついてきてくれたわけだし、おごってやるか。  信が指し示したメニューを見て、思わず顔をしかめる。 「ずいぶん高いデザートだな」 「七百円は伊達じゃないだろう」  それはイチゴパフェをベースにいろいろなトッピングが積もった一つの山だった。  カロリーが表示されているので見てみると、値段と同じくらいの数値。きっと牛乳が入 ってるから多いんだろう。 「お前太るぞ?」  そう言って気をそらそうとしたけれど、信は不敵な笑みを浮かべて取り合わない。 「それだけ動けばいい」  そのままパフェは注文された。  夕食を取る間、信は俺が誘った理由も聞かずに、ただ笑い話を聞かせてくれた。  会話の中に優しさが見えて、心の中でありがとうと言った。  口に出すには……恥ずかしすぎた。  信が話し相手になってくれたおかげで、競技場につく頃には八時少し前になっていた。 この辺りには外灯も少なくて、晴れていれば空に浮かぶ星がとてもよく見える。  今日は雲ひとつ無くて、瞬いている星がたくさん見えた。その綺麗さに「はぁ」と呟く と息が昇っていく。  光と白い息が交じり合う。  澄んだ空気が肺に入ってきて、思わず目を閉じた。  車も通っていないからか、そうすると自分が周りと一体化しているような気分になる。 冷たい空気が俺の身体を通り抜ける。周囲と同じように吹き抜ける。  俺の中にあった不安な気持ちが冬の空気に浄化されていくみたい……。 「待った?」 「んや。五分くらいかな」  自然と手を広げていたらしい。目を開けて、ゆっくりと手を下ろしてから振り向いた。  中村が頬を少し赤くして、そこにいる。  手を伸ばせば頬に触れられる距離に。 「これ、バレンタインデーのチョコ」  手袋をわざわざ脱いで、チョコレート色の包装紙で包まれたチョコを渡してくる。  それを受け取ろうと手を伸ばして、掴んだ瞬間、中村は口を開いた。 「少し、話良いかな?」  それは終わりと始まり。どちらの始まりだろうか。


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