その日は朝から快晴だった。

 弱くなってきた太陽光を遮るものが何もないため、存分にエネルギーが俺達に降り注ぐ。

 気温は十月中旬の気温らしく、やっぱり暖かい。

 正に走るのにはちょうどよい日だった。



「はぁ……」



 空は青かったが、隣は暗かった。ため息とともに生気まで抜けていくかのような支倉の

肩に、俺は手を乗せた。



「まあ、しっかりしな。中村も遠く空の下から応援してるぞ」

「その棒読みの台詞じゃなければはしゃぐんだがな」



 声に感情が出ていたか。やはり俺はポーカーにはむかない。

 中村がいないというのは意外と大きい穴らしい。今回、クラスの男子達がいまいち乗り

気じゃないのは明らかに中村がいないからだ。

 合唱部の面々は今頃は他校と交流しているらしい。

 何か、中村憧れの人とやらがいるそうだし……少し嫉妬もする。



「あんまり落ち込まないで、支倉君」

「青島……俺の中村さんへの愛の強さは知っているだろう……だからこそ! 彼女がいな

いイベントなんてカツの乗らないカツどんだ!!」

「それじゃただの丼だろうが」



 支倉が叫び、青島が笑い、俺が突っ込む。

 いつもの光景に戻る気がしたが、俺は青島の顔に少し疲れがあることに気づいた。

 そういうのをあまり見せない青島だから、やけに気になる。



「青島……調子悪いのか?」

「ん? そんなことないわよ」



 答えてくる青島の顔はいつも通りだった。

 さっき見た疲れた顔の気配などどこにもない。俺の見間違いだろうか……?

 でも、俺から目を離した青島が一瞬動きを止める。俺は即座に青島の視線を追った。

 そこには、一人の男が立っていた。

 視線は俺達のほうには向いてなくて、傍にいる男子に話し掛けている。どこかで見覚え

がある人だった。

 そして、青島の反応から想像すると、その男は青島の彼氏に間違いないだろう。



(……やっぱり、上手くいってないんだな)



 一つの恋愛が終わろうとしている様子は、やっぱり辛かった。





 マラソン大会は特にクラス対抗と言うわけじゃない。

 ただ、どうやら十位までにはいろいろと商品が出るらしい。

 例年は二年生の運動系の部活の主力選手が上位を占めるようだ。流石に文化系とか帰宅

部の人間には十位以内に入るような体力はないだろう。



「そんな中で上位に入るのってかっこいいよな」

「信はばりばりの運動系だろうが」



 スタートラインに並ぶ頃になって、信が傍に寄ってきた。何故か頭には緑のハチマキを

している。周りを見回すと、何人も同じようなハチマキをしていた。

 俺がいぶかしげに見ているのが分かったんだろう。

 信は苦笑いをしながら言ってきた。



「テニス部を判別するために付けされてるんだよ。うちの部、五十位以内に入らないと罰

ゲームが待ってるんだ」

「なかなかきついな……何人いるの?」

「一年二年で三十人だぜ。あぶれる奴絶対出るのにさ……」



 信は肩を落とした。でもその動作はわざとらしく、俺にはそう言っていてもちゃんと五

十位以内には入れる自信があるように見えた。

 ……忘れてたけど、こいつ全国で結構いいところまで行ってるテニスプレイヤーなんだ

よな。それなりに体力あるだろう。



「ちなみに罰ゲームって?」

「部員同士でポッキ−ゲームだ」

「いいじゃん。お前もう、ファーストはみなほに上げてるんだろ?」

「なななな……あっ!」



 俺の言葉に反論しようとして、信はいつか俺にみなほとのキスシーンを見られたことを

思い出したんだろう。口をパクパクとさせたまま中空を見ている。

 俺は笑いをこらえるのに必死だった。



「……確かに、みなほちゃんにとはキスは済ませたが……やはり男とはしたくない!」

「でもポッキ−ゲームなら途中で止めればいいじゃん」

「途中で引いた方には一週間テニスコート掃除が割り当てられる」

「掃除より男とのキスを取るのか……」



 そこまで話して、俺達は会話を切った。

 放送部がマラソン大会の始まりを告げる。スタートラインに全員を並べさせ、静かにす

るように促した。基本的に隊列は自由らしく、周りには三年生や二年生が見えた。



「そう言えば支倉がいないな」

「あいつ、一花咲かせるって言って最前列行ったよ」

「……なんとなく、考えていること分かるな」



『位置について、よーい』



 パーンっ!



