「高瀬。十七分三十八秒」



 ゴールにたどり着いたときに丸山先生がタイムを言ってくる。

 俺は立ち止まらずに、足を動かしたまま息をゆっくりと整える。鼓動を早めていた心臓

が元のペースに戻り、体中から噴出した汗が身体を冷やす。



「なかなかの……タイムだな……高瀬……」



 気づくと、後ろに支倉が腹を押さえながらついてきていた。最後の数百メートルで引き

離したのに、もう追いついてきたとは……。支倉も意外と体力あるんだな。



「それにしても、この時期にマラソン大会とは……」

「初雪が降ったってのに、また降り出したらどうするんだろうな」



 と、俺は言いつつも周りを見回す。

 初雪はとっくに溶けたし、天気予報も十二月に入るまではもう雪は降らないと言ってる。

最近は特に雨とかに関しては当たってるから、信用出来るだろう。

 まあ、例年マラソン大会はこの時期らしいし、仕方がない。



「お。中村だ」

「うおー! 中村すわぁん!」



 俺の言葉に反応して支倉は駆け出していく。

 女子は俺達よりも早めにコースに入っていて、ルートが違うから追い抜かすことはなか

なか無い。

 女子はまだ三分の一くらいしか帰ってきてないから、意外と中村も体力があるほうなの

かもしれない。

 見ているうちに、中村はゴールを抜けた。隣にはすでに支倉が陣取っていていろいろ話

し掛けている。



「さすが中村さん! 足速いですね〜」

「合唱部だしね……」



 答える中村もさすがに息が苦しいのか、いつもよりも声の調子は落ちていた。

 まあ、男子よりも一キロ少ない三キロとはいえ、やっぱり走った直後は辛いだろう。

 それにしても……。



「本番は十六キロだなんて、やってられないな」

「女子はまだ十二キロだからましよね」



 先に帰ってきていた女子の三分の一の一人、青島がいつの間にか俺の後ろから近づいて

きた。俺も首だけ振り向いて、答える。



「確かにな。四キロで十七分なら、四倍じゃん」

「高瀬君はペースが落ちないのね」

「まあ、今も本気出してないしな」



 本気出していないといっても八割くらいだから、ほとんど本気だ。

 早く帰ってくれば他のクラスメイトが帰ってくるまで休めるし、ペースを速めたわけで。

 俺は支倉とともに近づいてきた中村に言った。



「中村もこれなら本番も大丈夫だな」

「わたし、本番は出ないよ」

「えっ!?」



 最も驚いたのは支倉だった。



「どどどどどど、どういうことですか!? 中村さん! 僕のマラソン大会での勇姿を見

てもらうと必至で練習してきた僕の思いはどこに行くのですか!?」

「いや、全然分からないけど。マラソンの日にはわたし、いないもの」

「そんなぁ」



 支倉は泣き崩れるように地面に膝を落とした。よく見ると目が潤んでいる。

 まさか本気で泣きそうになっているとは……支倉よ、南無って感じだな。



「でもどうしてだ?」



 放心している支倉の変わりに中村に理由を聞く。

 俺の言葉に中村は「あっ」と小さく呟いて、頭をかいた。



「そういえば言ってなかったよね。マラソン大会の日って高文連に行ってるんだよ」

「こうぶんれん?」



 初めて聞く響きの言葉だ。首を傾げる俺がおかしかったのか、青島と中村がかすかに笑

う。それが恥ずかしくて、俺は咳払いをしてごまかした。



「……で、こうぶんれんって?」

「うん。ほら、高体連ってあるでしょ? それの文科系部版だよ。道内の合唱部が集まっ

て交流するんだよ〜」



 その口調の中に、俺はいつもの中村には含まれない期待感が入ってることに気づいた。

俺と同じように感じたのか、青島も少し意外な顔をしている。俺達の視線に気づいた中村

が、はっとして口を抑える。

 どうやら自分でも感情が自然と口を伝って出てきたことに驚いているんだろう。

 俺と青島には、それは別の意味を持っていた。

 中村は人と心の底から触れ合うことを恐れている。

 だから表面的に笑ったりしてその部分をごまかしている。自分の心の底からの感情もほ

とんど表に出さない。

 でも、今は本人も無意識のうちに口調に出ていたんだ。

 その感情が何なのかは分からないけど、いい傾向のように思える。



「中村さんっ!! そんなに嬉しそうだなんて……まさかその高文連とやらに好きな男で

もいるのですか!?」



 微妙な沈黙が流れる中に、復活した支倉が割り込んでくれた。おかげで空気も元に戻り、

俺は安堵のため息をさりげなくつく。

 中村は少し困りながらも、言った。



「好きな人っていうか……凄いいい声の人がいるんだよ。それにかっこいいし。だから見

るの楽しみだなぁって……」

「そんな! 一時の気の迷いですぞー!!」

「そこ! うるさいぞ!!」



 丸山先生の怒声が飛んで、俺達は体をすくませた。



* * * * *
 マラソンの練習のあとでご飯を食べると、凄く眠くなる。  というわけで、数学の授業は何か記号の羅列が頭の中を流れていた。ぼんやりと記号の 洪水を受け止めながら、俺は中村のことを考えていた。  そう言えば、中村がいない学校のイベントって初めてだ。  何かやる気がぬけて行く気がする。 (やっぱり中村の存在が大きいのかもなぁ)  視線を支倉に移す。  席換えで俺は窓際をゲットしたが、あいつは運悪く教卓の目の前だった。  それにも関わらずどこか上の空で黒板を見つめている。でも手は文字を写すためにノー トの上を行ったり来たりしていた。  ……見ていると不気味だ。まるで筆記機械みたいだ。  でもあいつも中村が今回はいないということがショックらしい。  昼休みも昼食に欠かさなかったガラナを飲み忘れ、食べ終えてからいきなり買いに行っ たほどだ。  別にマラソン大会の日だけ居ないって言うのに……どうしてここまでショックを受ける のか。 (休日の日以外、ほとんど一緒に居たから……だよな)  もう十一月だ。  中村と初めて会ってから、もう八ヶ月に入ろうとしている。  夏休みはあまり会わなかったけれど、学校がある日は大体いつも一緒に居た。  いつの間にか、俺の中で中村の存在が本当に大きくなってる。  それに、気づいた。 (……なんか情けない男かも) 「高瀬。この問題解けるか?」  数学の太田先生の突然の問いかけに、なんとか落ち着きを取り戻して答えた。
* * * * *
「高瀬君。元気ないわね」 「分かりますかね、青島殿」  屋上に吹く風はかなり寒くなってきてる。もう少しで雪が降るから、閉鎖されてしまう だろう。だから、それまでの間にここの独特の空気を味わっていたかった。  そんな思いを見透かされたんだろうか? 「お前、部活は?」 「今日は女の子の日なので休み」 「……よく恥ずかしげもなく言えるな」  俺が動揺するのを楽しんでいるのか、青島は口に手を当てて笑ってる。  普通、女の子の日なんて言えないだろうが。異性にさ。 「何を考えてるか分かるよ。まあ、高瀬だから、かな。言えるのは」 「……そうかい」  俺だから、と言われて悪い気はしない。何か青島のペースだった。 「渚、やっぱり少しずつだけど変わってるね」 「そうだな」    中村の様子をずっと見続けてきた青島だけに、彼女が変わる様子がようやく見られて嬉 しいんだろう。  四月から友達を続けてきて、一番いい笑顔をしていた。  少し肌寒い風を受けながら、俺達はフェンスに寄りかかる。  時刻は四時前だけれど、もう少しで太陽は沈むだろう。それまでには帰るつもりだけれ ど、この空間にはまだいたかった。  赤く染まる夕日が沈みかける光景がどこか幻想的で。 「中村のこともいいけど……お前はどうなんだ? 最近」 「私? ……ああ」  陸上部の三年生といっても、もう引退して大学受験に向けて追い込みをかけている時期 だ。どうなんだといってもあまり逢う事に時間割けない事くらい分かるじゃないか。  聞いてみて自分の思慮の足りなさに腹が立った。 「何? 聞いてみて自分で怒ってるの?」 「だって、なぁ……」  こういう時の俺は本当に分かりやすいらしい。  