 こうしてマラソン大会が始まった。





 学校から出て前の坂を降りる。

 見物客が何人かいて、小さな子供が手を振ってきた。俺の前、そして後ろを走っている

生徒の顔がほころんでいるのを見て、俺もにやけているんだろうなと思う。

 信は俺よりも速いペースで走っていたから、もう少しで俺の視界から消えるところまで

進んでいた。俺は俺で、初めてのマラソン大会だし、少し頑張ってみようとは思うんだけ

れど、体育では四キロしか走ってないし、その三倍をいきなり走れと言われても実感が湧

かない。

 結果的に、ゆっくり目のペースで走っている自分がいる。



(支倉はどうしたかな……)



 最後に見た時は「伝説を作る」と言っていたけれど……なにをするのかは想像がついた。

スタートダッシュして、一瞬だけトップにいようと言う魂胆だろう。

 それはそれで良い輝き方だ。



(そこからどれだけの間コースを進まないといけないのかを分かってないだろうけれど)



 坂を降りて、今まで行ったことのない道路に入る。

 まだまだ集団で走っていくのかと思ったけれど、すぐに細長い列になっていた。

 そして……



「お前……一瞬の青春だったな」

「は……は……はぁ……はひっ……」



 歩きはしていなかったが、足を出すのもおっくうだという感じで、支倉が走っていた。

顔には汗が滝のように流れ、息は休まる間もなく吐き出されている。



「まあ、頑張って完走しなよ」

「ぐはぁ……」



 瀕死の支倉を置いて、俺はペースを元に戻す。規則正しい息のリズム。

 俺達が進む風景は徐々に民家がなくなっていって、見通しが良くなる。緑が増えていく

中を軽快に走るのは気持ちがいい。

 疲れない程度に身体を動かす中で、俺は風になっていた。

 先生達が道が分かれる地点に立っていて、応援の言葉をかけてくれる。

 風が少し強くなってきて、何故か手に持っている旗が、凄い勢いでめくれている。俺達

は走っていて汗をかいているからこの風は心地よく感じるけど、ただ立っているだけの先

生達はさぞかし寒いだろう。

 実際、一人の先生は顔を青ざめさせていた。大丈夫だろうか……。

 六キロを過ぎて、見知った背中が見えてきた。



「……お前、意外と速いな」

「なんでまたここに?」



 体力を消耗するから、最小限の会話にとどめる。

 別れた時の信のペースならばまだ追いつけるはずがない。

 ていうか、追いつくことはないはずだ。



「ゆっくり走るとか言って、速いぞ」



 信が半ば呆れたように言ってくる。俺はふと今までの道程を思い返してみた。

 確かに途中から少しペースを上げて、何人も参加者を抜いた気がするが……そこまでペ

ース速かったっけ?

 信に言い返そうと思ったけれど、意外と息が苦しくて断念する。

 ……強い風の中でペース配分間違えたか?