青島は笑って手を振った。どうやら気にしないでくれというジェスチャーらしい。 「まあ確かに先輩には逢えてないわよ。勉強付けだしね。それに……」  青島は少し言い辛そうに俺を見てから、ため息を一度ついて言った。 「結構、熱が冷めちゃったのよ」 「……なんか青島っていっつも唐突だよな」  それでも驚きを隠せたのは、さっき意表を突かれていたからだ。そして青島の言葉と顔 が、悲しそうじゃなかったことも原因だろう。  辛そうに話したなら、俺もどんな言葉をかけていいか分からなかっただろう。 「勉強に本格的に入ったのがさ、夏休みのあとからだったんだ、先輩。そこから一気にあ う機会が減って……まあいろいろあってね」 「……」  いろいろあったのは本当だろう。あまり気づかないけれど、青島は恋愛関係で言えば俺 達より数段進んでそうだ。それだけに、俺達が分からない気苦労があるはず。  それでいて平然と俺に言っているんだ。青島の中では大分整理がついているに違いない。  俺はしばらく無言で空を見上げた。俺に出来ることは黙って青島の言葉を聞くことだけ だろう。言いたいことをただ聞いてくれる相手がいるってことは、とても気が楽になる。  青島は、告白を続けていった。 「いつか高瀬君に泣きついちゃったときあったでしょ? 学校祭の時期かな……その時さ、 事情があって情緒不安定だったのよ。あの日の前に……一線を超えてさ」 「一線って……お、お姉さまと呼んでいいか?」 「ふふふ。いくらでも呼んで」  驚きを正直に表すと、青島もつられて笑った。  青島という女の子を見ていると、姉御肌という言葉がよく似合うと思う。  実際に支倉とか俺とか中村を見る視線はどこか騒がしい年下の弟妹を見ているようなも のになっている。  俺自身がみなほに向ける視線とかなり似ていた。  でも、今俺の前にいる青島はそんな気配も視線もなくて、俺達の横に並んでいる女の子 になっている。 「……高瀬君ってさ、先輩に似てるんだよね」 「俺が?」  青島の告白が続く。  その言葉はちゃかしているんじゃなくて、心の底からそう言っているようだった。 「うん。何かさ、何でも受け止めてくれるような雰囲気を持ってて。実際に、高瀬君は渚 のことも受け入れてくれてる。全部を知っても」 「俺が中村を好きだからじゃないのか?」 「ううん。やっぱり好きって気持ちだけじゃ、渚の抱えてる物の重さに耐え切れなくて逃 げ出しちゃう。渚に告白してくる人って、上辺の可愛さだけ見てくる人がほとんどだった んだ。そりゃあ……渚は自分の本心を言わなかったから、それは責められないけど」  一度言葉を切ってから、言うべきことを整理して、青島は続ける。 「渚とか私とかと仲が良かった男の子は……三村君の件を知ってるから……遠慮してたし、 渚が実は全然私たちに心を開いてないって事が雰囲気で分かるのか、告白するまで踏み込 まなかったの」 「……やっぱり仕方がないだろうな。同じ中学なら三村の事故も隠しようがないし、中村 はミス浅葉中だし、嫌がおうにも、な」  噂がどうあれ、色々入ってくるだろう。  それでも中学時代は告白されたんだろうか。  中村にとっては、わずらわしかっただろうな。 「……話が少しそれちゃったけど、まあ、高瀬君みたいな雰囲気を持つ人に、私は惹かれ たわけ。でも……どうやら私はそういう人と相性が悪いみたい」 「そうなのか?」 「うん。私って『私が弱ってる時には……支えて』っていうよりも、無理やりにでも手を 引っ張ってくれて、あんまり立ち止まってるなら置いてくぞ、みたいな人のほうがいいみ たい」  青島は笑顔を見せると、そのままフェンスから離れて屋上から消えていった。  どうやら俺の役割は今のところ終わったらしい。  最後の笑顔に何か感じることはあったけれど、それは形をなさずに消えていった。 「俺ってそんな風なのか……」  自分の一面をようやく少しだけ理解した気になった。


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