 気づくと信との差が開いている。ペースを変えた気はしないけれど、徐々に遅くなって

いるらしい。ここで一度落ち着く必要があるだろうな。

 離れていく信を見ながら、俺はふと中村のことを考えていた。

 今頃は歌って他校と交流しているらしい。

 聞くところによるとほとんど遊びになるとか……。



(俺がこうやって走って苦労しているのに)



 そう思うとちょっと腹が立ってきた。別に中村が悪いわけでもないけれど、このままだ

らだらと走るのもどうなんだと思えてくる。



(少し、頑張ってみるか……)



 ちょうど八キロ過ぎの地点に立っている先生が見えた。

 残り四キロ。いつも体育で走っている距離になる。



「あと四キロだぞ〜。頑張れよ〜」



 数学の太田先生だった。その顔には風に吹かれてるからか、疲れがたまっている。

 逆に俺には力が湧いてきた。

 先生の横を通り過ぎて、俺は痛み出した腹に意識をやらないようにしてペースを上げ始

めた。

 わき腹の悲鳴を押さえつけてペースを速めてから考えたのは、信に追いつけるかという

ことだった。どうせなら高い目標を設定したほうがいい。間違いなく信は四十位以内には

入る。なら、あいつに追いつけるならば、帰宅部としては異例な結果になるだろう。

 他の運動部を差し置いて、四十位以内というのは実は凄いことだ。



(……苦しいけれど)



 実際、すぐに限界が目の前に迫ってきている気がした。

 コースは体育でいつも走っているところに戻ってきている。

 もう慣れているコースだからまだ楽になれるかと思ったけれど、距離を体が知っている

からか逆に足が重くなっていく。



(雑念を……とりされ……)



 一人、また一人と俺の前を走る生徒を抜いていく。

 呼吸を徐々に早くして、少しでも酸素の流れを良くする。そうすることで脇腹の痛みも

和らいでいった。

 なるべく背筋を伸ばして、小刻みに足を動かす。もう一瞬でも気を抜いたら限界を突破

してしまうだろう。

 残り二キロの地点に、また先生が立っている。丸山先生だ。

 通り過ぎる生徒達に大きな声で何かを言っている。

 俺もそこを通り過ぎる際に、大きく声をかけられた。



「四十七位〜」



 どうやら先生は順位を教えてくれるらしい。

 ……あと、七人!





 七人を意識して走りつつも、中々前を進む生徒との差は詰まらない。そのまま残り一キ

ロとなる。ここからはほぼ一直線だ。ただ、ゴールがある学校のグラウンドにいくには坂

を登らなければならないけど。



(うーん……)



 そう考えているうちに坂が見えて、徐々に足にかかる負担が重くなる。

 坂に入って、一気に足に加重がかかった。

 あまりのきつさに歯を食いしばって耐えながら足を前に出す。

 もう一歩一歩足を踏み出すだけでも汗が出てくるけれど、止まったら止まったで心臓ま

で後を追いそうだ。

 頭がぼうっとしてくる中で、それでもゴールが近づいてくる。

 いつの間にか一人抜いて、俺はグラウンドに入った。

 すでにゴールした生徒達が後続のランナーを応援しているらしく、何か声が聞こえる。

 もう俺は前に進むだけで精一杯だったから、何を言ってるかは分からない。

 でもそれは、俺に何か力を与えてくれたんだろう。

 トラックの残り四百メートル。俺はスパートをかけた。

 思い切り手を振り、反動で身体を前に進めるようにして、一人でも抜かそうと走る。

 四十六人目の背中がすぐそこに見えて……



 俺はそのままゴールをくぐった。









「お疲れ」



 しばらく歩いた後に芝生に倒れていた俺に、配られていたスポーツ飲料を信が渡してく

れた。ゆっくりと身体を起こして、俺はそれを受け取る。プルタブをあけようとして、力

が入らないことにようやく気づいた。



「……開けてくれ」

「おうよ」



 信が口を開けてくれた缶を受け取って、落とさないように気をつけながら飲む。

 飲む体力もなかったように思えたけど、気づけば一気に飲み終えていた。



「いやー、走ったな」

「そうだなぁ」



 飲み終えてから草むらに倒れる。空を見ると雲はなかった。遠くを見ると雲はあったけ

れど、俺の真上は晴れている。



「最近、いろいろ考えてたようだけど、気分晴れたろ」

「……ああ」



 何も考えずに走った。

 それは俺の中のもやもやを吹き飛ばしてくれた。

 ……今、俺の上に広がる青空のように。





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